文化的マルクス主義は撞着語法である

Gary North, “Cultural Marxism Is an Oxymoron,” July 01, 2014, Gary North’s Specific Answers, https://www.garynorth.com/public/12623.cfm

一匹の妖怪がアメリカ保守主義を徘徊している。文化的マルクス主義という妖怪が。

妖怪(Specter)[1]

一。可視的無体精神、特に恐ろしい性質のもの。幽霊、幻影、亡霊。(1. a visible incorporeal spirit, especially one of a terrifying nature; ghost; phantom; apparition.)

二。恐怖や心配の対象や源泉。―病気や飢饉の妖怪。(2. some object or source of terror or dread: the specter of disease or famine.)

告白、浸透と分離

一つの筋書きから始めよう。プロテスタント宗派内の理論家集団が教えを説き始める。いわく、キリスト教は真理である。二つの教理を除いて。その一つ目は、イエスはとにかく神聖ではなかった。二つ目は、聖書は文字通りの真理ではない、と。〔彼らはキリスト教からこれら二つの教理を除く。〕さて、これらの人々の正説について、君は何と言う?

西洋は一八〇〇年代早期に国家資金ドイツ諸大学でこれらの議論を耳にし始めたが、このキリスト教と聖書の解釈の基本的アプローチは十七世紀中葉にイギリスで始まった。チュー・サークル(Tew Circle)でだ。これは一般的には学会で認識されていないが、歴史的にはこれが事実だった。その歴史的背景は三十年前にH・G・レーヴェントローH. G. Reventlowの『聖書の権威』The Authority of the Bible[2]という題の本で包括的な形で提出された。この本とその著者は事実上学者には知られていないが、この本は見事な専門書である。

この考え方は一八七五年頃のアメリカ・プロテスタント学会界隈でもっと広く受け入れられ始めた。とても速く広がった。それは神学的モダニズムとして知られ始め、一九三〇年までにはメイソン=ディクス線以北の最本流のアメリカ・プロテスタント教会で受け入れられていた。その主な例外はミズーリ教会会議ルター派であり、そこで戦いが続いた。

非本流教会のメンバーであった人々はこの考え方を反キリスト教とみなした。反対派の最も有名な宣言はJ・グレサム・メイチェンJ. Gresham Machenの本、『キリスト教と自由主義』Christianity and Liberalism(1923)であった。彼は正しかった。

非本流教会は成長し始めた。非本流宗派の成長は一九二五年以降に遅くなった。それらはジョン・D・ロックフェラー二世が死んだ年、一九六〇年頃、縮み始めた。我々がシェンケルの本『金持ちと王国』The Rich Man and the Kingdom(1996)を読むとおり、ロックフェラーは一九二〇年以降、他の誰より神学的モダニズムに融資していた。この縮小過程は続いている。

似たような浸透/分離過程が、マルクス主義内部で発生した。

文化的マルクス主義

一九六〇年ソビエト社会共和連邦のマルクス主義者が文化的マルクス主義として知られる運動をどう見ていたかは、聖書信仰キリスト教徒が神学的モダニズムを疑っていたのと同じ程度の懐疑をもってのことであった。言い換えれば、彼らはそれがちょっとでもマルクス主義であることを否定したのである。

お前が特定のイデオロギーの根本教理を放棄してなおそのイデオロギーの名を持ち続けようとするとき、そのイデオロギーの信奉者の一群がいるからには、お前は本来のイデオロギーの擁護者から侵略者として見なされるだろう。

文化的マルクス主義とはマルクス主義にとって、モダニズムがキリスト教にとってそうであるところのものである。文化的マルクス主義をマルクス主義と見なす者はみなマルクス主義を理解していなかったのだ。けれども、保守界隈ではそれが有り触れている。それは概念的な間違いであるから戦略的な間違いである。

