なぜミロウスキーはネオリベラリズムとオーストリア学派のことを間違えているのか

Philipp Bagus “Why Mirowski Is Wrong About Neoliberlaism and the Austrian School,” idem, 12/18/2015, [https://mises.org/library/why-mirowski-wrong-about-neoliberalism-and-austrian-school]

自然科学の方法を採用しているかどで新古典派経済学を批判した本『光より熱い―社会物理学としての経済学、自然の経済学としての物理学』で知られるフィリップ・ミロウスキーは近頃、金融危機時のネオ自由主義と経済学業界についての本を出版した。『深刻な危機を無駄にするな―新自由主義は金融危機をいかに生き延びたか』での彼の主なテーゼは、経済学業界は金融危機の予言と説明に完全に失敗したことである。にもかかわらず、主流派経済学者はいかなる否定的帰結も蒙らずに、相変わらず仕事を続けている。

ミロウスキーの見解では、新古典派経済学とネオ自由主義、政治的右翼は、モンペルラン協会による精妙なプロパガンダの努力と交錯したロビーイングの機構のおかげで、危機を抜け出してもっと強くなった。ミロウスキーによれば、モンペルラン協会は政治を支配する保守派と自由市場派のシンクタンクとネオ自由主義学界の複雑な網の核心として機能する。

ミロウスキーの分析は極左平等主義の見地から来ているとはいえ興味深い。特にしっくりくるのは彼の新古典派経済学の分析と批判である。この書評論文は三部で構成される。第一に、私はミロウスキーが正しいところの論点にコメントする。第二に、私はオーストリア経済学(とリバタリアニズム)と新古典派経済学(とネオ自由主義)の明瞭な違いに関するミロウスキーの根本的な間違いを議論する。最後に、私はミロウスキーら典型的な社会主義者が市場経済に関して抱いている神話と誤りに応答する。

主流派経済学職の嘆かわしい状況

新古典派の主流派業界は景気大後退を予言できなかった。新古典派経済学者は、中央銀行が厳しい後退を基本的には消滅させたというマクロ経済安定の新時代、大沈静(Great Moderation)を信じていたから、二〇〇八年に経験され始めた金融システムと世界経済の大問題に不意打ちを食らった。

ミロウスキーはこの失敗を方法論的な袋小路の結果と説明する。新古典派業界はその恥ずべき動学的確率的均衡モデル(DSGE)のような方法論的道具立てでは大後退を予言できなかった。DSGEには基本的に危機の余地がないから、新古典派経済学者は金融危機を予言できないばかりか、振り返って説明することもできない。

ミロウスキーは新古典派陣営の認知的不協和を診断する。新古典派理論は金融危機を説明できない。容認理論と現実の間に溝がある。この溝を架け橋するために、新古典派は経験的証拠を彼らの理論にどうにか合わせようと調整(歪曲)するよう反応する。主流派の経済学はパラダイムの変化が必要だと認知する代わりに、経済学業界は意固地になって数理モデルに固執するのである。

ミロウスキーは主流派の正説の惰性を正確に記述する。新古典派経済学への知的資本投資のサンクコストは膨大だ。業界は志もビジョンもないままよろよろ歩き、凡庸に停滞する。思想教化が正説をプロパガンダする。学生は諸理論の支離滅裂な雑録を使って経済学の教科書と仲良くする。彼らは主流派方法論を使う高名なジャーナルに掲載された短命な記事を読まされる。この文脈で、ミロウスキーはジャーナル一般が数理的統計的記事に好意的な方法論と経済史の記事の掲載をやめたという事実を指摘する。ミロウスキーはいみじくも数理化を自然科学者の経済学への合併と結びつけ、この発達を金融危機の理由の一つとみなす。

方法論的批判

ミロウスキーは経済学者が物理科学に嫉妬していると論じながら新古典派の方法論を批判する。この嫉妬のせいで、経済学者は物理学の方法とモデルを模倣し始めた。新古典派経済学者が危機を予見できなかったのは物理学で使われる数理的アプローチのせいだった。ミロウスキーの批判は左翼新古典派経済学者に対しても萎縮しなかった。彼は彼自身のアプローチを一貫させて、グリーンスパンとバーナンキのみならず、スティグリッツとクルーグマンをも窘めた。彼らにはイデオロギッシュな違いがあるけれども、彼らはみな、代表的エージェントが効用関数を最大化するDSGEモデルを利用する。[1]ミロウスキーによると、ミクロ経済学がケインズ革命のせいでマクロ経済学と分離した後再び経済学の統一を許したのはDSGEモデルだった。DSGEモデルは効用最大化エージェントと高度の集計を導入することでミクロ経済学の数理的アプローチをマクロの領域で利用させてくれる。ミロウスキーはDSGEなしでは新古典派経済学は消滅すると言うところまでいく。

ミロウスキーは経済学のやり直しと新古典派パラダイムの終わりを求めるが、代案を差し出しかねており、オーストリア学派の行為学的アプローチに気づいていないようだ。ミロウスキーが求める現実主義的代案はすでに存在している。彼はまた、オーストリア経済学者がその現実主義アプローチのおかげで彼らの予言済みの金融危機にちっとも驚かなかったことも知らない。残念ながら、ミロウスキーのハイエク解釈と、当代オーストリア学徒の無視はいわずもがな、ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスとマレー・ロスバードの作品への完全な無知を見るにつけ、彼のオーストリア学派への無知は計り知れない。

