フライハイワークス・黄 政凱の「台湾人だったけど、日本のゲーム会社社長になってみた!」 【連載第1回:少年期編】
海外のさまざまな「おもしろいゲーム」をローカライズし、日本のゲーマーに届けてくれる気鋭のパブリッシャー・フライハイワークス。その代表取締役の黄 政凱さんは、ゲームプロデューサーとしてこれまでに80本以上のタイトルを世に送り出してきました。もともと台湾にルーツをもつ黄さんが、どのようにして日本のゲームにハマり、日本のゲーム業界で仕事をするようになったのか。「ゲームが好き」という思いを貫き、日本に帰化してゲーム会社を設立するまでに至った黄さんの人生を追うコラム連載が始まります。懐かしのゲームタイトルトークとともに、ぜひお楽しみください。
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■コラム執筆にあたってのご挨拶

みなさん、はじめまして。フライハイワークスというゲームパブリッシャーの代表取締役を務めています、黄 政凱(こう せいがい)と申します。このたび、ご縁があってシシララTVさんで僕の半生を振り返りながらゲームに対する想いを語るコラムを執筆させていただくことになりました。

あまり肩肘を張り過ぎず、僕と同じくゲームが大好きなみなさんや、これからゲームクリエイターを目指すみなさんに楽しんでもらえるコラムにしていけたらと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。

突然ですが、僕の両親は台湾人です。でも僕は、日本生まれの日本育ち(途中まで、ですが)。物心ついたときからゲームが大好きで、小学校、中学校、高校、大学……そして今でもずっとゲームを遊んでいます(大人になり、ゲーム会社の社長になった今でもです 笑)。絶対にゲームに関わる仕事に就く。そう心に決めて、一度は台湾に移住することになったものの、また日本に戻ってきました。

いつでも僕を動かしているのは、「ゲームって最高! おもしろいゲームをみんなに教えたい!」という気持ち。そう思い続けて行動していたら、念願が叶ってゲームを世の中に出す会社を立ち上げることができました。今でもふと、「ゲーム業界で仕事ができているなんて夢ではないか」と思うことがあります。それくらい、恋い焦がれてきた仕事だったのです。

ただ、僕のたどってきた道は、ほかの日本のゲームクリエイターたちが歩まれた道とは全然違うと思います。そもそも10年以上台湾にいましたし、ゲーム関係の専門学校に通ったこともありません。それでも、ゲームの仕事に就くという目標だけはブレることなく、出会いやチャンスを必死につかみにいった結果、今の自分があります。

これから語っていくお話は、「大好きなことを仕事にしたい」と思っている人にとっては、何かしら参考になる部分があるかもしれません。というわけで、これから少しの間、昔語りにお付き合いいただければ幸いです。
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■日本のゲームとの出会い、そして別れ

僕は幼稚園から小学校まで、埼玉・大宮のあたりに住んでいました。家はそんなに裕福ではなかったけれど、僕はこの時期、常に最新のゲームをプレイしていました。それはなぜか? たまたま隣りに山田くんという、お金持ちの子が住んでいたからです。「山田」は仮名じゃなくて本名。まさに「となりの山田くん」でした。その子の家に、ものすごい数のファミコンソフトがあったというのが種明かしです。

彼の家にはPCエンジンも、ファミコンをマットで操作できる「ファミリートレーナー」もありました。ファミコンのカセットを入れる専用トランクまで持っていたのです。そしてご両親もゲームに理解があり、どれだけ遊んでいても怒られない。まさに天国でした。僕は、そこではじめて『スーパーマリオブラザーズ』を最後までクリアしました。

学校では野球やドッジボールをし、家に帰ってきてからは山田くんとゲームで遊ぶ。そんな日本での楽しい毎日は、10歳で終わりを告げます。弟のひとりが悲しい事故で亡くなり、失意のなか、両親が台湾に帰ることを決めたのです。異国の地で、夫婦ふたりで子どもたちを育てていくことに心細さを感じたのかもしれません。今では両親も日本に遊びに来ますし、日本に悪いイメージを持っているなんてこともありませんが、このときは親戚の住む故郷・台湾が恋しくなったのだと思います。

ただ、生まれも育ちも日本である僕にとって、台湾は未知の世界でした。言葉も日本語しか話せません。でも、両親の気持ちを察した僕は「日本に残ろう」とは言えませんでした。ただ、「日本から離れたら最新のゲームはもうできなくなる」という寂しさはありました。

その頃、ちょうどゲームボーイが発売され、「日本を離れる前にこれだけはどうしても欲しい」と思っていました。でも、その思いを両親に告げることはできなかった。きっと子どもなりの遠慮があったんでしょうね。そうしたら、両親が「あなたはゲームが好きだから」と、台湾に発つ直前にゲームボーイと『スーパーマリオランド』を買ってくれたのです。このときのうれしさと感動は、今でも忘れることができません。

