左、右、ル・ペン
https://archive.lewrockwell.com/dmccarthy/dmccarthy31.html
by Daniel McCarthy
ジャン=マリー・ル・ペンは従来の政治的スペクトルには当てはまらないフランス愛国者を自称する。彼は社会的に左翼で経済的に右翼であると言うが、アメリカの用語では彼は失読症になる。とりわけ、ル・ペンは堕胎と同姓「婚」に反対するが、経済的には保護主義者である。我々の基準によれば、彼は社会的に「右翼」で経済的に「左翼」なのである。
ル・ペンの今年のフランス大統領選での第一回戦の勝利は左右スペクトルの衰退について何人かの学者先生さまをぺちゃくちゃ喚かせた。アラン・ド・ブノワはドイツの保守的週刊誌『ユンゲ・フライハイト』で筆を執って、選挙前の数ヶ月の間に行われた世論調査からデータを引用しつつ、最善の分析の一つを差し出した。
フランス人の75パーセントはシラクとジョスパンの政治綱領にほとんど違いを見出さなかった。56パーセントは大統領選にほとんどかまったく関心をもっていなかった。フランス人の十人のうち六人は右と左の区別が過去のものであるという意見であった。一九九五年以降、自分を「右でも左でもない」とするフランス人の割合は19パーセントから45パーセントまで膨れ上がった。
ブノワはル・ペンの政治運動とはほとんど関わりのない知的運動、ヌーヴェル・ドロワ――フランス「新右翼」――の指導者である。ル・ペンの成功についてのブノワの意見はフランス新右翼の左右時代遅れの信念を反映している。ブノワは他のところでは中央対周辺という新しい政治の枠組みを提唱していた。ヌーヴェル・ドロワ自体は特徴付けるのが容易ではないが、一般的には反アメリカ的で反資本主義的、分権主義的、共同体主義的である。
インターナショナル・ヘラルド・トリビューン(IHT)のもっと退屈な左翼自由主義者もル・ペンについて似たイデオロギッシュな意義を認めている。IHT香港記者リフィップ・ブラウニングが記すには、
市場先導型の大部分が私営的なグローバル資本主義の優勢は圧倒的である。なので候補者間の相違は曖昧になり、フィリピンでジョゼフ・エストラーダを、タイでタクシン・チナワットを、イギリスでトニー・ブレアを、イタリアでシルヴィオ・ベルルスコーニを選出するようなパーソナリティー政治が大きくなる。
カリスマ政治家は風采で劣るライバルよりつねに有利であったから、何も新しいことはない。それでもなお、ブラウニング氏は確かに主流派立候補者間――ジョスパンとシラク、あるいは共和党員と民主党員――の相違が曖昧になったという点で正しい。しかしその責任は「……グローバル資本主義の優勢」にあるのか?
あるが、一部でしかない。ソビエト共産主義の崩壊と旧式社会主義の失墜は実際には世界中の左翼政党に、少なくとも皮相的には新しいプラットフォームとアイデンティティーを採用するよう強いた。しかし右翼はどうか。シラクのゴール主義的な共和国連合(RPR)からアメリカ共和党員までの「保守」政党は彼ら自身のアイデンティティー危機を患っている。というのもこれらの政党は長期的な傾向において、その起源が福祉国家以外の何も「保守」しない政党だからである。
ブノワの哲学についてアメリカ保守主義者が不同意しなければならない点は多いが、「中央」と「周辺」の区別を強調する点においては確かに彼が正しい。「中央」とは国家それ自体であり、国家は従来の右と左をそれ自体の本体に取り込んできた。この過程は冷戦終結以前に十分に進行しており、その後は加速したにすぎない。六十年以上の過程をかけて生じた社会民主主義の勝利と比べれば、かの共産主義の崩壊には二次的なイデオロギッシュな意義しかない。
半文明的世界での今日の主流派政党の間には非常に微妙な知的綱領的相違しかないが、これは左右軸が消滅したせいではない。むしろ二十世紀の非共産主義左翼の勝利は真の右翼の価値をほとんど絶無に貶めるほど、「周辺」の立場に追いやるほど絶対的であった。右翼を共産主義者のままであるのと同じだけほとんど取るに足らないものにしたのはこれだが、だからといって、今の右翼と共産左翼が何か同じものを持っているというわけではない。周辺右翼は、周辺的な共産左翼と名目上は「保守的」な政党も含む巨大な中道左翼の両方に対して戦わなければならない。
ル・ペンの立場のうち幾つか、最も有名なところで彼の第三世界からの移民の規制の望みは、中道左派を脅かす。これこそは彼の立場が決して討論されず、排外主義、人種主義、反ユダヤ主義、原住民主義と愚弄されるばかりだった理由である。大量移民は膨大な量の騙されやすい投票者を創造し、文化的に共同体を分割すること、この両方で社会民主主義に奉仕する。それは分断統治戦略なのである。
彼の理念は危険かもしれないが、ル・ペン自身と国民戦線は選挙では無害である。同じことが他のところの「大衆主義」運動――到底大衆的ではないけれども――にも当てはまる。というのも、彼は政治的エリートから平民の疎外について語るとき、いつもは彼らに投票するからである。あらゆる形の社会民主左翼が理念(と名声)の戦いで勝利を収めたから、。選挙の結果は結果論にすぎない。
ル・ペンが社会的に右翼で経済的に左翼であるか、経済的に右翼で社会的に左翼であるか、或る種の「第三の立場」であるかは彼の政治的運命に関わらない。彼は、メディアと体制派によって周辺的傍流とみなされるほど、移民の見解の形にかけて真正の右翼である。大衆の好意を勝ち取る真剣な機会を得るためには、彼は、すでに快く応じているであろう社会民主主義の経済学のみならず、その世界観全体を受け入れざるをえないだろう。ちょうどジャック・シラクのような男たちと同じように、彼は全面的に左翼の男にならざるをえないだろう。
April 30, 2002