金融業界と学界の不吉な結合

ミロウスキーは記入業界と学界のコネクションを記述するときが最高潮だった。彼は、元ハーバード大学学長にして数年間オバマのチーフアドバイザーだったローレンス・サマーズのような著名な主流派経済学者を大金融会社が雇ったことの証拠文書を提出する。サマーズは二〇〇九年に純資産1700万~3900万ドルを申告しました。彼は会議の演説一回でゴールドマン・サックスから13万5千ドルを受け取ったほか、他の金融会社からも膨大な後援者謝礼を得ている。

他にも金融業界でうまい仕事を請けた大物の主流派経済学者でいる。有名な新古典派経済学者マーティン・フェルドシュタインは二十年間AIGの監査役会に所属することで、彼らの破滅的な事業も出るに直接関与していた。失敗企業の政策決定に一層責任があったのはAIGに利用された金融モデル担当のエール経済学者ゲイリー・ゴートンである。MITの金融経済学教授アンドリュー・ローは金融業界のために量的モデルを開発したもう一人の新古典派経済学者の例として引用される。奇妙なことに、彼らの欠陥持ちの理論に基づいて危険な金融慣行が発達していた際に新古典派経済学者が関与していたにもかかわらず、彼らの名声は着手をされていない。失敗したAIGのモデルに責任を負う主要人物ゴートンは『二〇〇七年のパニック』の説明で有名にさえなっており、『見えざる手のビンタ』という題名の本を出版した。

ミロウスキーに示されたとおり、金融業界の台頭と平行して、大学教授全体を占める経済学者の割合が増加した。ミロウスキーは学界市場が占拠されたと示唆する。経済学者は金融業買いの特権を指示する理論の開発と引き換えに金を払われる。残念ながら、著者は金融業会を自由市場の部分であると描写し続けて、かかる部門が民間ではなく半官であることに気づき損ねている。

ミロウスキーは金融経済学の出版物の大部分が直接間接に連邦準備(FED)にスポンサーされていると示すローレンス・ホワイトの重要な作品を引用しながら実にうまく金融業界と学界のコネクションを記述する。金融経済学者の四十パーセントがFEDに雇用されている。FEDからの助成金を受け取っていない正統派金融経済学者はほとんどいないようだ。加えて、FEDが雇用する経済学者はDSGEモデルを開発した。経済学者の業界は財政的に攻略されたのである。

ミロウスキーは巧みに主流派経済学業界と金融部門の制度的連結を示す。あいにく、ミロウスキーは経済学業界と政府のコネクションを調査する際には体系的ではなかった。たとえば、彼はバーナンキが公共部門で、すなわち中央銀行の総裁として職を得た学界人の好例であるとは指摘しない。ミロウスキーはサマーズの事例でのコネクションに言及するが、金融業界に特権を創造し、この特権を正当化する経済学者にどっさり支払っているが政府であることには気づき損ねる。

新古典正統派と金融業界の私事的な連結を描写したあとは、主流派の惰性と、かくのとおり欠陥理論を維持するインセンティブ、パラダイムの変化に対する抵抗が、さもともらしくなる。けれども、ミロウスキーは枢要な一面で間違える。彼は金融制度が規制なき自由市場秩序を正当化するために学界を買収することに成功したと示唆するのである。ミロウスキーは金融業界が経済の最も規制された部門の一つであることに気づいていない。ミロウスキーが金融市場を束縛なき自由市場の好例と考えていることには度肝を抜かせられる。彼は、金融市場が自由市場より中央計画に近いと気づくことなく、金融市場が失敗したと記す。明示的暗黙的な財政援助保証と、部分準備銀行の合法化のような法的特権、最後の頼みに法定不換紙幣を発行する金貸しは、金融業界の地位を私ではなく、むしろ公共にする。

ミロウスキーの解釈のこの誤りにもかかわらず、彼が指摘する政府と金融部門、学界のコネクションは非常に役に立つ。かかるコネクションは主流派学界と(半官銀行部門含む)政府の間に共通する利害関心を示しており、ゴールドマン・サックスと財務省の間の回転ドアを説明する。それらはまた、ミロウスキーがニューヨークの部分準備銀行の総裁ウィリアム・ダドリーの話をするとき適切に批判するとおりの「富者のための社会主義」を説明する。ダドリーは納税者の金でAIGとゼネラル・エレクトリックに財政援助しながら個人的にも投資していた。[2]

この点でのミロウスキーの主な失敗は政府と金融業界に共通の利害関心を軽視している。金融業界と政府は、主流派の部分準備銀行と法定不換紙幣の見解、デフレーション、金融政策の見解や、安定的金融システムには最後の頼みで法定紙幣を発行する金貸しが必要だとする学説で、彼らの存在を正当化し、彼らの特権を擁護する理論から利益を得ている。学界は金になるこれらの理論に報酬を与える。干渉主義を正当化する誤った理論の惰性は政府活動のせいであり、何よりも関わっているのは教育システムとメディア、金融システムへの政府の干渉のせいである。

