いつか誰かが「カメラのファインダーを通して見る世界は、人によって違うんだよ」と話していた。元・カメラ小僧の父親の言葉だったか、どこかの小説だかマンガだかの台詞だかは忘れてしまったけれど……でもまあ、割とよく耳にする表現だと思う。
実際、カメラ好きのカップルが一緒に街を歩くとして、2人が被写体にするのはそれぞれに違うもののはずだ。1人は街路樹や花々、あるいは頭上の青空に向かってカメラを構えるかもしれないし、もう1人は電柱やマンホール、はたまた道行く人々を写真に収めようとするかもしれない。
また、その人がいつも同じものを撮り続けるとも限らない。公園で草花を中心に撮っていた人がある日、急に夜の工場写真に魅了されるようなことだってある。さらに言えば、ファインダー越しの風景は、撮影者のその日の気分によっても変わってくるんじゃないかと思う。
そう、なんとなく街を歩きながらカメラを構えるのを楽しんでいたおっさんが、ある日、某アニメに影響されて「そうだ、動物園に行こう」と思い立ったとしても、何ら不思議なことではないのだ*1。あるいは、満開の桜を写真に収めるべく向かったはずの公園で、いつの間にかスズメさんのプリケツを激写していることだってあるかもしれない*2。
そんなカメラなのだから、「ファインダーを通して見る世界」は十人十色である、と言っても過言ではないはず。同じものを撮っても違うように映るのは──撮影技術の問題も当然あるのだろうけれど──各々の目に映る景色が違うから、だと考えることもできるのではないかしら。
そして、そんなカメラなのだから。
ある日、その人にしか見えないものが映ってもおかしくはない……のかもしれない。
──というわけで、そんな「カメラ」が登場するマンガ『恋の撮り方』を読みました。
著者は、たなかのか(@tanananoka)さん。個人的に「思い入れが強すぎていまだに感想を言語化できないマンガ」の代表『タビと道づれ』の作者であり、新刊が出ると聞いて速攻でポチった格好です。たな先生のリリカルでやさしい表現……大好きなんです……嬉しい……。
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「恋をするとカメラには いつも恋をしている人の姿が写るんだ」
本作の舞台は、とある高校の写真部。
入学式の日、新入生の河島まもるが出会ったのは、どんなことがあっても笑わない写真部部長・佐々木つぐみ。その場の状況に流されて写真部に入部することになったまもるは、つぐみの笑顔を卒業アルバムに残すように部の先輩から頼まれることになる。
ところがどっこい。手渡されたカメラのファインダーを覗いてびっくり。そこには、仏頂面のつぐみ先輩の隣で笑顔を浮かべる、 “もうひとりの” つぐみ先輩がいるじゃありませんか!
心霊写真というわけではなく、ファインダーを覗いた中にいる、つぐみ先輩にそっくりの彼女──まもるが「なかみ先輩」と命名した──は生き生きと動いており、まるでカメラの中に棲んでいるかのよう。お腹は空くし、自己主張はするし、公園デートだって楽しんじゃう。年頃らしい女の子。
写真部の先輩曰く、「恋をするとその人の姿がつねにフレームに写るんだ」。まもるは、そんな “なかみ先輩” の微笑みをファインダー越しに眺めつつ、時には彼女から助言を得ながら、つぐみ先輩との距離を縮めていく。これは、ちょっと不思議なカメラを手にした少年が、 “笑顔” に恋する物語。
リリカルな表現とやわらかな絵柄が彩る、少し不思議な片思い
本作の何が良いかと言えば、表情豊かな “なかみ先輩” と “つぐみ先輩” のギャップ──もそうだけれど、ストーリー上はまもるの「片思い」をメインに据えつつも、同時に「カメラ」や「写真」の魅力を描いている点にもあると思うのです。
それこそ「ファインダーを通すことで街の風景が新鮮に見える」感じは自分もよく知っているし、「自分以外の人と一緒に歩くことで気づけるものがある」というのもそう。まもるの場合は特に、「好きな人と一緒に歩いている」という要素も大きいように見える。ただし “なかみ先輩” のほうだけど。
さらに、たな先生の作品ならではの、独特な言いまわしも魅力。単純化すれば「目の前の一瞬を静止画にして切り取る」だけに過ぎない「カメラ」や「写真」の存在も、先生の手にかかれば、まっこと繊細で詩的な表現に変換されてしまうのです。
「恋は光だよ!」と断言する写真部2年生・ライカ先輩にとって、彼女が大好きなつぐみ先輩は光そのもの。そのつぐみ先輩を写した写真は、彼女にとっては当然ながら単なる「記録」ではなく、「光で描かれたもの(=photograghの語源)」以上の意味を持つと言える*3。
“恋は光” であるのなら、その “光” によって描かれる「写真」は、 “恋” を実体化したもの。ということは、その「写真」を形づくるカメラは「恋の変換器」と言えるのかもしれない──なんて。そんなことをふと考えてしまうくらいには、本作の空気に感化されている自分がいた。
写真やカメラをただの「記録媒体」として説明せず、その魅力についても「好きだから」「きれいなものを撮れるから」などと一言で終わらせず、ただの舞台装置にもとどまらず、そこに複数の意味を持たせて新たな視点を提供してくれる。たな先生のこの作風が、僕はたまらなく大好きなのです。
それと上記の引用画像、まもる視点では「私はつぐみ先輩がきれいと思って〜」のコマでは逆光になっているライカ先輩が、次のコマでは2人で一緒に「光」を見上げる構図になっている感じも好き。
極めつけは、まもるが初めてつぐみ先輩に向かってシャッターを切った、1話のシーン。
このモノローグで使われているのは、一般的な「揺れ動く」イメージの「振動」ではなく、「ふるえ動く」「ふるわせる」という意味合いを持ち、かつ自然現象に使われる「震動」という言葉*4。そうやって単語の意味まで考えると、シャッターを切った際に “震え動いた” 感情の大きさを、たった一語の言い換えで示しているようにも読めるんですよね。しかもその「震え」に「深さ」まで加えている格好。
そこに比喩表現までもが加わり、直前のつぐみ先輩の大きな1枚絵も相まって、初見ではむちゃくちゃドキドキさせられたのでした。ファインダー越しに抱いた「恋」の自覚を、シャッターを切った一瞬の、手元に伝わる小さな動きで表現するなんて……!
そのほかにも、「とっても良い」のくだりとか「カメラは『風景』を食べる」とか、ちょっとした言葉遊びがなんとも楽しい。マンガならではの構図や演出だけでなく、「ことば」が作品世界で大きな存在感を発揮しているように読めるんですよね。まだ1巻なのに、すんばらしい読後感でした。
叙情的な言葉と、やわらかな絵柄と、繊細な心理描写と、クスッと笑えるギャグが織りなす本作。
ふんわりと陽光を浴びているようでいて、青春のみずみずしさが染みわたるようにも感じられる。一口に言えば、とっても「やさしい」作品……なのだけれど、きっとそれだけじゃないんだろうな、という予感もある。『タビと道づれ』も『すみっこの空さん』も、少なからず「痛み」を伴う物語だったから。
胸躍る展開やアツいアクションといった刺激を求めている人には物足りなく感じるかもしれませんが、きっと好きになる人は多いはず。試し読みもできるそうなので、何かしらビビっとくる部分があった方はぜひ読んでみてください!
© TANAKANOKA 2018