タワーレコードが渋谷にやって来た
アメリカ発祥の大型レコードショップ・タワーレコードが東京・渋谷に店舗を構えたのは、1981年のことである。タワーレコードはその2年前、1979年に日本支社を開設し、まず輸入盤の卸業者としてスタートした。翌80年には、札幌でタワーレコードを勝手に名乗っていたレコード店を買収する形で初めての店舗をオープン。渋谷店はこれに続き、初めてゼロからつくり上げられた実質的な日本第1号店である。開店早々より反響は大きく、地下鉄の駅から客が行列をつくるほどだったという。
当時の渋谷店は、現在の場所(渋谷区神南一丁目)から450メートルほど離れた宇田川町に所在した。この宇田川町界隈では、タワーレコードがオープンしたあたりから輸入レコード店が増えていった。そこで新旧の洋楽のレコードを買い漁っていたマニアたちが、やがてつくり手の側にまわり、過去の作品を引用・参照しながら新たな音楽を生み出すようになる。渋谷店が現在地へ移転したのは、こうした一群のミュージシャンが「渋谷系」と呼ばれ出した1995年のことだ。地上8階建てのビルの全フロアを占めた新渋谷店は、売り場面積1500坪(当時)と世界最大級のレコード店となった。その売り上げは移転以来、毎月数千万円に上り、アメリカ国内のタワーレコードのどの支店をも上回った。
タワーレコードは日本での成功を受け、90年代を通して世界各国に進出していった。しかし1999年に10億ドルを売り上げたのをピークに、2000年代に入ると巨額の負債を抱え、経営危機に陥る。04年には、アメリカのタワーレコードを運営するMTS社が最初の経営破綻に追い込まれ、更生手続きをとって再スタートしたものの、06年の2度目の破綻で、とうとうアメリカ国内の全店舗が閉店するにいたった。この間02年に、日本のタワーレコードはMBO(経営陣による企業買収)によりMTSから完全に独立し、CD不況のなかでなお健闘を続けている。一体、日米のタワーレコードはなぜ明暗が分かれたのだろうか? 創業者ラッセル・ソロモン(2017年3月4日没、92歳)の足跡をたどりながら見てみたい。
従業員の成長とともに会社も拡大
ラッセル・ソロモンは1925年、アメリカ西海岸のカリフォルニア州に生まれた。父親は、州都サクラメントにあるタワーシアターという映画館のなかでドラッグストアを経営していた。店内にはジュース・バーがあり、ジュークボックスで音楽も聴けた。あるとき、ソロモンの父がジュークボックスで使わなくなったレコードを1枚10セントで販売したところ、たちまち売り切れたので、今度は新品を売ってみようと思いつく。こうして卸売業者から200枚のレコードを仕入れ、店で売り出したのがすべての始まりだった。1941年、ソロモンが16歳のころだ。父はそのうちに店のスペースを拡大し、ドラッグストアの隣りをレコード売り場にして「タワーレコード・マート」と名づけた。ここでソロモンは無償で働いたので、学校をサボっても大目に見てもらえたという。
ソロモンは第2次世界大戦で徴兵されて復員したのち、1946年、本格的にレコードの小売業に乗り出そうと決意する。父は申し入れを受け、どうしてもやりたいのならと自分の店を買い取らせ、在庫品と店の負債もそのまま引き継ぐ契約を息子と結んだ。
こうして店のオーナーとなったソロモンは、やがてスーパーマーケットのようなレコード店を開く夢を抱く。1961年にはサクラメント市内のべつの場所に小さなレコード店をオープン。これを機に従来の店名から「マート」を取って「タワーレコード」と改称し、現在も使われる黄色の地と赤い斜体のフォントによる「TOWER RECORDS」のロゴも作成された。これはシェル石油のロゴにならったものだという。ガソリンスタンドと同じくロードサイドで看板が目立つよう考えてのことだろう。
