オタクの終わりとか

 

 どこぞから回ってきてなんだかよくわからなくなったので文章書いて考えてみることにした。当方47さいのおっさんです。当該の発言以外は見ていないので、前後の文脈はよくわかんないです。

 ひとまず「継続して摂取してればどうにかなるもの」ってのがかなりある。たとえば絵柄なんかは典型的にそれで、俺は継続的にえろげとかやりつづけているため、2010年ごろの絵柄を見ると古いなあと思う。また文体なんかもそう。これは完全に慣れの問題。どこかで特殊な人間が発生して、一気に時代の空気感が変わることはあるけど、基本的に日本語の範疇は出ない。あまりに常人に理解不可能なものは淘汰されて商業ベースにならない。

 笑いの感覚なんかは、これは個人差のほうがはるかに大きいと思ってる。以前はズレていくんじゃないかなーと、どっちかっていうと三十代になる前あたりで危惧してたんだけど、そうでもなかった。結局のところ、たとえば同時代であっても、俺には「ぼのぼの」のなにがおもしろいかまったく理解できなかったし、吉田戦車が出てきたときにまったく笑えなかった人は多数いた。

 女性キャラのかわいさの感覚なんか、時代が変わろうとも変化しないものの最たるものだと思う。俺はかれこれ30年以上「おんなのこかわいい」だけでオタ向けのコンテンツを摂取してきているが、俺の側では感覚はいっさい変化してない。性格の好み、外見的な好み、おしっこするとすごい、こどもしゅごい、など30年間まったく不変である。そのまま2018年にも生きている。

 じゃあ変化するものはなんなのか。

 ひとつは境遇だ。俺は「学校生活」というものに対する異常な飢えがあるがゆえに、今日まで学園なりなんなりを舞台にした作品になんらの違和感を持たない。しかしそれは俺があらゆる意味で学校生活というものから疎外されており、人がふつう学生時代にもつ郷愁とかの感覚がいっさいないせいで、つまり異世界ファンタジーである。いってみれば「フィクションに描写された学園」そのものが俺にとっての学園なのだ。これでは違和感の発生のしようがない。

 もっとも俺は少数派である。自覚はある。ふつうに生きていれば、個々の出来事は鮮烈に覚えていても、総体としての「学校という空間」に関する印象は薄れていく。そこにあったはずのくだらなさも、痛々しさも、甘ったるさも、すべてはぼんやりとした印象になっていく。弱者だった人間が社会的に成功しているかもしれない。女子と話もできなかった人間が結婚しているかもしれない。そのように、人の境遇は変化していき、そして変化した「前」の状態に関してはひりひりするような実感が薄れていくのがふつうのことだと思う。

 俺は主義として「人は経験からしか想像できない」という考えを持っている。えろげの水着イベントなんかになんの興味関心もわかないのは、俺にその経験がないからだ。イベントが持つ機能そのものを理解できないからだ。

 加齢によって失われていくものは数あるだろうが「若いころしか体験できなかったもの」に由来するリアリティに対する共感みたいなのは薄れていってとうぜんだと思う。

 もうひとつは社会環境である。俺が現代の十代を絶対に理解できないと思うポイントのひとつがここである。俺の十代のころは、まだ右肩上がりの時代だった。かろうじてその最後の世代だったかもしれない。だからといって未来はバラ色だとは思ってなかったわけだが、かといってその社会状況が俺に影響を及ぼしていないわけでもない。少なくとも当時俺は「働けば食っていける」ということは信じられた。そして「食っていける限り死なない」ということも信じられた。つまり「社会には隙間がある」という点で、俺は未来に絶望しなくて済んだわけだ。

 その俺は「未来は確実に衰退していく」とみなが思っている状況下で十代を過ごすことが、たとえ理屈では想像できたとしても感覚的にはわからない。ゆえに「未来は確実に衰退していく」という前提があって、そのうえで作られた作品には理解が及ばないはずである。前提はどう展開するかはわからない。ディストピア感あふれる作品かもしれないし、あるいは逆に「どうせ現実には未来がないのだから」という前提で描かれるあたま湧いてるような作品かもしれない。いずれにせよ「前提がわからない」のである以上、その作品が集めている「理解以前の共感」のようなものが心に迫ってくることはないわけだ。

 あとまー、もうひとつは男性限定だけど、性欲ですわな。それがどのようなかたちで噴出するかはさておき、若いころには人は性欲が強い。だいたい。それが十全に満たされるにせよ、あるいは鬱屈するにせよ、やっぱり「その前提」でしか理解できない作品のは確実に存在する。むしろある種のメインストリームですらあると思う。なので現在の俺は、ぱんつ描写がすごいお手頃なエロ作品とかは理解できない。

 実際は、こうした要素が単純にあらわれることってのは、たいていのものごとと一緒で、そうそうないわけだ。たいていの作品は複雑系である。

 フィクションというのは、ほとんどの場合「ありえた可能性」に対する抗議としてたちあらわれる。もっとモテたかもしれない、幸せな家族のなかで生きていられたかもしれない、妹とセックスできたかもしれない、妹がお兄ちゃん大好きでオナニーをきっかけに大変なことになったかもしれない。妹がお兄ちゃんの体臭が大好きで使用済みのTシャツをこっそり着てベッドでごろごろ転がっているかもしれない、などだが、同時に、欲望とはまた欠落でもあり、その欠落を埋めるかたちでフィクション作品はつくられる。ことにエンタメの枠に入ることが多いオタク向けの作品ではその傾向が強いだろう。だとするなら、その欠落を理解できなくなったときに、オタクとしてのその人は終わる、ということが言えるのかもしれない。

 とはいえだ。

 欲望というのはあくまで個人的なものだ。俺は女の子が3日お風呂に入ってなくてちょっとくさい、どうしようというときにその衣類の内側から送り出される空気を強く深呼吸して死にたいという欲望を強く抱くものだが、ここまで特殊化した欲望であっても「せっけんのにおいは残っているか」「いや、不純物はいらないだろう」ということで宗教戦争が起きかねない。なにが言いたいかというと、完全なかたちで「かつて抱いた」欲望が充足されることはない、ということだ。

 となれば、オタクとしての生に終わりはないともいえる。

 結局なんなんだよって話なんだけども、要は「その人がフィクションを必要としなくなったときに、終わる」ってことなんじゃないかと思う。ちなみにこの場合「◯◯オタク」などの用法は無視してます。

 俺の場合「作品とは密室で向き合うもの」っていう感覚が強くて、たとえばそのときどきでメインストリームにあるような作品に乗れない、というようなことはわりとどうでもよかったりする。「乗れる」ということ自体がオタクであることの意味の一部を担っている、というような考えかたもあるとは思うんだけど、俺にはこのへんはよくわからない。そもそも俺はガンダムにもドラゴンボールにもなんの興味もなかったですし。

 まあほかにも「ブームになる前に見つける」とかいろいろオタクの側面ってあると思うんだけど、でも最終的には「欲しいものがなくなった」ときに終わるんじゃないかなあと思う。欲しいものがあるからこそ必死で漁るんだし。

 あと「継続して見聞きしてる」って大事だと思うんだけど、ここで絶対的な真実「持ち時間が少なくなった」が出現して、全部終わる。こればっかりは本気でどうしようもない。