■セガサターンで遊んだ『ナイツ』が僕の将来を決めた

台湾に移り住んだ僕は、中国語ができないこともあり、小学3年生をもう一度やり直しました。でも、丁寧に教えてくれるいい先生にめぐり会えたので、劣等感を感じることはありませんでしたし、友だちも自然にできました。その入口になったのは、ほかならぬゲームです。
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アクションゲームなどは画面を見ていれば、言葉がわからなくても楽しさを共有することができます。僕がステージをクリアすると、みんなが「過関(Guo guan)!」と言ってくれる。これは、ゲームなどの「クリア」という意味の単語です。おかげで「過関」は、僕が最初に発音できた中国語になりました。

台湾でも、子どもはみんな日本のゲームをプレイしていました。おそらく当時は、コンシューマゲームといえば世界的にも日本製が主流だったのだと思います。台湾には、日本のアニメやゲームにハマり、日本語を覚えたという人がけっこういますからね。

当時の僕は、日本に住んでいたときと同様、隣りに住んでいた子がゲーム好きだったので、一緒にゲームを遊んでいました。末の弟もゲームを一緒にプレイできるくらい大きくなったので、これまた一緒に遊ぶこともありました。でも、中学、高校に上がるにつれて、お隣りさんとは違う学校に通うことになったこともあり、時間的なすれ違いから一人でゲームを遊ぶ時間が増えていきました。

それゆえに僕は、スーパーファミコン、そしてサターンやPlayStationの時代から流行しはじめた、いわゆる「パーティゲーム」についてはあまりくわしくありません。パーティーゲームというと『桃太郎電鉄』が頭に浮かぶゲームファンも多いと思いますが、この作品を僕が初めてプレイしたのは、ほんの2年前のことです。取引先の忘年会で偶然そういう機会が訪れたのです。ゲーム好きなのにそれまで『桃鉄』をやってこなかったというのは、我ながら中々のレアケースではないかと思います(苦笑)。

隠さずに書いておきますと、我々フライハイワークスがリリースするゲームソフトが、基本的に「一人で遊んでおもしろいと感じるゲーム」に偏りがちな理由は、こういった僕の嗜好性が影響しているのかもしれません。

さて、中学生に上がった僕も、相変わらずゲームを遊んでいました。あの頃は『ストリートファイターII』を熱心にプレイしていましたね。そして中学3年のときに、運命のゲームに出会います。『ソニック・ザ・ヘッジホッグ』を作ったソニックチームの手による、『NiGHTS into Dreams...(ナイツ)』です。眠って見る「夢」をテーマにした幻想的なタイトルで、そのゲームの中には僕にとってまさに「夢のような世界」が広がっていました。ビジュアル、キャラクター、ストーリー……すべてをひっくるめて『ナイツ』の世界観に惚れ込んでしまったのです。

僕は文字どおり夢中になって『ナイツ』をプレイし、日本の「SEGA SATURN MAGAZINE」などをなんとか手に入れては、開発者のインタビューなどを読み漁りました。「夢の世界で自由に冒険してみたい」なんて、言葉にすれば幼い子どもの願望に聞こえるかもしれません。でも、「このすばらしい夢の世界を真剣に創りあげた大人たちがいる。本気でカッコいい」と思いました。それを知った時に、将来、自分もこんな仕事がしたいと強く思ったのです。『ナイツ』は僕がゲームの仕事を志すきっかけになった、今でもとても大切なゲームです。

■「10人で『ボンバーマン』をプレイした達成感」が現在の活動の源流

高校に進学してからも、今につながる転機がありました。「ゲーム部」をイチから立ち上げたことです。僕が入学するまで、その高校にはゲーム部がありませんでした(ゲーム部がある高校自体がめずらしいかもしれませんが)。そもそも伝統ある進学校だったこともあり、ゲームに対する先生方の反応はあまりよくなかった。それでもなんとかしてゲーム部が作りたくて、先生を一人ずつ説得していくことに。自分で言うのもなんですが、成績がよかったことも功を奏し(笑)、最終的にはゲーム部を作ることを承認してもらえました。
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部室は「視聴覚室」。部活なのだから、最初は大人数で1つのゲームをプレイしようと決めました。選んだソフトは、セガサターンの『サターンボンバーマン』。通常だと2人プレイまでですが、マルチタップをつなげると10人まで遊べるというのがチョイスの決め手でした。入部希望者を集め、機材を用意し、セットアップも1人でやりました。無事に画面にロゴが表示された瞬間はホッとしたものです。あのとき10人でワイワイと『サターンボンバーマン』で遊べたことが、僕に大きな達成感を与えてくれました。