正統派マルクス社会主義の胸と心、魂はこうだ。経済的決定論の概念である。マルクスの論ずらく、生産様式の不可避的変形ゆえ社会主義が歴史的に不可避である。彼いわく、生産手段が社会の下部構造であり文化一般は上部構造である。彼いわく、人々は特定の生産様式への関与ゆえに社会の法律と倫理、政治の特定見解をもつ。一八五〇年代の優勢な生産様式は資本主義であった。マルクスはこの生産様式を命名した。本来のマルクス主義が文化的に死んでなお、その名前が張り付いている。

まさしくこれが純粋に経済的/物質主義的であったからこそ、マルクスはこの立場で支持を得た。それは理念が社会変形の根本であるという理念に基づいた歴史的説明の痕跡をすべて切り捨てた。マルクスは、階級闘争の決戦場は生産様式であり、理念の場ではないと信じた。彼は理念を生産様式の二次的副産物とみた。彼の見解はこうだ。理念は有意な帰結をもたぬ。この理念をマルクス主義から取り除いてみよ、それはもはやマルクス主義ではない。

こういうわけで、わたしとしては保守主義分析家が文化的マルクス主義の理念を容認するのが驚きなのである。彼らはこの理念を支持する挿話のためにフランクフルト学派の著作物に取り掛かる。鋭利な分析家はアントニオ・グラムシの一九三〇年代の獄中著作物に遡る。彼は公式に共産党員だった。彼はイタリア人だった。彼は一九〇〇年代をソビエト連合で過ごしレーニン主義伝統は間違っていると信じた。西洋はまさにキリスト教であったからこそ共産主義の肥沃な土壌であることを証明しなかった。彼は西洋の主たる献身としてのキリスト教が敗れるまでそこにプロレタリア革命なしと明瞭に認識した。歴史は確かに彼を裏書きした。革命は起きなかった。

グラムシの論じ、フランクフルト学派が彼に倣わくは、マルクス主義者にとって西洋を変形する道は文化革命を経てのことであった。文化的相対主義の理念である。その議論は正しかった。しかしその議論はマルクス主義ではなかった。その議論はヘーゲル主義であった。それはマルクス主義をひっくり返した、ちょうどマルクスがヘーゲルをひっくり返したが如し。マルクス主義の最初期の理念はヘーゲル主義の精神的側面の拒絶に基づいていた。それは資本主義文化分析の核心に生産様式を置いた。

わたしは一九六八年ほどの前にマルクス主義の本を書いたが、そのとき対抗文化は急成長していた。わたしは『マルクスの革命宗教』Marx’s Religion of Revolutionと題した。一九八八年版をダウンロードここ[3]でできる。マルクス主義が革命の宗教であり、古代ギリシアのクロニア祭りに遡るという見解は、わたしとしては一九六八年において明らかであった。マルクス主義は経済含む社会に限定された分析ではなかった。わたしは文化的マルクス主義に時間を費やさなかった。文化的マルクス主義者に時間を費やすことでマルクス主義の宗教的側面を示すのはもっと簡単であっただろう。彼らはこれらの文化的論点が西洋文化の宗教に関わること、それがキリスト教の副産物であることを明瞭に見ていた、しかしこれはわたしの本の目的を破っていただろう。わたしは本来のマルクス主義が宗教であったと示したのである。文化的マルクス主義にせがみたてたら読者を戸惑わせていただろう。文化的マルクス主義者はもっと手軽な標的であっただろうが、彼らを論じることはわたしの本の議論を弱めていただろう。

文化的マルクス主義者はマルクス主義陣営を分断した。彼らの文化攻撃は戦術的であるとプレゼンされてきたかもしれないが、それは戦術以上であった。それは戦略だった。それは本来のマルクス主義の放棄に基づく戦略だったのである。わたしはこれを記録文書批判『アジェンダ―誤解を招く、あるべからざる根本主義ビデオ』Agenda//www.garynorth.com/public/10256.cfm[4]での議論として用いた。

