キャッチフレーズ化された『誓願』 : 創価の森ウォッチ 152
聖教新聞誌上で連載が続く小説、新・人間革命の最終章となる
「誓願」の章が3月26日より始まった。
最初に取り上げていただいたのは大阪長居陸上競技場で行われた
第一回関西青年平和文化祭であった。
関西の人間として大変に光栄なことであり、又、ありがたいことである。
これから数々のエピソードが紹介されていくと思われるが、地元関西では
会合などを通じ耳にされたことがあっても全国の方、あるいは若い世代の方、
新入会の方には初耳のことも多いことだろう。
小説を通じて語られるエピソードは文字通り創価学会の歴史に永遠に刻まれ
語り継ぐべき内容であるといっても過言ではない。
物語の都合上、文化祭参加者のすべてのエピソードを紹介するわけにはいか
ないだろうが、当時参加された青年たちの中に新入会のメンバーが多数おら
れたことを拙から明記させていただきたい。
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先の「勝ち鬨」の章では、日蓮正宗の一部の僧等が暗躍し、創価学会員らをイジメ
た第一次宗門問題にメドが付き、勇退された池田先生が全国各地の同志の元へと
激励行を重ねて来られた事実が克明に描かれ、章末では茨城での激励行が取り
上げられていた。 後に『厳寒の茨城指導』 として語り継がれる歴史なのだが、
同県の学会員であるはずの創価の森ブログの主催者である信心深き菊川弘幸氏
は、真っ先に記事にされと思いきやついぞブログで話題にされることはなかった。
これは“衣の権威”に訴えかけた聖職者らに一歩も退かなかった諸先輩方への
勝利の凱歌であるとともに、難こそ誉(ほまれ)と地域弘教拡大に生き抜いた
同志の皆さんの正しさを証明する勝ち鬨であったと言えるだろう。
なのに、ブログで常日頃、信仰の感動の言葉を綴ることに長けている菊川氏が
なんら反応をしめさない事に拙は違和感を感じる。
昭和57年当時、菊川氏が茨城にいなかったので感情移入が出来づらかったの
ではと庇う方もいるかもかもしれないが、すでに茨城県内に居住されて十年以上
たちブロック幹部として地域広布に活躍され、仕事が忙しいにもかかわらず毎日
ブログ記事を更新し、寄せられた相談に親身に答えてみせる氏が県の重要記念日
ともいえる話題に触れないのはどうしてだろうか。
なお茨城創価学会の沿革については下記オフィシャルサイトを御覧いただきたい。
http://www.ibaraki-soka.jp/ayumi
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創価学会では多数の記念日が設定されている。
また日本の各自治体(県や地域)、世界各国の創価学会には前述させて
いただいたような「師弟の歴史」が必ずあり、どの地域でも師弟共戦の記念日
を目標に学会活動をされているはずである。
どんなに忘れっぽい人でも毎年、地域の「記念日」にむけて活動をされている
ならば命に刻まれるのではないだろうか。
勝ち鬨の章が茨城指導で終わったことに対して、同県の同志の方々たちは
意義深いものを感じられたのではないだろうか。
だが、茨城に在住されているブロック長の菊川氏は、そこには一切ふれず
新章「誓願」の一部を引用した上で、43歳の「難」(?)を通じ
「信心の確信、使命の自覚」を自覚したと主張し、自分の5つの「誓願」とやらを
3.月29日、ブログを通じ世界に向けて発信された。
5つの内容はすべて個人的な理由のみで構成されている。
しかし創価学会員として、いや、日蓮大聖人の仏弟子として「誓願」すべきは
広宣流布・・つまり弘教のことであるはずだ。
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過日1月8日。
聖教新聞誌上にて池田先生の新年のメッセージが発表され、小説、新・人間革命
全30巻が最終章「誓願」でしめくくられることが会員に公表された。
その際の指導を引用する。
また御書には
所詮四弘誓願の中には衆生無辺 誓願 度を以て肝要とするなり、
今日蓮等の類いは南無妙法蓮華経を以て衆生を度する此より外は
所詮なきなり、速成就仏身是なり云云 (御書聞書)
とある。
ようするに末法における仏の誓願とは衆生を救うために「南無妙法蓮華経」の
題目を広めること、つまり広宣流布に生き抜くことに尽きるといえよう。
世間に公然と誓えば「誓願」になるのではない。
地涌の菩薩として過去世に仏と約束し今生で果たすべき「使命」を誓願というの
である。
しかるに菊川氏が「誓願」と名付けたものは個人的な目先の目標・決意ばかりでは
ないか。
ここに菊川氏の信心のあり方が見て取れるといえまいか。
個人的な決意と正直に書けば良いものを、「誓願」と言い換えキャッチフレーズ化し
たうえで、本来仏法的な「誓願」という言葉がもつ意味と同列に扱うことで信心深い
自己を学会員読者に演出しているようにしか見えないのだ。
学会を利用して名聞名利を得ようとする信心は「邪信」(勝ち鬨38) の指導を
今一度読み返した上で 誓願 とはなにかを考え直してもらいたいものだ。
「誓願」の章が3月26日より始まった。
最初に取り上げていただいたのは大阪長居陸上競技場で行われた
第一回関西青年平和文化祭であった。
関西の人間として大変に光栄なことであり、又、ありがたいことである。
これから数々のエピソードが紹介されていくと思われるが、地元関西では
