横尾忠則「​サンタナのアルバム・ジャケット」

【第8回】1970年代、ロックミュージシャンのアルバムのジャケットも手がけた横尾さん。サンタナ、ビートルズとも仕事の話があったと言います。さらにはビートルズや三島由紀夫から刺激を受けて、インドや精神世界へ興味を広げていきます。(聞き手・平野啓一郎)

サンタナのアルバム・ジャケット

平野啓一郎(以下、平野) 横尾さんは音楽との関係も深いのですが、じつは僕自身も横尾さんの存在を初めて知ったのは、中学生のときにサンタナの『アミーゴ』というアルバムを買って、「これ、日本人がデザインしているんだ」というので「横尾忠則」という名前を知りました。

その頃、僕はちょうど三島由紀夫に傾倒し始めた時期だったんで、「ここに名前の出てくるあの横尾忠則が、このサンタナのアルバムを作った人か」とだんだん自分のなかで結びついていったんですけど、ビートルズとかローリング・ストーンズとか、横尾さんも早い段階からロックを聴いていたんですか?

横尾忠則(以下、横尾) 67年にアメリカに行くまで、僕は演歌ばっかり聴いていたんですよ。

平野 そうですか。ではどういった経緯で、ロックミュージシャンのアルバムのジャケットの仕事などされるようになったのですか?

横尾 最初はね、これはサンタナの前なんだけれども、日本でカラージャケットを作ったんです、一柳慧さんと。そのときに、ビートルズに送ったんですね。

そうしたら、ジョン・レノンとリンゴ・スターから手紙が来て、「俺たちも、こういうカラーレコードを作りたい」と。そこで僕は会社に話をしたんだけれども、それをやると何百万という数を作るから、日本に工場を建てないといけない。「それはできない」と言われて、「ああ、そういう美味しい話っていうのは大体実現しないものだな」と思っていた。

それからしばらくして、サンタナの話がきたんですね。サンタナを率いるカルロス・サンタナはインドの宗教に傾倒していて、シュリ・チンモイというグル(指導者)に師事していたんです。その頃、僕も精神世界的なものに興味があったから、ソニーの人がサンタナに僕を紹介してくれたんです。

そうしたら、彼がすぐに気に入って、「とにかくアルバムのジャケットを作ってくれ」というのでデザインした。最初は『ロータスの伝説』(1974年)で、ダブル・ジャケットだったんです。だから4ページですよ。でも気がついたら22ページになって、すごく大がかりなものになっちゃってね。

平野 その頃は、もう音楽としてもロックをよく聴くようになっていたんですか?

横尾 そうね。67年にニューヨーク行って、いきなり聴いたのはクリームです。「ロンドンから、ビートルズよりすごいグループが来る」と言うんだけど、僕はクリームを知らなかったんです。

それで小さいライブハウスでクリームを聴いて、びっくり仰天。「これ、何?」という感じで、ベトナム戦争の戦場に自分がいるような、音響にインボルブされてしまってね。「ロックってすごいな」と。

ニューヨークにいる間はフィルモア・イースト、それからウォーホルが作ったエレクトリック・サーカスでヴェルヴェット・アンダーグラウンドらがやっていたのを知って、もう毎週のように行っていた。そこで僕はロック漬けになっちゃったんですよね。

思想を持たない思想

平野 60年代から70年代にかけて、宇宙や神秘体験など、さらにいろいろなものにテーマを広げていかれます。

そのなかに一つ、「インド」というテーマがありましたね。それは三島由紀夫に、「インドには行ける者と行けない者がいる」と言われたことがきっかけだったんでしょうか? そして精神世界へ興味を広げていかれたのは、やはり三島由紀夫の死があったからだったのでしょうか?

横尾 あの(三島の割腹自殺の)日の3日前に電話で話したとき、『薔薇刑』の三島さんを描いた僕の作品を見て、「君もいよいよインドへ行ってもいい時期が来たね」と言ったんですよ。「インドには行ける者と行けない者がいる。でも、君はそろそろ行ってもいいだろう」と。僕はちょっと意味がわからなかった。いまから思うと、カルマの解脱の時期のことを言ったのかなと思うんだけども。

もう一方で、ビートルズが、特にジョージ・ハリスンが他の三人を連れて、インドのマハリシ・マヘーシュ・ヨーギーに会いに行ったんですね。そのニュースを聞いたときに、「ちょっと待てよ」と。