我々はこのマルクス主義分裂を或る家族の観点で議論することができる。一九四〇年代と五〇年代のアメリカ合衆国で最も著名なスターリン主義の知的擁護者はハーバート・アプティカーHerbert Apthekerであった。彼の娘ベティーナは自由言論運動の指導者の一人であり、それはバークリーのカリフォルニア大学で一九六四年秋に始まった。彼女はスターリン主義の父よりはるかに有名になった。そのキャンパス・イベントは学生反乱と対抗文化運動を打ち出した。しかし「対抗文化」という用語それ自体がそれは決してマルクス主義ではなかったことを示唆している。それは優勢文化を投げ打つ試みであったが、マルクスはそのような概念に時間を無駄遣いしなかっただろう。マルクスはヘーゲル主義者ではなかった。マルクス主義者だった。

彼女と彼女の父は一九六八年に分裂した。ソビエト社会共和連邦がチェコスロバキアを侵略したとき、彼女はこれに反対した。彼女の父が主要人物だった合衆国の主流派共産党はソ社連を後押しした。

後年、彼女は父が自分を三歳から十三歳までの間性的に虐待したと記した。彼女の父は、彼の世界観の奥底では、彼自身のグラムシ主義アジェンダで身を処していた。彼は彼自身の家の西洋文化を攻撃していた。しかしそれは彼の正統派マルクス主義には及ばなかった。それは彼の娘のそれに及んだのである。

ベティーナ・アプティカーは今ではカリフォルニア大学に雇われており、文化研究を、フェミニズムを教えている。彼女がバークリーでマリオ・サヴィオとともに始めた運動は一九七〇年代早期に死に絶えた。彼女は今なお資本主義の批評家であるが、彼女の批判はマール・マルクスの著作物には基づいていない。どちらも対抗文化ではなかった。

対抗文化

一言で言おう。マルクスは間違っていた。グラムシが正しかった。しかしマルクス主義は対抗文化の主な大義ではなかった。対抗文化は文化に基づいていた。一八八〇年代中葉に始まり一九〇〇年頃にピークを迎えた理論的モダニズムと進歩主義運動の同盟は狂騒の二十年代の神学的土台であった。それから大恐慌が来た。それから第二次世界大戦が来た。一九一八年以後、男の子たちがあそこから帰ってきたとき、彼らはもはや正統派キリスト教のような何かに献身してはいなかった。彼らの子の男の子たちが第二次世界大戦から帰ってきたとき、第一次世界大戦後に始まった文化的腐食はほとんど完成していた。これはマルクス主義とは何の関わりもない。マルクス主義は生産様式の変化に基づく文化的変化の擁護に献身した。しかし一九四五年には、第二次大戦時に生じた現代的管理の台頭を除けば、生産様式の根本的変化はなかった。それは資本主義を強固にしたが、資本主義を弱めはしなかった。

問題はこうだ。保守主義者は文化的マルクス主義者の主張をまじめに取りすぎているが、彼らは実際にはマルクス主義者ではなかったのだ。彼らは基本的には進歩主義者と社会主義者であった。彼らは一八五〇年のマルクスの標的であっただろう。彼は生涯のほぼすべてをこの種の人々を攻撃することに費やしていたし、アダム・スミスや古典派経済学者を攻撃することにはちっとも時間を費やさなかった。彼は一八七〇年代早期に出現した新古典派経済学者とオーストリア学派経済学者に対して一言も答えなかった。マルクスはこれらの人々に応答するだけの時間をたっぷりともっていたが、決して答えなかった。彼はその人生のほぼすべてを、今文化的マスクす主義者と呼ばれているような人々を攻撃することに費やした。彼は彼らを社会主義陣営の敵を見なしていた。彼が彼らを攻撃したのは、彼らがその資本主義攻撃を彼の科学的社会主義の用語に依拠しなかったからであり、科学的社会主義は生産様式の概念に基づいていた。