コック兄弟の残念な役割

ミロウスキー申し立ての、事業による政治の征服に抗して、彼の十字軍はコック兄弟の名を挙げる。億万長者コック兄弟は自由市場の主張を支持するために金を寄付する。どういうわけか、ミロウスキーはこの行動が気に障る。しかし、世の中をよくするための理念への支持に、なぜ自分の金を使ってはならないんだ? なぜ、政府賛成の理念を支持するために、政府が他人の金を使う方が良いんだろうか? どうやら、ミロウスキー自身も彼が価値ありとみた理念を促進するための本に彼の時間と資源を使っているようだが。

興味深いことに、ミロウスキーはコックの活動を批判するとき一人っきりではない。コック兄弟が用いた戦略は幾人かのオーストリア経済学者にも攻撃されており、この世界はミロウスキーが考えているより複雑であると示している。マレー・ロスバードはコック兄弟が好んだ漸進主義戦略と彼らのリバタリアン原理に対する裏切りのせいでコック財源のケイトー研究所およびコクトパス一般と仲違いした。コック兄弟は、ロスバードによれば、政治的影響力を得るために原理を妥協したのである。[3]

根本的混同

ミロウスキーの主な問題はオーストリア学派とリバタリアニズムに達したときの彼の混乱である。ミロウスキーはほとんどの新古典派経済学者を(スティルチックやクルーグマンのような幾人かの左翼を例外に)ネオ自由主義者と見なす。彼は暗黙裡にオーストリア学派をネオ自由主義陣営に編入する。[4]彼は「ハイエキアン新自由主義者」のことさえ記している。[5]けれども、オーストリア学徒は新古典派ではないし、オーストリア学徒の多くはネオ自由主義と見なすことができない。[6]

ミロウスキーが彼の本のところどころでネオ自由主義対リバタリアン、新古典派対オーストリア派を区別しているのは確かだが、彼は自分の区別を整合的に適用しはしない。この整合性の欠如が奇妙な結果を生む。

たとえば、彼はシカゴ学派の効率的市場仮説(EMH)がハイエクの知識論を形式化していると論じた。これはハイエクらオーストリア学徒が新古典派経済学者の方法を共有しており、同じネオ自由主義陣営に所属するとでも仄めかしているようだ。[7]

これ以上に真相から程遠いものはありえない。ハイエクの主観的知識理論は知識を暗黙で主観的な分散したものと論じる。ハイエクの主観的知識の論じ方は情報の数理的な、または形式化された論じ方とは根本的に異なっている。もっと具体的に言えば、オーストリアの伝統での企業家的知識の創造的本性はEMHの客観的で所与なるタイプの情報とは対照的なものなのである。[8]

EMHは市場価格が関連情報をすべて組み込んでいるから効率的であると述べ、市場で売り買いできる客観的な種類の情報を仮定する。けれども重要なのはやはり客観的所与情報ではなく、むしろ動態的過程での企業家的新知識の主観的な解釈と創造なのである。過去の価格は市場参加者が新情報を創造するために尽くすだけの歴史的交換関係にすぎない。ハイエクによれば市場は我々が知る必要のある知識を転送する、と述べることでミロウスキーはハイエクを歪める。しかしそうではなく、ハイエクは市場価格が他の市場参加者の主観的知識を使わせてくれる、と指摘したのである。市場は我々が知る必要のある知識を自動的に転送したりはせず、むしろ市場参加者が彼ら自身の目的を達成するために必要なものを、彼ら自身が発見し創造する必要があるのである。

主観主義とハイエクの知識論をEMH、CAPM、ブラック‐ショールズ・モデルと混同するミロウスキーには追加的な問題がある。EMH、CAPM、ブラック‐ショールズ・モデルのような均衡構成物には主観的なものは何もない。これらのすべての数理モデルでは、すでにすべての関連情報が所与である。静的なのだ。ミロウスキーは競争的市場過程での企業家っが新情報を発見するというハイエクの趣旨を単純に見逃している。市場は過程だから、市場は決して完全ではない。[9]市場参加者は誤りを犯すかもしれないし、幻想の犠牲になるかもしれない。ミロウスキーの本全体がその好例である。

ミロウスキーがオーストリア学派とネオ自由主義の明瞭な区別に失敗したことのもう一つの奇妙な結果は、彼が構成主義を扱うときに現れる。ミロウスキーはネオ自由主義者を構成主義者と見なす。同時に、ミロウスキーはハイエクをネオ自由主義者のグループに振り込み(オーストリア学派全体のことはどうするのだろうか)、ハイエクの構成主義批判をネオ自由主義と和解させようと試みる。しかし二十世紀史上最も精力的に科学主義と構成主義に反対して戦ったハイエクが、どうして構成主義者になるのやら。

オーストリアとシカゴの学派の暗黙裡の混同は特に問題である。ミロウスキーはネオ自由主義者が自生的秩序の概念に賛同したと主張する。けれども、自生的秩序は主にハイエクらオーストリア学徒に利用した概念である。対照的にも、シカゴ学派のネオ自由主義者は分析的道具として均衡構成物を使用する。けれど、均衡分析はオーストリア学派の動態的市場過程分析とは根本的に真逆である。要するに、シカゴ学派のネオ自由主義者は自生的秩序の概念を一貫して使用してはいないのである。