会合などを通じ耳にされたことがあっても全国の方、あるいは若い世代の方、
新入会の方には初耳のことも多いことだろう。
小説を通じて語られるエピソードは文字通り創価学会の歴史に永遠に刻まれ
語り継ぐべき内容であるといっても過言ではない。
物語の都合上、文化祭参加者のすべてのエピソードを紹介するわけにはいか
ないだろうが、当時参加された青年たちの中に新入会のメンバーが多数おら
れたことを拙から明記させていただきたい。
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先の「勝ち鬨」の章では、日蓮正宗の一部の僧等が暗躍し、創価学会員らをイジメ
た第一次宗門問題にメドが付き、勇退された池田先生が全国各地の同志の元へと
激励行を重ねて来られた事実が克明に描かれ、章末では茨城での激励行が取り
上げられていた。 後に『厳寒の茨城指導』 として語り継がれる歴史なのだが、
同県の学会員であるはずの創価の森ブログの主催者である信心深き菊川弘幸氏
は、真っ先に記事にされと思いきやついぞブログで話題にされることはなかった。
という言葉で締めくくられた勝ち鬨の章。“同志は勝った。凱歌の旭日は昇った。
伸一の力走は続き、全国各地で師弟共戦の勝ち鬨を轟かせていった。”
(勝ち鬨89より引用)
これは“衣の権威”に訴えかけた聖職者らに一歩も退かなかった諸先輩方への
勝利の凱歌であるとともに、難こそ誉(ほまれ)と地域弘教拡大に生き抜いた
同志の皆さんの正しさを証明する勝ち鬨であったと言えるだろう。
なのに、ブログで常日頃、信仰の感動の言葉を綴ることに長けている菊川氏が
なんら反応をしめさない事に拙は違和感を感じる。
昭和57年当時、菊川氏が茨城にいなかったので感情移入が出来づらかったの
ではと庇う方もいるかもかもしれないが、すでに茨城県内に居住されて十年以上
たちブロック幹部として地域広布に活躍され、仕事が忙しいにもかかわらず毎日
ブログ記事を更新し、寄せられた相談に親身に答えてみせる氏が県の重要記念日
ともいえる話題に触れないのはどうしてだろうか。
なお茨城創価学会の沿革については下記オフィシャルサイトを御覧いただきたい。
http://www.ibaraki-soka.jp/ayumi
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創価学会では多数の記念日が設定されている。
また日本の各自治体(県や地域)、世界各国の創価学会には前述させて
いただいたような「師弟の歴史」が必ずあり、どの地域でも師弟共戦の記念日
を目標に学会活動をされているはずである。
どんなに忘れっぽい人でも毎年、地域の「記念日」にむけて活動をされている
ならば命に刻まれるのではないだろうか。
勝ち鬨の章が茨城指導で終わったことに対して、同県の同志の方々たちは
意義深いものを感じられたのではないだろうか。
だが、茨城に在住されているブロック長の菊川氏は、そこには一切ふれず
新章「誓願」の一部を引用した上で、43歳の「難」(?)を通じ
「信心の確信、使命の自覚」を自覚したと主張し、自分の5つの「誓願」とやらを
3.月29日、ブログを通じ世界に向けて発信された。
5つの内容はすべて個人的な理由のみで構成されている。
しかし創価学会員として、いや、日蓮大聖人の仏弟子として「誓願」すべきは
広宣流布・・つまり弘教のことであるはずだ。
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過日1月8日。
聖教新聞誌上にて池田先生の新年のメッセージが発表され、小説、新・人間革命
全30巻が最終章「誓願」でしめくくられることが会員に公表された。
その際の指導を引用する。
「誓願」は、仏の生命と一体の智慧と力を湧き出していく勇気の泉です。
「誓願」は、試練の宿命も使命に変えて勝ち鬨を轟かせる常勝の旗です。
「誓願」は、あらつる差異を超えて異体同心の連帯を広げる希望の光です。
そして距離も時間も超え、「誓願」によって、師弟は永遠に不二なのであります。
今、「栄光の年」の年頭にあたり、ともどもに「久遠元初の誓願」に立ち返って、
まさしく生まれ変わった大生命力で、全民衆の幸福安穏へ、全世界の平和共生へ、
全人類の宿命転換へ、勇猛精進しようではありませんか!
(世界広布新時代 第30回本部幹部会への池田先生のメッセージ~ より引用)
また御書には
所詮四弘誓願の中には衆生無辺 誓願 度を以て肝要とするなり、
今日蓮等の類いは南無妙法蓮華経を以て衆生を度する此より外は
所詮なきなり、速成就仏身是なり云云 (御書聞書)
とある。
ようするに末法における仏の誓願とは衆生を救うために「南無妙法蓮華経」の
題目を広めること、つまり広宣流布に生き抜くことに尽きるといえよう。
世間に公然と誓えば「誓願」になるのではない。
地涌の菩薩として過去世に仏と約束し今生で果たすべき「使命」を誓願というの
である。
しかるに菊川氏が「誓願」と名付けたものは個人的な目先の目標・決意ばかりでは
ないか。
ここに菊川氏の信心のあり方が見て取れるといえまいか。
個人的な決意と正直に書けば良いものを、「誓願」と言い換えキャッチフレーズ化し
たうえで、本来仏法的な「誓願」という言葉がもつ意味と同列に扱うことで信心深い
自己を学会員読者に演出しているようにしか見えないのだ。
学会を利用して名聞名利を得ようとする信心は「邪信」(勝ち鬨38) の指導を
今一度読み返した上で 誓願 とはなにかを考え直してもらいたいものだ。