グラムシは一九二〇年代において、自分はソビエト連合に留まっていたらソビエト強制収容所に行き着くだろうと明瞭に理解していた。彼は処刑すらされていたかもしれない。彼はスターリンがおそらく彼を殺していただろうと気づいていた。なので彼はイタリアに帰った。それでイタリアの強制収容所に行き着くだろうと全面的に知っていながらであり、行き着いたのだった。ファシストは読ませてくれた。書かせてくれた。そうすることで、彼らはマルクス主義的共産主義を掘り崩した。

フランクフルト学派の歴史的影響を辿るのは難しい。ちっぽけなセクトから文化一般への運動することは複雑な因果関係の研究を要する。文化的相対主義への基本的運動は一八八〇年代後半に始まっていたし、その兆候は神学的モダニズムと進歩主義運動であった。フロイト主義心理学は一九二五年までにはその一部となった。フロイトが相対主義の正当化であって、フランクフルト学派は後から来た。神学的モダニズムはフランクフルト学派以前にそれ以上の転向者を獲得していた。

ケネディー暗殺の直後に始まった対抗文化はフランクフルト学派の産物であるよりはるかにローリング・ストーンズのものであった。一九六〇年代中葉のセックス・ドラッグ・ロックンロールは一九五〇年代後半のセックス・ビール・ロックンロールに取って代わった。それは強力な発酵だった。対抗文化をフランクフルト学派に遡及するな。それがもっと良く遡るのは第一次世界大戦であり、これが西洋の諸制度を根こそぎにした。一九一八年以降モデルTの後部座席に乗って進んでいったのはフランクフルト学派の著作物以上に対抗文化に関わっていた。

結論

マルクスがこう論じたであろう。アメリカ文化を作り直したのは、他の何よりモデルTに代表される生産様式であった、と。わたしの議論はこうである。一八七五年に始まるメイソン=ディクソン線以北プロテスタント神学校の一握りの者たちとともに進んでいったものが、モデルTやフランクフルト学派よりも対抗文化に関わっていた。これは文化の論点をそれが属するところに、つまり神学に帰す。こういうわけでわたしはこの議論を神学から始めた。人々が地獄の教理を信じることは、彼らが生産様式とプロレタリア革命の関係を信じることよりも、彼らの行動に深く関わっている。

西洋は決してプロレタリア革命に近づかなかった。左翼は近づいていたと信じたかった。彼らは「フランクリン・ルーズベルトが資本主義をそれ自体から救った」と論じたかった。これはジョン・メイナード・ケインズが資本主義をそれ自体から救ったと言うののもう一つの言い方である。どちらの議論も間違っている。ルーズベルトとケインズは一度しか会わなかった。ルーズベルトはケインズを経済学者ではなく数学者であると評価した。これは正しかった。ケインズは経済学ではなく数学で学位を取った。ルーズベルトは我々がケインジアニズム1933-36と呼ぶものの源泉であって、それはケインズではなく、彼の一九三六年に出版された『一般理論』ではなかった。しかし学者は学会の議論が世界を形作ると信じたがる。彼らは作らない。彼らは一般公衆の思考と実践にすでに根付き始めていたものに順応するのである。

人々は「汝盗むなかれ」が「汝盗むなかれ、多数派の票による場合を除き」を意味すると決定したとき、ケインジアン世界観が生まれた。この世界観が今優勢である。マルクス主義は死んでいる。ゆえに文化的マルクス主義も死んでいる。

我々はこの戦いに勝つために、「汝盗むなかれ」の意味するところは汝盗むなかれ、多数派の票あれどなかれど、と説得しなければならない。

これは生産様式とは何の関わりもない。

[1] http://dictionary.reference.com/browse/specter

[2] http://www.amazon.com/Authority-Bible-Rise-Modern-World/dp/0800602889

[3] http://bit.ly/gnmror

[4] https://www.garynorth.com/public/10256.cfm