マーク・スカウセンMark Skousen (2006) はシカゴ学派とオーストリア学派の溝を埋めようと試みた。しかしこの努力は不可能の請負である。両学派の主要で根本的な違いは彼らの方法論的なアプローチにある。ミーゼスの伝統におけるオーストリア学派は人間行為の公理から幾つかの一般的前提の助けでアプリオリ経済法則を論理的に導出する。彼らは実験して外界を調べるのではなく、真理を発見するために内観で内側を調べる。

対照的にも、ミルトン・フリードマンMilton Friedman (1953) に従うシカゴ学派の経済学者は実証主義方法論を利用する。オーストリア学徒は歴史を理解するためにはまず理論が必要であると主張するが、シカゴ学派の信奉者は、ときに軽量経済分析を適用しながら、歴史から経済法則を導出しようと試みる。オーストリア学派の伝統の学者は現実を人間の相互行為の動態的過程と見るが、シカゴ学徒は企業家精神と創造性が定義上欠如しており動態的市場過程が凍結した均衡モデルを利用する。オーストリア経済学者は経済学者の目的を、動態的市場過程を統治する法則の理解と説明と見なしているが、フリードマンの目的は正しい予言を行うことである。[10]オーストリア経済学者は市場過程の現実主義的説明を目指しているが、フリードマンにとって仮説の現実性はどうでもいい。理論の予言力だけが考慮される。

ミロウスキーは彼の本で、予言のモデル・ビルディングは破滅的な失敗だったと、多くのオーストリア学徒が共有する判断を述べながらフリードマンのアプローチを批判する。残念ながら、ミロウスキーはオーストリア方法論に言及するのを怠っており、「新自由主義」モンペルラン協会の多くのメンバーに擁護されたこの代案に気づいていないようだ。

ウィーンとシカゴの方法論的な違いに直接関連するのは競争に関する彼らの対照的な見解である。シカゴ学徒は現実を彼らの完全競争も出るに近づけるために独禁法を支持し考案する傾向があるが、オーストリア学徒は動態的市場過程に対する政府の独禁法の形での干渉に反対する。[11]

モデル・ビルディングと数理化に要求される高度な集計は両学派の資本に関する対照的な見解に直接関係する。資本、シカゴ・モデルではKの文字で表現されるものは、同時的かつ自動的に所得を生産する同質的で永久的な資金と見なされる。[12]資本は同質的資金であり、生産は即時的である、というこの見解は、シカゴ学派の数理化と形式化の直接の帰結である。

オーストリアの資本観は新古典派とは根本的に異なる。実際、シカゴとウィーンの間には資本の概念をめぐる激しい討論があった。フリードリヒ・ハイエクFriedrich Hayek (1936) とフリッツ・マハループFritz Machlup (1935) はフランク・ナイトを、同質的で自動的、自己維持的な資金としての資本の概念の無意味さのかどで批判した。オーストリアの時間消費的な過程としての資本論と生産観のおかげで、オーストリア経済学者は生産構造が実質貯蓄の裏付けなき信用拡張に誘発されて異時的に歪曲するという理論を発達させることができた。新古典派経済学者の方法論的アプローチでは発達させることのできない道具、必要な理論的道具が彼らには欠けているから、オーストリア景気循環理論は普通シカゴ学派には理解されない。

したがって、オーストリア学徒とシカゴ学徒の大恐慌(と大後退)の解釈は酷く異なっている。ミルトン・フリードマンとアンア・J・シュワーツMilton Friedman and Ana J. Schwartz (1963) に追随するシカゴ学派が主張するには、大恐慌の深刻さは連邦準備が犯した誤りのせいである。もっと正確に言えば、フリードマンとシュワーツによると、連邦準備が一九三〇年代前半に十分な速さでマネタリーベースを拡張しなかったせいである。シカゴの解釈に従って、ベン・バーナンキBen Bernanke (2002) はミルトン・フリードマンに、同じ過ちを繰り返さないと約束した。これが大後退での量的緩和の形での連邦準備の反応を説明する。

対照的にも、オーストリア景気循環理論は大恐慌を一九二〇年代の異常な信用拡張で説明する。[13]オーストリアの見解では、貨幣供給のリフレは、古い誤投資を人為的に安定化させ、追加的な誤投資を刺激するから、必要な再調整を歪曲する。オーストリア学徒は大恐慌の深刻さについて、スムート‐ホーリー関税法やニューディール一般のような一九三〇年代に導入された政府干渉はもちろん、一九二〇年代の信用拡張の規模とこれに伴う誤投資の規模で説明する。[14]

オーストリア経済学者は二〇〇〇年代早期の明白な価格安定性で盲目になってはいなかった。実際、ミーゼスMises (1949) とハイエクHayek (1925) はフィッシャーらマネタリストが喝采した一般的価格水準安定化の諸政策について警告を発していた。そのような政策は経済成長のとき異時的歪曲の元凶となる新通貨の継続的注入を要求する。オーストリア学徒はその景気循環理論のおかげで、シカゴ経済学者とは対照的にも、金融危機に驚かなかった。景気代交代に至る年月についても同じことが当てはまる。かくてミロウスキーの、経済学業界(全体)が金融危機を予想していなかった、という大雑把な言明はすっかり間違っている。新古典派経済学者がその方法論的アプローチのせいで二〇〇〇年代早期の進行中の信用拡張の問題を理解するのに必要な理論的道具を開発できなかったのは真実である。対照的に、オーストリア経済学者は道具を開発したのだった。

