陰謀論、再考

Rothbard, M., The Conspiracy Theory of History Revisited

[This article originally appeared in Reason, April 1977, pp. 39–40.]

いつであれ、我々の支配者はであるか、その政治的経済的利害関心がどう絡み合っているかの鼻っ柱の強い分析が提示されるとき、いつも体制派のリベラル〔モダン・リベラルズ〕と保守主義者により、(そして多くのリバタリアンにさえ、)「陰謀史観」や「パラノイド」、「経済決定論者」、ましてや「マルクス主義者」と非難される。それらの現実主義的な分析はジョン・バーチ協会から共産党までありとあらゆる経済的スペクトルから差し出されうるし、差し出されてきたにせよ、これらの侮辱的レッテルは間切りを跨いで貼り付けられる。最もありふれたレッテルは「陰謀論者」であり、ほとんどつねに、「陰謀論者」自身に採用されるレッテルより敵意に満ちた罵倒語として浴びせられる。

これらの現実主義的な分析を書き出してきたのが普通は体制派コンセンサスの外側にいる「過激派」であることは不思議ではない。というのも、公衆の目から見て正統性はおろか神聖さをもつことが国家機構の継続的支配にとっては決死だからであり、我々の政治家と官僚は専ら「公共財」にのみ献身する精神、肉体を離れた精神であると見なされるような神聖さが決死だからである。これらの精神はみな国家の行使で経済的関心の集合を推し進めるギチギチの世事に基づいていることあまりに頻りであると秘密を漏らしてしまうや否や、政府の基本的な神秘感は崩れ始める。

易しい例を挙げよう。議会は鉄鋼関税増加や鉄鋼輸入割当賦課の法案を可決したとしよう。 この関税や割当が可決されたのは効率的な外国競争者を締め出そうと切望する国内鉄鋼産業ロビーストの要請であると気づき損ねるのは軽愚だけであろう。そのような結論に対して「陰謀論」の非難を浴びせるものはいまい。しかし、陰謀論者がすることとは単純に、彼の分析を政府のもっと複雑な措置に拡張することにすぎない。そう、公共事業、ICC〔州際通商委員会〕の設立、連邦準備制度の創造、アメリカ合衆国の参戦に。これらのそれぞれの事例で、陰謀論者は自問する。Cui bono?(誰のため?) この措置で誰が得するか? 彼は、措置AがXとYを利すると発見するならば、次はその仮説を調査する。XとYは実際に措置Aの可決をロビーしたか、あるいは圧力をかけたか? 要するに、XとYはその利益に気づき、それに応じて行為したか。

パラノイドや決定論者とは程遠く、陰謀分析は人間行為学者プラクシオロジスト)である。すなわち、彼が信じることは、人々は目的をもって行為し、その目標を達する手段を使用するために意識的な選択を下すことである。したがって、もしも鉄鋼関税が可決されるならば、彼は鉄鋼産業がロビーしたと想定する。公共事業が創造されるならば、それは箱物作りを享受した建設会社と組合、及び仕事と収入を増加した官僚の同盟が促進したと仮説を立てる。あらゆる出来事――少なくとも政府の出来事――がランダムで無計画であり、ゆえに人々は合目的な選択と計画に携わらないという信念を告白するのが「陰謀」分析の敵対者である。

もちろん、良い陰謀分析者と悪い陰謀分析者がいる。それはちょうどどんな科目にも歴史家と実践者に良し悪しがあるのと同じである。悪い陰謀分析者は二種類の間違いを犯しがちであり、これが彼らを体制派の「パラノイド」非難に晒す。第一に、彼はcui bono(誰のため)で止まる。彼は、もしも措置AがXとYを利するならば、それゆえにXとYが責任を負う、と端的に結論する。彼は、それが単なる仮説であり、XとYは本当にそうしたか発見することでの検証を要することに気づかない。(おそらくその最もイカれた例はイギリス人ジャーナリスト、ダグラス・リードであり、彼はヒトラーの政策の結果がドイツの破壊であったことから更なる証拠もなしで、それゆえにヒトラーは故意にドイツを潰そうとした外国勢力の意識的エージェントであったと結論した。)第二に、悪い陰謀分析者はすべての陰謀、すべての悪人パワーブロックを一大陰謀に包み上げようとする脅迫的な衝動をもっている。彼は、政府の支配権を得ようとしてときに紛争しときに連携する幾つものパワーブロックが存在するのを直視する代わりに、人々の小集団がすべてを支配しており、紛争しているかのように見えるにすぎないと――またしても証拠なしで――決めてかからなければならない。

さて、これらの省察を誘発しているのは事実上、カーターとモンデールから下までの新カルテル政権の最高指導部全体がアメリカ合衆国と西ヨーロッパ、日本の政策を提言するため一九七三年デイヴィッド・ロックフェラー創設の半ば秘密の小さな三極委員会のメンバー、あるいはロックフェラー基金委員会のメンバーであるというほとんど見え透いた事実である――メジャーな週刊誌にも述べられるほど見え透いている。あとは、アトランタ企業の利害関心、特にコカコーラ株式会社と、ジョージアの大企業に紐付いている。

さて、我々はこのすべてをどう見る? デイヴィッド・ロックフェラーの一定の国家主義公共政策のための膨大な努力は単なる無焦点な利他主義の反映か? それとも複雑に入り組んだ経済的利害関心の追求があったのか? ジミー・カーターが三極委員会メンバーをそれが設立されるや否やすぐ指名したのはデイヴィッド・ロックフェラーらが無名のジョージア州知事の英知を拝聴したかったからか? それとも、彼は無名のうちにドカンと現れて彼らの支持で大統領になったのか? ジミー・カーターの早期支持者、コカコーラの社長J・ポール・オースティンは、単に共通善への関心から? 三極派とロックフェラー基金とコカコーラ人の全員がカーターに選ばれたのは、彼が彼らを最もデキる人々だと感じたからか? それはぶったまげるような偶然だな。それとも、もっと不吉な政治経済的利害関心が絡み合っていた。わたしとしては、政府の政治的経済的利害関心の相互作用の調査を頑迷に拒絶する無邪気君は我々が生きる世界を分析するための本質的道具をほったらかしていると具申する。

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