佐野元春が、アルバム「THE BARN」(1997年)の発売20周年を記念して、レコードやブルーレイ、DVD、写真集をセットにしたボックスセットを出した。キャリアの転換点となった同作を振り返りつつ、「先輩」はっぴいえんどや、「同級生」桑田佳祐への思いなどを語った。
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70年代の先輩たちへの回答
フォークロック、ブルース、ジャズ…。「THE BARN」の制作は、自身のルーツである米国音楽を見つめ直す作業でもあった。
90年代後半の佐野が、あえて60〜70年代の原点に立ち返ることで見えてきたものとは、何だったのか。
《自分が多感な頃に聴いた良き米国音楽を、きちんとまとめておきたかった。当時の日本のメインストリームにとってはまったく新しい音楽だったかもしれないけれど、僕のなかではバック・トゥー・ルーツだったんですね。
それは、70年代の日本のミュージシャンたちがトライしてきたことでもあった。代表格がはっぴいえんど、ムーンライダーズです。
彼ら以外にも、日本の各地にアメリカのルーツミュージックをベースにして、そこに日本語の歌詞を乗せていく素晴らしい音楽があった。
僕にとって彼らの音楽は実に心地よいものだった。すごくいい音楽が70年代には鳴り響いていたのに、1980年代になると彼らの音楽はなりを潜めてしまう。
ちょうど、僕がデビューした頃です。やがて、音楽はシティポップ隆盛の時代に入って、都市的に洗練された音楽がもてはやされた。70年代のようなルーツミュージックに接近した音楽は聴かれなくなってしまった。
僕はこのアルバムをつくる前に、彼らの音楽を聴き返したんです。
その中で、僕は客観的に若い時に影響を受けた彼らの音楽を捉えることができた。客観的に捉えるということは、憧れだけでなくなく、どんな要素が足りないか、どこを磨いたらいいのかというところまで見えてきたということ。
このアルバムは、1970年代の日本語ロックが乗り越えられなかったことを乗り越えようとしたとも言える。つまり、70年代の先輩たちの挑戦に対する、90年代の「佐野元春」からの回答なんだ。》
はっぴいえんどは教師であり反面教師
佐野にとって、重要な出来事がある。このボックスセットの中にあるライブDVDでガース・ハドソン、ジョン・サイモンがゲストとして呼ばれ一緒に演奏しているシーンだ。
佐野たちは、レジェンドたちに気後れすることなく堂々と自分たちのスタイルを貫き、演奏を完徹している。
《1970年代の先輩たちにとって、アメリカであり、アメリカのミュージシャンは憧れだったんです。その次の世代にいる僕にとっては憧れではない。同じ地平にたって、ともに新しい音楽をつくり出す存在です。
この瞬間、はっぴいえんど、ムーンライダーズができなかったことを僕はやったんだという手応えがあった。彼らより後から出てきたんだから、乗り越えないと意味がないでしょう。》
日本語ロックの新しい地平を切り開いてきた、パイオニアの自負である。
《はっぴいえんどは、僕にとっては教師であり反面教師でもあった。大瀧詠一さんや松本隆さんにも、そう言いました。
はっぴいえんどが3分間で5を表現しているものを、僕なら3分間で10の景色を塗り込める。
僕の8ビート、16ビートに対する日本語のあて方は、もっともっと新しいことをやっている、という思いがありました。》
桑田佳祐とは同じ景色を見てきた
乗り越えるべき「先輩」がはっぴいえんどやムーンライダーズだったとして、ともに時代を併走してきた「同級生」にはどんな思いを抱いているのだろう。
サザンオールスターズの桑田佳祐は、佐野と同い年。1985年には国立競技場で開かれた「ALL TOGETHER NOW」で共演した。
桑田がラジオ番組で、佐野の「La Vita è Bella」を邦楽の年間ベスト1に選出したこともある。
《桑田佳祐は僕よりも2年早くデビューしました。テレビでサザンを見て、「前の世代のクリエイターよりも、もっと多くの情報量を詰め込みたいんだ」という性急さを感じた。
ビートに対する日本語のあて方やフロウは僕と違うけれど、同世代として、同じところを見ているな、と思ったんです。
だからNHKで「ザ・ソングライターズ」という番組をつくった時も、一番出てほしかったのは桑田佳祐だった。ちょうどあの時期に彼が病気になってしまって、その夢は実現しなかったのですが。