今、フライハイワークスで僕がやっているお仕事は、このゲーム部設立の延長線にあるとも言えます。ゲーム部時代の友だちに、「日本でなんの仕事をやってるの?」と聞かれると、僕は「あの時と同じだよ」と答えています。友だちは、ゲーム会社が何をしているのかよく知らない人ばかり。でも、僕がおもしろいと思うゲームを用意してプレイしてもらえれば「これおもしろいじゃん!」と喜んでもらえる。

フライハイワークスの活動も一緒です。おもしろいゲームを見つけ、環境を整えて、たくさんの人にプレイしてもらう。東京ゲームショウの準備などをしているときは、まさにゲーム部みたいだと思って、テンションが上がります。

あの時はセガサターン1台でしたが、今はNintendo Switchなどを何台も用意し、ゲームソフトも1本だけではなくたくさんそろえて、お客様に楽しんでもらえる環境を整える。規模こそ大きくなりましたが、根底にあるものは何も変わっていません。だからやっぱり、僕の活動の原点はゲーム部にあるんだと思います。

高校2年のとき、ドリームキャストの発売と同時に『バーチャファイター3tb』がリリースされ、僕はさらにセガ道を邁進していくことになります。ちなみに『バーチャファイター2』の頃からこのシリーズは台湾でも大ブームを巻き起こしており、「台湾ステップ」という特殊な操作方法が生み出されるほど過熱していました。

僕は地元では敵なしだと思っていたのですが、最寄りの都会に出るとすごい人がいて、さらに台湾一番の都市に出ればもっとすごい人がいました。その後、日本に来るようになって『バーチャファイター4』をアーケードでプレイした時には、日本人プレイヤーのロボットのように正確な操作にド肝を抜かれたものです。井の中の蛙、大海を知るとはまさにこのことかと思いました(笑)。

■「ファミ通」を1ページずつなめるように読んでいた

「セガ道」について補足すると、当時はセガサターンやドリームキャストなどのセガと、PlayStationのソニーという二大派閥がありました。大人はどちらも買ってプレイできるのでしょうが、中高生はお小遣いにも限度があるので、どちらかを選ばなければいけない。そこで、僕はセガのタイトルが好きだったのでセガをとったのです。

これは僕の偏見かもしれませんが、ゲームオタクにはセガ派が多かったんじゃないでしょうか? ゲーム部でプレイするのも、基本的にはセガサターンやドリームキャストのソフト。「次回はこれをプレイします」というポスターに、当時のセガのキャッチコピーであった「THIS IS COOL」の文字を切り貼りしていました。今考えると、けっこうこじらせてますね(笑)。

『バーチャファイター』に登場する蟷螂拳使いのリオンを真似したり、友だちと酔拳ごっこをしたり、人の多い廊下を素早く走り抜けてソニックごっこをしたり……僕はけっこうわかりやすいゲームオタクだったと思います。
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ただ、周囲から「ゲームオタク」と言われることはあまりありませんでした。僕自身、ゲームだけの人間だと思われたくなくて、勉強やスポーツもがんばっていましたし、そもそも当時の台湾には「ゲームオタク」を意味するような言葉がなかったと思います。日本ではわりと人をジャンル分けする傾向がありますよね。例えば「◯◯女子」といったレッテルを貼ったり……。それでも、友だちには「すぐゲーム機持ってきて“遊ぼう遊ぼう、楽しいよ”と勧めてくる押しの強いやつ」くらいには思われていたかもしれませんが(笑)。

こんなふうに台湾でもゲームを楽しんではいましたが、やはり日本に比べると最先端のゲームに触れる機会は多くありません。だからこそ、手元にあるゲームを遊び尽くそうという気持ちが強くなりました。僕がいまレトロゲームに詳しいのも、そんな環境があったからこそだと思います。

そして日本のゲームから離れているからこそ、その情報を渇望していました。当時僕が住んでいた台南には日本の書籍を売っている本屋はなくて、電車で1時間ほどする大きな街まで行き、バックナンバーも含め「ファミ通」などのゲーム雑誌をあるだけ買ってくる……そんな日々を過ごしていました。

買ってきたファミ通は、なめるように読み尽くします。最初から最後まで読んだら、今度は逆から読むのです。その時のファミ通には、必ず代々木アニメーション学院のゲームデザイナー学科の広告が載っていました。それを眺めながら「高校を卒業したら僕はここに行くんだ」と決意を固めていました。僕が知りうるなかでは、これが一番ゲームの仕事に近づける道だと思っていたからです。

ファミ通に書いてあることは、憧れの日本の話で、僕にとってファンタジーみたいなものでした。そのなかで、藁をもつかむ思いで代アニの広告を見ていたんです。なんとかゲーム業界に近づきたい。この台湾時代の飢餓感は、今でも続いている気がします。

(第2回につづく)
シシララTV オリジナル記事