「彼らはたんにロックミュージシャンじゃないんだ。インドへ行って、インド哲学者としてのロックミュージシャンになっていくのかな」と。「これからのロックを学ぶためには、まずインドを学ぶ必要があるな」って僕が勝手に解釈しちゃったんです。それで三島さんのインドとビートルズのインドが、僕のなかで一体化したんです。

ニューヨークに行ったときも、先ほど言ったハレ・クリシュナのテンプルにしょっちゅう通っていました。それで、だんだんインドが僕のなかで形成されていくんですよね。

それからニューヨークでは、インテリがみんな禅に興味を持っていて、彼らからすると、日本人なら誰でも禅のことを知っていると思って、禅問答を吹っかけてくるんですよ。僕自身は禅体験がまったくないし、「これはだめだな」と。次にアメリカに来るまでには禅をマスターしなければと思ってね。

それで帰って、禅寺へ通ったんですよ。だけど禅寺のお坊さんは、「いっさい本を読むな」と言うわけです。「禅や仏教や宗教の勉強をするな」、「黙って座っていればいい。それ以外はない」と。禅とはそういうものだと言うのです。

そうやって1年間通って、これで禅をやっているアメリカの連中にも会えるかなと思ったけど、そのときにはもうブームは終わっていた。そういう時代ですよ。彼らの一言が僕を禅寺に行かせた。その成果は、事実を事実として眺めるということをマスターしたように思う。

平野 60年代は、日本でもアメリカでも政治的な話題がすごく大きかった時代ですね。ただ、政治思想的には、三島由紀夫とジョン・レノンというと右と左で真反対の立場にいたと思うのですが、横尾さんご自身は彼らと会ったときに政治の話をすることはあったのですか?

横尾 そういう話は全然しないね。僕はもう「思想を持たない思想」だから。生半可な思想を持ってしまうと、その思想と共鳴した人間としか意思の疎通ができない。それならば、思想は要らない。

そもそも絵画に思想なんか必要ないわけですよ。実際にセザンヌみたいに、林檎の絵とビクトワール山の絵ばかり描いて20世紀の芸術を変えてしまう、そういう革命がすでに起きていたし、絵のなかにすでに変革の要素があるわけだから。

画家が思想を持たなくても、絵が勝手に思想を持つ。それに共感した人が、その人なりの思想を持てばいい。そういう発想だから、僕は思想をいっさい持つ気がしなかった。


次回「ピカソから自己の忠実さを学ぶ」へ続く


横尾忠則(よこお・ただのり)

1936年生まれ。美術家。72年にニューヨーク近代美術館で個展。その後も世界各国のビエンナーレ等で活躍する。95年に毎日芸術賞、2001年に紫綬褒章、08年に小説集『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞、11年に旭日小綬章、同年度朝日賞、14年山名賞、15年高松宮殿下記念世界文化賞、16年に『言葉を離れる』で講談社エッセイ賞など受賞・受章。

平野啓一郎(ひらの・けいいちろう)

1975年生まれ。京都大学在学中の99年『日蝕』により芥川賞を受賞。2009年『決壊』で芸術選奨文部科学大臣新人賞、『ドーン』でBunkamuraドゥマゴ文学賞を受賞。14年フランスの 芸術文化勲章シュヴァリエ、17年『マチネの終わりに』で渡辺淳一文学賞を受賞。小説に『葬送』『高瀬川』『空白を満たしなさい』『透明な迷宮』など多数。


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高橋源一郎さん、瀬戸内寂聴さん、谷川俊太郎さん、横尾忠則さん…小説家・詩人・美術家の人たちは何を生み出してきたか? 自身が代表作を3作選び、それらを軸として創作活動の歴史を振り返ります。創作の極意、転機となった出来事、これからの話ーー...もっと読む

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コメント

sadaaki ジョン・レノンから手紙が来てとかふつうに出てくるし、最後のほうは名言がですぎて感動する。すごいなあ。 約2時間前 replyretweetfavorite

takaakishigenob 横尾忠則 そもそも絵画に思想なんか必要ないわけですよ。実際にセザンヌみたいに、林檎の絵とビクトワール山の絵ばかり描いて20世紀の芸術を変えてしまう、そういう革命がすでに起きていた https://t.co/LdrmPDWKKU 約4時間前 replyretweetfavorite

hiranok 音楽ファン必読の横尾さんとロックの話題。 約6時間前 replyretweetfavorite