元理財部長である筆者にも取材が殺到
この国にはびこる「おかしな議論」を象徴する森友学園問題が、再び息を吹き返した。
きっかけはご存じのように、2018年3月2日付『朝日新聞』が報じた「財務省による決裁文書の書き換え疑惑」だった。世間が大騒ぎするだけのインパクトはある。公文書の改竄は刑法の「虚偽公文書作成等罪」にも抵触する。第一報に接したときの筆者の直感は、「もし記事が事実なら財務省が解体、逆に誤報なら『朝日新聞』が解体、巨大組織のクビを賭けた論争になるか?」というものだった。
マスコミが“疑惑”を追及するのは、大いにけっこうなことだ。それが権力の腐敗をチェックするジャーナリズムの正しい姿勢でもある。しかし、この国のマスコミが報じるニュースは、“疑惑”と“思惑”がごちゃまぜになっている。
昨年来、この森友学園問題をめぐっては、元財務官僚で理財部長を務めた経験もある筆者にも、各方面から問い合わせが殺到した。そして、このたびの財務省の書き換え疑惑についても、マスコミの記者から以下のような質問を受けた。
「政治家の指示があったのでは?」
「指示がなくても、官僚の忖度はあったはず……」
こうした質問は、すべてマスコミの“思惑”から発せられている。識者や関係者から「イエス」の言質をとることを狙いとした、稚拙な取材である。筆者は官僚時代の経験に照らして正直に答えた。
「文書の存在を知らない政治家に指示はできない」
「財務官僚が政治家に忖度していたら、省内で出世できなくなる」
筆者のコメントは、その場で取材記者から「使えません」といわれた。そもそも取材をしておいて、コメントが「使える」「使えない」ということ自体が理解できない。“思惑”どおりの記事に仕立てるためには、都合のいい論調だけが切り取られ、都合の悪い意見は捨てられる。だから筆者が知る「真相」は、闇に葬られる前に自身の連載や書籍に書きとどめてきた。