驚くことではないが、ミロウスキーが説明しないシカゴとウィーンの不同意の主な領域のもう一つは通貨政策にある。ほとんどのオーストリア学徒は中央銀行の廃止と百パーセント金本位制のような自由市場貨幣の導入に賛成する。[15]シカゴ学派経済学者は一般的には市場に貨幣供給を任せたがらず、法定不換紙幣を発行する中央銀行に賛成する。シカゴ学派の擁護者によって、貨幣の中央計画は問題ではなく、銀行部門の危機の解決とみなされる。

ミロウスキーはこれらの根本的な相違のすべてに触れない。彼は中央銀行をネオ自由主義制度と指摘するとき正しい。けれども、彼はまたアメリカのティーパーティーが基本的にはネオ自由主義集団であるとも主張する。本の後ろの方で、彼はロン・ポールが連邦準備を廃止したがっていると言及する。ミロウスキーはまたロン・ポールが自由銀行賛成派のハイエクの伝統に連なるとも言及する。しかしながら、ロン・ポールはティーパーティーに近しいとみなされる。読者は混乱したままだ。なぜネオ自由主義集団(ティーパーティー)の英雄(ロン・ポール)がネオ自由主義制度(連邦準備)を廃止したがるんだ?

我々はオーストリアとシカゴやネオ自由主義とリバタリアンを区別しないせいで引き起こされるもう一つの明白な矛盾に直面している。もしもミロウスキーがロン・ポールをオーストリア学派の信奉者であると説明していたら、彼が連邦準備に反対したことは読者を驚かせなかっただろう。しかしミロウスキーは単に、バーナンキがミルトン・フリードマンのネオ自由主義の立場の側に就いていることしか述べない。彼は、シカゴ学徒とオーストリア学徒が根本的な疑問で対角線的に反対し合っていることと、彼らのイデオロギーと方法論を近しいと考えるのが誤謬であることを、端的に理解し損ねているのである。

ミロウスキーの混同の起源

ミロウスキーの混同はどこから来たのか? なぜ彼はシカゴ学派とオーストリア学派に明瞭な違いを設けなかったのか?

この混同に寄与しただろうものは基本的には三つの理由である。

第一に、オーストリア学派とシカゴ学派は多くの自由市場理念を共有している。両学派のメンバーは一般的には価格統制と生産物規制、公教育サービスの支給に反対する。けれども、我々がすでに指摘したとおり、違いがある。シカゴ学派は中央銀行と独禁法を支持するが、オーストリア学派はしない。[16]ミロウスキーは、多くのオーストリア学徒が取るリバタリアンな立場を調べていたら、ほとんどのオーストリア学徒がシカゴのネオ自由主義的な立場とは遠く離れていることを認識していただろう。

第二に、ハイエクは一九五〇年にシカゴ大学の教授となった。けれども、ハイエクがシカゴに所属したことは彼がシカゴ学派の理念に親しかったことを含意しない。実は、ハイエクがシカゴの社会思想委員会で教授になったのは、彼の経済学科への指名にシカゴ経済学者が反対したからなのである。これはハイエクがシカゴ経済学者の実証主義アプローチに対して非常に批判的だったことから理解できる。

第三に、最もありそうな混同の原因は、オーストリア学徒とシカゴ学徒がしばしば一緒に集まっていたモンペルラン協会についてのミロウスキーの論じ方から生じている。[17]モンペルラン協会創立会を始めた一九四七年の初っ端から、オーストリア学派、オルド自由主義、シカゴ学派に代表される、三つの主な思想学派が存在した。[18]オーストリア学派からはミーゼスとハイエクが、オルド自由主義からはヴァルター・エオイケンとヴィルヘルム・レプケが、シカゴ学派からはジョージ・スティグラーとフランク・ナイト、ミルトン・フリードマンが来た。

シカゴ学派とオルド学派はネオ自由主義に分類されることができる。彼らは社会主義には反対するが、マンチェスター主義にも反対する。すなわち、彼らは古典的自由主義のレッセフェール・アプローチに反対するのである。[19]主としてドイツ語圏に集まったオルド自由主義者とシカゴ学派はどちらも、市場の枠組みを設定し経済生活を一定の方向に指導するための強い国家を好む。彼らはまた同じ社会保障を国家に提供させたがる。

モンペルラン協会でのオーストリア学徒とネオ自由主義者の緊張はその始まりも始まりから生じていた。ミーゼスが一九五〇年代に記したとおり、「私はモンペルラン協会でオルド干渉主義者と協調できるか、いよいよ疑わしいと思うようになりました」。[20]