そんなに日常で会わなくても、僕らは同じ景色を見てきた。この音楽界で同じ列車に乗ってきた。数少ない、良き友達だと思っています。》
マーケティングで曲はつくらない
佐野が塗り込めるという「10の景色」とは何か。佐野は語りは、自身の信念、聴き手との向き合い方にまで広がっていく。
《僕の言葉でいえば、ポエトリーとなる。
僕はソングライティングをするときに、聴き手の感性を強く信じている。
商業作詞家や商業音楽家はマーケティングから曲をつくろうとする。聴き手はこういうものを聴きたいのだろう、これを聴けば満足するだろうという曲のつくり方だね。
僕はこうしたスタイルを否定はしない。マーケティングによって成り立つ世界もありますからね。そもそも、僕はヒット曲は科学だと思っているので、ヒットする音や言葉の使い方がある。ヒットにこだわるというなら、マーケティング的な分析からつくるのがいいだろう。
しかし、僕のつくり方とは違う。僕はアーティストだからマーケティングから曲はつくらない。聴き手の想像力を限定してしまう音楽もつくらない。
自分のライフワークとして表現者でありたいと思っている。僕の世界観、目に映ったものを忠実にスケッチするというやり方で曲をつくっている。
こうしたやり方で、生きていこうと思う限り、聴き手を信じるしかないでしょうね。
僕は聴き手はこんなレベルだろうなんて絶対に思わないで、自分よりもはるかに感性の鋭い聴き手がいる、彼らに向かって全力でつくり上げようと思っている。
聴き手と、今すぐわかり合いたいとは思っていない。価値観は一人ひとり、違いますからね。いつか届けばいい。
ファンから「あの時の佐野の詩はこういうことが言いたかったのか」と十数年かけて理解されることだってあるんですよ。僕にとって、こうしたやりとりが大事なんですよ。》
あえてアナログ作品を出す意味
「THE BARN」が商業的に大成功を収めた、と言えないことは佐野も自覚している。
しかし、一方で20年かけて若手バンドから「僕たちはこのアルバムから佐野を聴きました」といった感想が届いたり、異例と言っていいボックスセットがリリースされるぐらい、大事だと言ってくれる人が多い作品でもある。
《ボックスセットは反骨を超えて、ラディカルですよ(笑)。
僕も環境の変化というのはわかっているんです。映画も、昔は映画館でしか観られなかったのが、やがてビデオになり、いまはNetflixやHuluでデータで観る時代になった。
音楽も同じですね。所有からリンク・シェアという流れがある。僕は全部いいと思っているんです。
いまは良い音楽を欲している人たちとミュージシャンとのタッチポイントが広がっている。やっとこういう時代になったんだと大いに歓迎している。
そんな時代だから、僕はいろんな形で音楽の楽しみ方を届けたい。僕が嫌いなのは、ダウンロードだけ、データだけといったように、ひとつの極にだけ集中すること。
この時代にあえてボックスセットを出すのも楽しい、アクセスして聴くのも楽しい。僕は、聴き手にすごいなと感じてもらえるものを送り出すだけです。》
「優しいお兄さん」と「怖いお兄さん」
最後に、この記事を読んで、初めて「佐野元春」の音楽に触れるリスナーにメッセージはありますか?と問いかけてみた。
「優しいお兄さん」と「怖いお兄さん」――両方からのメッセージがあると佐野は語った。
優しいお兄さんからはこうだ。
「ポップ音楽、ロック音楽の楽しさ、豊かさを感じてほしい。表現としての可能性は無限だよ」
そして、怖いお兄さんはこう。
「ポップ音楽、ロック音楽を見くびるんじゃねぇぞ」
常に挑戦をやめないパイオニアは、そう言ってにっこりと笑うのだった。
(3月15日取材)
〈さの・もとはる〉 1956年、東京生まれ。1980 年にシングル「アンジェリーナ」でデビュー。1992 年、「Sweet 16」が日本レコード大賞最優秀アルバム賞。2004 年には独立レーベル「DaisyMusic」を設立した。
代表作に「サムデイ」「フルーツ」「コヨーテ」「ZOOEY」「MANIJU」など。5 月23 日には、セルフカバーアルバム「自由の岸辺 」を出す。
インタビュー前編では、40代の佐野元春がいかにして苦悩を乗り越え、新たな「冒険」に挑んだのかを語っています。
「I Love You」だけじゃつまらない 1997年、佐野元春が音楽シーンに叩きつけた挑戦状
バズフィード・ジャパン ニュース記者
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