入口から奥まで見渡せる店内には大量のレコードが置かれた。スローガンは「高く積んで、安く売る」。まさにスーパーマーケット型のレコード店の誕生だった。タワーレコードは開店するや若者たちのたまり場となり、お金がなくてレコードを買えない者は視聴室に群がり、店の前には楽器を演奏する人たちも現れた。
ちょうど同時期、1961年にはカリフォルニアからビーチ・ボーイズがデビューし、世界的にもビートルズなどのバンドが音楽に革新をもたらしていた。タワーレコードが創業したころの売れ線はもっぱらシングル盤だったが、これらアーティストの台頭にともないLP盤(アルバム)が取って代わるようになる。ちょうどアメリカではベビーブーム世代が成長し、レコードの買い手はどんどん増え、業界はまさに好機を迎えていた。
タワーレコードもこの波に乗って、カリフォルニア州内に店舗を広げていく。1968年には、サンフランシスコに6000平方メートルもの広さの店舗をオープンさせる。ソロモンは当地を訪ねた際、二日酔の状態で入ったドライブインで食事をしていたところ、向かい側に元スーパーマーケットの空き物件を見つけ、運命的なものを感じて、すぐに家主に電話して出店を決定したという。タワーレコード初の大型店となるサンフランシスコ店には開店初日より大勢の客が詰めかけた。
タワーレコードでは客のニーズに応えるべく、常に豊富な在庫を持ち、多彩な音楽を網羅した。おかげで各売り場が専門の小売店のような様相を呈す。店で働くのはみんな音楽好きな若者だった。店員と客はコミュニケーションをとりながら互いの好みを知るとともに、新たな知識や情報を得ていった。
従業員はほぼ全員が店員を経験してから、バイヤーや主任に昇進し、さらには副店長や店長になった。のちの会社の幹部も大半が店員から出発している。ソロモンは店でパーティを好んで開くなど、従業員と家族のようにつきあった。同社では服装も髪型も自由、各店舗の品揃えなども店員たちの裁量に任せられていた。そんな雰囲気のなかで若い従業員たちは成長し、それとともに会社も拡大していく。
1970年にはアメリカの旗艦店としてロサンゼルスのサンセットブルーバード店がオープン。ここは1983年にニューヨーク店が開店するまで最大の店舗で、やはり開店当初から客が殺到した。周囲にはいくつものレコード会社が所在し、ライブ会場も多いため、アーティストもよく立ち寄っている。歌手のエルトン・ジョンは毎週火曜の開店直後に来店すると、売り場を丁寧に見てまわり、新譜をごっそりと買っていった。
アメリカの各店舗では、店員がディスプレイやおすすめ商品などの紹介などに工夫を凝らした。また新譜の情報などを掲載するフリーマガジン『PULSE!』も発行して、客へのサービスを充実させるとともに、アーティストのプロモーションの面でも大きな効果をもたらすようになる。
日本で生き続けるラッセルの精神
タワーレコードの評判は70年代には日本にも伝わってきた。マーケティング・リサーチャーの三浦展は高校時代、夏休みにロサンゼルスでホームステイして帰国した友人から《アメリカにはものすごくでかいレコード屋がある! その店ではLPが縦に並んでいない、平積みにされている! しかもその高さが一メートルくらいある! しかも値段がものすごく安い、LPが三ドルくらい、古いものだと一ドルで売っている!》と教えられ、驚いたという(『東京人』1997年7月号)。
1978年頃には、ソロモンのもとへ二人の日本人男性がタワーレコードをフランチャイズ化したいと訪ねて来た。それは同社としてはまったく計画外のことであったが、ソロモンは日本へ視察に赴き、ビジネスプランを煮詰めていく。結局、話を持ちかけてきた相手に資金がないことがわかり、自前で卸売業からスタートすることになった。卸業者としてはあまりうまくいかなかったが、その後、本業である小売店を日本にも出して、冒頭に記したとおり成功を収める。