実際、オーストリア学派の見地から振り返ってみると、モンペルラン協会内でのシカゴ学派と他のネオ自由主義者の同盟に資金を出すのは戦略的な誤りだったと見なされていい。オーストリア学徒とネオ自由主義者がモンペルラン協会で団結したせいで、ミロウスキーのような著者はネオ自由主義とリバタリアニズムを、そしてシカゴとオーストリアの立場を、混同する傾向がある。オーストリア学徒は、ネオ自由主義者を同じ大義の友と取り成すのではなく、敵の敵と、つまり、一人前の社会主義と見なすことでもっとよくやれていたかもしれない。オーストリア学徒は、シカゴ派などのネオ自由主義者を排除しながら自分たちが優勢なモンペルラン協会で、その方法論的でイデオロギッシュな違いをもっとはっきりとさせることができただろう。ミロウスキーの経済学業界それ自体や自由主義への攻撃のほとんどは信頼性を失っていただろう。そしたら、ミロウスキーはシカゴ学派とネオ自由主義のみへの直接批判を行っていたことだろう。

追加的な誤り

ときどき、ミロウスキーは粗雑な反資本主義プロパガンダに陥る。たとえば、彼はフェイスブックを邪悪の縮図とみなす。どういうわけか、人々はネオ自由主義によって皮相的な自己マーケティングへと唆される。デジタルの時代はすべてのものが、自分さえもが市場である。そうして、人々は本当のアイデンティティーを失う。市場の必要に応じて新技術が獲得されるから、すべてのものが曲がりやすくなるミロウスキーにとって、人々は曲がりやすいネオ自由主義の企業家的アイデンティティーを構成するように強いられおり、彼はこれを本当のパーソナリティーの終わりと考えている。

誰もファースブックのサービスを使うよう強いられてはいないと言えば十分だ。彼らの使用は完全に自発的である。人間関係がもっと皮相的になるだの、深い友人関係や家族関係が衰退するだの、精神的で非報酬的な活動の時間がないだのと、文化的発達を残念がるかもしれない。これらの発達を助長したのは資本主義ではなく、法定不換紙幣に融資された福祉国家の拡張のせいである。福祉国家は市民社会の責任を引き受けることで伝統的紐帯、すなわち深い友人関係や家族関係を弱める。法定不換紙幣とそれに伴う負債文化は我々の生活をもっと早く、我々のストレスをもっと強く、我々をもっと依存的にする。高い負債は金稼ぎ活動に焦点をあてることになるのである。

そのうえ、ミロウスキーはパーソナリティーを発達させてくれるのが自由市場と私有財産であることを忘れる。私有財産は身体の拡張に等しく、パーソナリティーを具体化する。著者はペンを、サッカー・プレイヤーは靴を、医者は器具を、音楽家はバイオリンを所有する。私有財産が我々のパーソナリティーを我々に発達させてくれる。私有財産がなければパーソナリティーを発達し強化することができる者はいない。私有財産が人々に成長と変化のチャンスを与えるのである。市場はパーソナリティーを発達させるための多くの機会を提供する。それらは人々をもっと柔軟にさせて、新技術を獲得させてくれるのだが、それは彼らの自発的な選択なのである。

ミロウスキーはまた、子供のお誕生日会のためにアニメーターを雇うだの、家族の支出と所得を均質化するのを助けるアドバイザーだの、栄養士だのと、彼が奇妙なニーズとみなすものを市場が満足させてしまうことをも批判する。

多くの人々は、多数派のニーズだけでなく少数派のニーズをも満足させる可能性を、市場経済の偉大な特色にして利点であるとみなすだろう。市場経済は多数派が奇妙と思うようなニーズを差別しない。財産権を犯さない他人のニーズまで判断しているが、ミロウスキーは何様のつもりだ? それにミロウスキー自身はどうなのやら。古い反資本主義プロパガンダに新しい衣を着せることで、自由で自発的な交換の理念を潰そうとする大衆迎合的な本を書くのは奇妙ではないのか? 政府の干渉を、すなわち私有財産権の侵害を提唱してから、本を売るために市場を使おうとする誰かさんは、本当に奇妙ではないとでも? 市場のおかげで、諸個人は実際に彼の本を買い、自由に対する彼らの偏見を満足させることができるのである。

ミロウスキーは読者にもう一つの誤謬を差し出しつつ、市場はモンペルラン協会と関連制度を通してそれをロビーイングするプレイヤー数人の自己利益のものであると論じる。彼は市場が強要的でないと考えるのは不条理とも思い至り、市場過程には敗者がいると記す。彼が気づき損ねたことはこうだ。私有財産に基づく自発的交換、つまり自由市場は定義からして市場参加者全員の自己利益のものである、というのも彼らはそのような交換から事前に利益を期待するからだ。自発的交換はウィン・ウィン・シチュエーションである。損失が実現するのは自発的交換の事後でしかない。

ミロウスキーはまたマーケティングが消費者を操る、操作するという学説の信奉者でもある。彼にとっては、消費者が生産物を欲求するのは幻想でしかない。この幻想は自己利益的な企業の広告キャンペーンで人為的に消費者に押し付けられている。もちろん、マーケティングは消費者が生産物を買うように影響を及ぼして納得させようと試みる。マーケティングはときに成功し、ときに失敗する。

消費者は、できない約束をした生産物を試したら、もうそれを試さないだろう。市場は実験を許す。消費者ニーズを適切な価格で満足させない生産物は市場から追い出され、広告に支払うための収入を生み出さないだろう。したがって、長期的には良い生産物だけが広告される。申し立て上の幻想に関するかぎり、我々はつねに、「洗脳」の産物としての欲望を退けて差し支えない。[21]しかしその証拠はありえない。人々が自発的に自分に知識を与えて、生産物を実験し、比較しているという証拠を認めないんだ? なぜ人々がマーケティングの影響力に抵抗できることを認めないんだ? それでは、ミロウスキー自身の意見が洗脳の結果であって、社会主義プロパガンダによって彼の頭に植え付けられた幻想を表しており、彼の本全体が無価値であると、少なくとも同じ重みで主張できないのだろうか? 最後に、ミロウスキー自身は暗示的言語と反資本主義プロパガンダで自分を操っていないのか?

