古地図から読み解く、吉祥寺の歴史 成蹊大学経済学部教授・小田宏信さん[PR]
- 2018年3月30日
駅から伸びる商店街は活気にあふれ、おしゃれな飲食店やブティックが路地裏に並ぶ。歩くだけで楽しいそんな通りを進んでいくと、やがて閑静な住宅街へと入っていく。都心から近いのに、緑豊か。東京・武蔵野市の吉祥寺は、「住みたい街」として多くの人が憧れる街だ。ところが、そこは江戸時代まで原野ばかりが広がる土地だったのだという。
吉祥寺とは、いったいどんな土地の歴史を持つところなのか? 同市にある成蹊大学で地理学の研究をしている、経済学部の小田宏信教授にうかがった。
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江戸時代まで、農業開発から取り残されていた
――いずれも古い貴重な地図ですが、地図から、街のどんな歴史がわかるのでしょうか。
まず、成蹊大学の前を通る五日市街道を見てみましょうか。道路に沿って家屋が並んでいるのがわかるかと思います。このような村落のかたちを路村と言います。さらに地割を見ると、南北に細長い短冊状の地割になっていますよね。道路に面したところが20~30間(1間=1.8メートル)つまり35~55メートルほどで、奥行きは1キロほどです。これがこの地域の都市景観の大きな特徴で、江戸時代の新田開発の典型的な形なんです。石神井川の沿岸地域で家屋が島状に点在していたのとは対照的です。
――新田というと、田んぼがあった?
いえ、田んぼがあったわけではありません。新田というのは、江戸時代、明暦の大火(1657年=明暦3年)などいくつか大火が続き、焼け出された人のために幕府が土地を与えて開墾させたものです。武蔵野台地の「背骨」にあたる高いところということに加えて、分厚い関東ローム層に覆われていて、水が乏しかった。長い間、農業開発から取り残されていたようです。玉川上水が同じ頃に通水しましたが、基本的には江戸の人たちの水で、なかなか使えない。しかも江戸から下肥を運ぶにはやや遠い。米や野菜などは作れず、雑穀を作るような貧しい農村だったと言われています。むしろ昭和初期までは林業が盛んでした。「武蔵野の雑木林」という言い方はありますが、雑木林というよりは、街道に沿っては杉、おくまった部分にはクヌギという形でかなり計画的に植林して、経済資源にしていたようです。
――この頃から吉祥寺という地名だったのですか?
よく聞かれますが、吉祥寺には「吉祥寺」という名前のお寺はないんですね。現在は駒込にありますが、もともとは水道橋に「諏訪山吉祥寺」というお寺があり、お寺を中心とした集落、門前町があったんです。それが江戸大火で焼けて、そこの人たちが入植した。これが吉祥寺の地名の由来です。それまではこの辺は何にもなかったんです。近くで、人が多く住んでいたのは三鷹の牟礼という地域で、ここはかなり昔からの集落でした。
関東大震災後に市街地化
――人が増えてきたのはいつ頃から?
まず、関東大震災(1923年=大正12年)後に、人が移り住んできて市街地化が進んでいった経緯があります。さらに戦中期には軍需工業が発展しますが、特に中島飛行機の進出が大きな変化をもたらしました。中島飛行機は当時の日本最大の航空機メーカーで、陸軍向けのエンジン製造を担う中島飛行機武蔵製作所が1938年に置かれます。さらにその西側(現在の武蔵野中央公園の場所)には海軍向けのエンジンを製造する多摩製作所が置かれました。武蔵野市から三鷹市、西東京市にかけて、巨大な軍需工業地帯となり、従業員の社宅などが増えていきました。
――地図には吉祥寺駅もありますが、駅の存在も発展のきっかけとなったのでしょうか。
甲武鉄道、今のJR中央線が開業したのが1889(明治22)年で、武蔵野村で最初にできたのは境停車場(現在の武蔵境駅)でした。新宿、中野、その次が境だったんです。吉祥寺駅は10年後の1899(明治32)年に完成し、さらに井の頭公園が1917(大正6)年にオープンします。当時、吉祥寺駅付近は、行楽地への入り口のような印象だったのではないかと思います。別荘地もでき始め、投機的な土地取引の対象にもなっていたようです。資料を調べると、明治の終わり頃から、東京市内の人が農家の土地を買い上げて地主になっているんですね。駅前には恵比須やという駅前旅館兼食堂があって、地図に描かれていますが、今でも「エビス会館」というビルがサンロードの入り口にあります。
江戸時代の絵図を見ると、道路らしい道路といえば、今の東急前の吉祥寺通り(公園通り)と、五日市街道、女子大通り、八丁通り、中道通りと末広通り程度でした。大正時代の終わり頃から道路整備も進められて、1928(昭和3)年の吉祥寺全図では五日市街道と中道通りの間に、大正通り、昭和通り、といった東西の道ができていきます。もともと南北に細長い農家の土地があり、そこに東西の道が通って発展していったというわけです。村山貯水池から境浄水場を経て東京市内の導水路用地(現在の井の頭通り)もこの頃の地図にすでに描かれていました。
駅周辺の再開発、モデルになったのはロッテルダム
――いまのような街の形に発展するのはいつ頃ですか?