70年代後半から一時期、アメリカの音楽業界は沈滞したが、80年代に入り、音楽専門テレビ局のMTVの登場などにより再び盛り上がりを見せる。CDが発売されたのもこのころだ。当初、レコード会社の経営陣は、海賊盤の制作が容易になるとの懸念からCDに否定的だったが、ソロモンは音質のよさを高く買い、いち早く店舗で取り扱いを始めた。このことはCDの普及に大きく貢献する。CDは年を追うごとに売り上げを伸ばし、音楽業界を活気づけた。
その後も新たな音楽メディアが出てくるたび、ソロモンは楽観的にとらえた。タワーレコードが絶頂にあった1994年、テレビ番組のインタビューで、ネットワークを通じて音楽の配信が可能になれば、店頭販売のCDは廃れるのかと訊かれたときも、「音楽を家庭に配信することは必ず実現するだろう。だが、まだ時間がかかる。ビジネスのやり方を変えるのは実現してからだ」と答えていた。
しかし状況はじわじわと変化しつつあった。90年代に入り、ソロモンが外部から雇った経理担当者がCFO(最高財務責任者)に就任すると、会社の債権を売却して資金を調達し始める。これにより債権者や銀行から圧力がかかるようになり、おかげで同時期にソロモンに代わって社長に就いた息子のマイケルはまるで身動きがとれなくなる。悪いことに、このころまでに中南米などの海外事業が失敗に終わり、CDの売り上げも落ちる一方だった。アメリカのレコード会社は90年代後半、アルバムを売るため、シングル盤の発売をやめたが、これは消費者のCD離れを招いた。のちに登場したネットでの音楽配信は、1曲単位での販売が可能なことから、その傾向を加速させる。
だが、タワーレコードにとって決定的だったのは、ウォルマート・ストアーズやベスト・バイといったディスカウントショップがCDを破格の値段で売り始めたことだ。アメリカには日本のような再販売価格維持制度がないため、定価の半額近い安売りが横行した。これに対し、タワーレコードは同じ安売りで戦おうとした。その際、価格交渉力と効率化のために仕入れを本部に集中させたのが、結果的に裏目に出てしまう。仕入れ体制の集権化は、それまで各店舗で品揃えを任されてきたバイヤーの情熱や知識を薄れさせ、ひいては売り場から活力も個性も失われたためだ。店舗や売り場ごとに異なる個性こそがタワーレコードの魅力だったはずなのに、それがなくなれば、客は安いほうに流れるのが当然だろう。
2006年8月、米タワーレコードが経営破綻したとき、すでに資本・業務上の関係が切れていた日本のタワーレコードからも当時の伏谷博之社長らがアメリカに飛んだ。このときソロモンは《店は音楽ユーザーに見放されたんだよ》と悲しそうにつぶやき、《今思えば、あの仕入れ体制の変更が運命の分かれ道だった》と振り返ったという(『日経ビジネス』2006年12月11日号)。
なお、日本のタワーレコードでは現在も本社による集中仕入れは行なっていない。本社は各店舗に対し売上高目標と仕入れ額の枠を指示するのみで、あとはかつての米タワーレコードと同じく、売り場づくりなどすべてが現場に任されている。これは人材を育てるうえでも重要なことだった。日米のタワーレコードの明暗を分けたのは結局、こうした体制を維持できたか否かにあったといえる(もちろん日本の場合、再販制度の存在も大きいわけだが)。