ミロウスキーは自由を民主的参加とみなし、市場を人民支配の実体とみなす。彼にとって、ハイエクらネオ自由主義者たちはフューラーの全体主義を、真の民主的権利なき市場の企業家の全体主義に置き換えた。ミロウスキーが犯した概念的歪曲はほとんど滑稽である。自由とは私有財産権侵犯の欠如だ。他人の財産権の使用法への投票、つまり民主的参加とは自由の対極である。市場とは人民をどうにかして支配する実体ではない。自発的に相互行為し交換する人間が市場の結末を決定する。企業家は消費者に何も押し付けない。彼らは将来消費者のニーズを予期しようとする。或る意味、彼らは将来消費者の願いを代理しているのである。

ネオ自由主義の三つの矛盾

ミロウスキーはネオ自由主義の三つの矛盾を発見したと主張する。

第一に、彼はモンペルラン協会会員が自由主義社会に賛成を論じたが、MPS自体は閉鎖的秘密結社であると論じる。社会主義者を会員に認めず、討論は公共には閉ざされている、と。ミロウスキーは私有財産の概念を理解し損ねているようだ。私有財産は排除を許容するものであり、排除がその目的である。ミロウスキーが自宅への余所者の入場を否定でき、社会主義者な友達を夕食会に招待でき、討論できるのと同様に、他の人々も彼らが自発的に決定した規則をもつ協会を創設し、この協会で理念を討議し、これらの理念を後に公共で擁護していい。私有財産の理念を擁護し私有財産権を行使する協会に矛盾はない。

第二に、ミロウスキーはMPSのような計画的に創造された協会が同時に「自生的秩序」を擁護できることを理解しない。さて、市場が優れているのならば、なぜ市場(社会の創造)への「干渉」のようなものが必要だろうか。ここで、市場過程の自生的秩序の内部に特定の企業や協会のような小さい計画的秩序があっていいことがミロウスキーには分からない。モンペルラン協会は自由を擁護し政府の市場への干渉と戦う市場秩序内の私的組織である。矛盾はない。

第三に、ミロウスキーは美徳としての無知を擁護するモンペルラン協会が合理主義者の協会であると主張する。ミロウスキーによると、ハイエクは社会にとって良くて大衆が知らないことを市場が最善に知っていると考える。このハイエク解釈もまたもう一つの歪曲だ。ハイエクは市場で自生的に進化する制度に埋め込まれた大量の情報を理解することは不可能だからこれらの制度を計画的に改良することは不可能だと論じたのである。ミロウスキーは実践的知識と理論的知識を区別し損ねる。市場参加者各自の実践的知識は中央化できず、社会を改良したがる一人の者が知ることはできない。けれども市場過程の働きの理論的知識はアクセス可能であり把握できる。人は社会に存在する大量の実践的知識には無知で、中央計画で社会を改良することはできないが、国家干渉に対する市場経済の優位についての理論的知識を導出し擁護することはできる。またもミロウスキーはない矛盾をあると言う。

ときおりミロウスキーは藁人形を叩く。たとえば、彼はネオ自由主義者が「企業は悪事を何も働かない」と考えていると記す。ここで彼はシカゴとオーストリアの両方の立場を歪曲する。シカゴ学派はアンチトラスト立法に署名する。企業は合併して市場支配的地位を獲得し、消費者を搾取するかもしれない。なのでシカゴ学派はこれらの合併企業が何か悪事を働くから規制されなければならないと考える。オーストリア学徒とシカゴ学派経済学者はまたコーポラティズムを批判する。企業は特権や公序を得ようとしながら政府に影響を及ぼすことでの利潤を求める。

また、ミロウスキーはシカゴ学派の見かけ上の市場解決愛についても混乱している。彼は、ネオ自由主義者が市場問題に「教育バウチャー」やCO2排出許可の形での「市場解決」を提案していると論じる。けれども、オーストリア学派の見地では教育バウチャーは市場解決とは何も関わりがない。バウチャー・プログラムでは税収が再分配され、親は政府に選別された適任の学校にバウチャーを支払うことができる。例えるなら、所得税を増税して、政府承認の装置に支出できる「技術バウチャー」を人々に与えるための受領書を使うことであろう。どうやら、政府はまず人々から金を奪って、それから政府が望むところへと人々に金を使わせているようだ。自由市場では何かがまったく違っている。自由市場では所得が費やされるところは政府が決定せず、人々自身が決定する。同じことが教育にも当てはまる。自由市場は消費者が需要する教育を提供する。ミロウスキーが望む教育を万人が受けないからといって、これを「市場問題」と称するのは恣意的であり、問題である。