高度経済成長期になると公団の住宅が増え、人口が増えるとともに吉祥寺の商業地としての役割が高まっていきます。三鷹の牟礼団地は都内最初の公団の団地で、そのあと武蔵野市内に緑町団地、桜堤団地などができます。バス路線も吉祥寺に集中していました。そういった状況で駅周辺の再開発計画というのが1960年頃から浮上します。現在のコピスのところにあった東京女子体育短期大学(国立へ移転)の跡地などを活用すれば円滑に再開発を進められると考えられました。
――再開発計画というのは?
近代的な商業地に作り変えていこうというものです。そこで市がまず委託したのが、高山英華という都市計画家でした。高山先生は、旧制成蹊高校出身で、高蔵寺ニュータウンや筑波研究学園都市の設計にも携わった、日本を代表する都市計画家です。このお弟子さんで同じく成蹊高校出身の伊藤滋先生と、お二人で原案を作ったそうです。モデルになったのは、ロッテルダムの戦後復興で再開発されたラインバーン商店街と言われています。スーパーブロック方式という、16~20メートル程の広い街路で囲われた80~100メートル角のブロック(街区)を作っていくプランです。主要道路に面したところに商業施設を置き、裏通りは商品の仕分けをするような場所、あるいはそこで働く人が住むような場所を作ろうというものでした。
――オランダの街が吉祥寺のモデルだったんですか?
歩車分離、完全歩行者専用の商店街がまだなかった時代で、ラインバーン商店街はさまざまな都市開発のモデルになったようです。ラインバーン商店街を見たあとに元町通りを歩いてみると、なるほど、と思いますよ。ただ高山先生たちのプランをそのまま地元の人が受け入れたかというと、そうではなかった。既存の商店街が分断されて客が入らなくなる、という心配があったからです。それで最終的にはかなり規模が縮小されて、猥雑さを残した現在の形になった。しかし私はこれがむしろ吉祥寺の魅力を醸し出すことになったのかなと思います。吉祥寺の景観の特徴は、短冊状の街区と言いながらも実はT字路が多いんですね。「閉域性」と言いますが、何か気持ちが落ち着く雰囲気を作り出しています。また、見通せないから、この先何があるんだろう?というワクワク感が呼び起こされる。狭い路地をあみだくじのように歩く楽しさもあります。典型的なのがハモニカ横丁です。
「雑木林」のような吉祥寺の魅力を大切に
――その後、70年代にかけて大型商業施設が発展していきます。
70年代、この辺りは年少人口が多くて若い家族がたくさん住んでいました。百貨店は主にファミリー層をターゲットにしていましたから、伊勢丹、東急、近鉄と出店が相次ぎ、パルコができた80年までに吉祥寺の再開発がほぼ完了したと言えるでしょう。そして70年代後半からは、ライブハウスなどが増え、若者の街として君臨していきます。象徴的なのが75年から放送された日テレ系の青春ドラマ「俺たちの旅」。ご存じですか? 中村雅俊さん主演で、吉祥寺や久我山、三鷹を舞台にしたドラマです。元町通りやサンロードの風景もふんだんに登場します。
――サブカル的な要素は、いまも吉祥寺文化に欠かせないものですね。最後に、先生は今後の吉祥寺の可能性をどのように見ていらっしゃいますか。
新宿や立川との競合はありますが、最近はまた「ファミリーのための吉祥寺」が蘇ってきたように思います。伊勢丹のあったF&Fビルは「コピス吉祥寺」というコミュニティー型商業施設に生まれ変わりました。コピスは雑木林という意味ですが、吉祥寺というのはまさに雑木林的で、雑多なものが比較的コンパクトな空間に凝縮されているところに魅力があります。「この街が好き」と言って訪ねてくる卒業生も多いです。ナショナルチェーンの店だけになってしまってはつまらない。新規開業のコストが高くて起業しにくいといった課題もありますが、吉祥寺ならではの資源をうまく組み込んで発展していけたらいい。訪れる人にも街のストーリーを知って楽しんでもらえたらと思います。
(文・高橋有紀 写真・山田秀隆)
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小田宏信(おだ・ひろのぶ)
1966年、東京都武蔵野市生まれ。成蹊大学経済学部教授。成蹊中学・高等学校、立命館大学文学部卒業、筑波大学大学院地球科学研究科単位取得退学、博士(理学)。豊田短期大学専任講師、筑波大学地球科学系専任講師などを経て、2006年より現職。専門は人文・経済地理学。著書に『現代日本の機械工業集積』(2007年経済地理学会賞受賞)、共著・共編著に『変動するフィリピン』『日本経済地理読本』など。
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