2012年、タワーレコード渋谷店は移転以来初となる全面改装を経て再オープンし、在庫枚数は10万枚増えて80万枚、売り場面積も50坪増床して1550坪となった。以来、各フロアでは、それまであちこちに点在していた自主編集コーナーを1ヵ所に集積し、バイヤーがあるテーマのもと厳選したCDを紹介するなど、さまざまな企画が展開されている。また、いかに客に店へ足を運んでもらうかを主眼に置き、地下1階に新設したライブハウスをはじめ、全フロアでイベントができるようにした。しかも、そのイベントをネット配信できる設備も整えた。ネットショップや配信などがレコード店を脅かすようになって久しいが、日本のタワーレコードは、ネットを必ずしも敵視せず、むしろ活用する方針を打ち出したのだ。
タワーレコードの足跡を追ったコリン・ハンクス監督(俳優トム・ハンクスの息子)によるドキュメンタリー映画『オール・シングス・マスト・パス』(2015年)は、来日したソロモンが杖をつきながら渋谷店を見て回ったあと、タワーレコードの平和島オフィスで大勢の社員たちに拍手で迎えられるシーンで終わる。その光景は、米西海岸で生まれた経営精神が、日本でいまなお生き続けていることをうかがわせた。
ソロモンは故郷のサクラメントで余生を送った。亡くなったその日、自宅でアカデミー賞授賞式のテレビ中継を見ていたところ、「登壇者の衣装がひどすぎる」と言って、夫人にウイスキーを頼んだ。このあと、夫人がウイスキーを持っていくと彼は倒れていたという(『朝日新聞』2018年3月7日付)。
■参考文献
ラッセル・ソロモン「VIEWS INTER-VIEWS タワーレコード社長 日本とアメリカの間には貿易摩擦なんかこれっぽっちも存在しない」(『VIEWS』1993年1月27日号)
烏賀陽弘道「米タワーレコードを殺したのは誰か? 巨大CD販売店破綻をめぐる「誤報」」(『サイゾー』2006年11月号)
佐々木敦『ニッポンの音楽』(講談社現代新書、2015年)
ダイサク・ジョビン「〈タワーレコードを創った男〉、ラッセル・ソロモンが語るタワーの歴史」前・後編(「MiKiKi」2014年9月30日・10月10日)
杉山隆男「「社長」に聞け! 第6回 嶺脇育夫(タワーレコード社長)」(『週刊ポスト』2015年9月18日号)
武田徹「Tokyo1986→1997 大変貌の時代「東京人」の見てきた12年。 1995 渋谷タワーレコードSUPER STORE」(『東京人』1997年5月号)
三浦展「新TOKYO地理学6 レコード屋」(『東京人』1997年7月号)
簑島弘隆「渋谷に世界一の巨大レコード店 外資系が押し寄せる」(『AERA』1994年12月12日号)
「ついに全米制覇も完了! タワーレコード社長のフシギな知恵」(『平凡パンチ』1984年12月10日号)
「実務家が考えるブランド戦略 第4回 タワーレコード 代表取締役COO 森脇明夫氏 ブランドの背後にある熱い思いがお客様を引きつける」(『宣伝会議』2003年8月号)
「NO MUSIC,NO LIFE. こんなタワレコ見たことない!」(『TITLE』2005年9月号)
「時流超流 2度目の破綻、日本での成功が仇に タワーレコード、消えた輝き」(『日経ビジネス』2006年9月4日号)
「戦略フォーカス 新事業参入 タワーレコード 店もネットも売りは「死に筋」」(『日経ビジネス』2006年12月11日号)
「話題店舗訪問 「タワーレコード渋谷店」(CDショップ)」(『激流』2013年4月号)
「タワレコと渋谷と音楽の歴史〈80年代〉洋楽の大衆化…“渋谷系”の源流|長門芳郎インタビュー」(「Red Bull」2017年11月20日)
「追悼 タワーレコード創始者ラッセル・M・ソロモン氏」(「TOWER RECORDS ONLINE」2018年3月6日)
「アカデミー賞視聴中に発作か タワレコ創業者 死去」(『朝日新聞』2018年3月7日付)
『オール・シングス・マスト・パス』(コリン・ハンクス監督、2015年)
イラスト:たかやまふゆこ