何か似たことがCO2排出許可にも当てはまる。同定可能な犯人による私有財産権への違反がないかぎり、問題はない。地震による破壊のような、同定可能な犯人なしでの私有財産権の破壊は神さまの業や自然の業と考えなければならない。同定可能な犯人がいるとき、犯人を告発できる。もしも彼は有罪とされるならば、彼は彼の活動をやめ、生じた被害に保障を支払うよう強いられる。市場、もっと具体的に言えば、司法制度は、そのような問題を扱う。政府の排出許可は中央計画の一形態であり、最適汚染量が中央的に決定される。同じように、政府はアルコール消費を規制でき、それから人々の交換を許すアルコール許可を発行する。アルコール許可を「市場解決」と呼ぶのはミスリーディングだ。

結論

ミロウスキーは市場経済についての擁護不可能な主張を擁護し、標準的な反資本主義プロパガンダを提出したが、そうだとしても、彼は新古典派経済学についての正当な批判を提出した。彼はいみじくも、新古典派経済学者にとっては完全な驚きとして金融危機が生じたことと、新古典派経済学者が彼らの標準的な理論的道具ではかの危機を説明できないことを指摘する。

著者はまた、かかる業界の深刻な方法論的欠陥と、かの危機を予言し説明することの失敗についての業界の否認をも指摘する。ミロウスキーは業界の知的破産を証言し、経済学のパラダイム変化に賛成を論じる。あいにく彼は、そのような代替的パラダイム、現実的で、金融危機を説明するものが、すでに存在することを知らないか、これに言及しない。これぞオーストリア経済学派である。

彼は数名のオーストリア学徒に言及するが、オーストリア経済学を新古典派経済学から分離し損ねる。また、彼はリバタリアンと古典的自由主義者をネオ自由主義者から正確に分離することもしない。この失敗の理由の一つは、オーストリア学徒とシカゴ学派メンバーが、彼らの違いにかまわず、モンペルラン協会で団結していることかもしれない。このせいでミロウスキーは両学派を混同し、少数派のオーストリア派の立場を無視する。この印象の下では、オーストリア学徒がシカゴ学派と一緒の協会を作ったのは戦略的な誤りだったと思われる。

参考文献

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[1] ミロウスキーが指摘するとおり、あらゆる中央銀行がDSGEモデルを使用する。

[2] ゼネラル・エレクトリックは暫定流動性保証プログラムの下で発行を許された。この連邦預金保険公社のプログラムへの参加によって、この企業は究極的には納税者に裏付けされる政府保証を享受させてもらっていた。

[3] Gordon (2011) を見よ。

[4] たとえば、ミロウスキーはネオ自由主義イデオロギーを金融危機の原因とみなしたから、かかる危機はネオ自由主義の敗北を象徴した。彼はかくて、エオ自由主義のこの明白な失敗にもかかわらず、どうしてハイエクとランドの本の売り上げが高まったのか訝しむ。彼は、金融危機は市場が機能しないことの明瞭な証明であると考える。この謎についての彼の説明は、陰謀的なモンペルラン協会に率いられたネオ自由主義プロパガンダが投票者に市場の邪悪さの理解を許さなかった、というものだ。ミロウスキーは金融危機の原因が金融市場の干渉主義であることと、ハイエクとランドが干渉主義の批判家であることに、気づき損ねている。彼らの人気が高まったのも道理である。そのうえ、これらの著者たちは新古典派経済学者ではない。ミロウスキーが信じさせようとしているような不調和は端的に存在しない。

[5] ミロウスキーは或るときは、アナルコ資本主義とネオ自由主義が対角線的に対立していると認める。しかしながら、アナルコ資本主義者や古典的自由主義者がモンペルラン協会の会員であるにもかかわらず、彼はかの協会をネオ自由主義機関と考える。

[6] フルスマンHülsmann (2007, p. 869) はハイエクがネオ自由主義者であったと論じる。しかしこの査定は討論の余地がある(ウエルタ・デ・ソトHuerta de Soto 2012, p. 477を見よ)。実際、「ハイエクは一九八一年にチリ訪問中のインタビューで、彼はネオ自由主義者ではなかったし、彼は古典的自由主義の公準を改善するのは本意だが根本的に変更するのは本意ではなかったと、曖昧さなく述べた(El Mercurio April 18, 1981)」(Boas and Gans-Morse 2009, fn. 21)。

ハイエクがマンチェスター主義や完全レッセフェールに署名しなかったのは事実である。しかし、たとえ我々がハイエクをネオ自由主義者と受け取っても、やはりオーストリア学派を信奉しつつも同時に古典的自由主義(やアナルコ資本主義)の頑強な擁護者たり続ける多くのモンペルラン協会会員がいたし、いる。創設会議のミーゼスとハイエクは、ミロウスキーが致命的にも無視するこの範疇に入る。

[7] 「あらゆる党派の社会主義者」に捧げられたハイエクの『隷属への道』を偲ばせながら、ミロウスキーは彼の本を「あらゆる党派のネオ自由主義者」に捧げる。この類比は完全には一致しない。ハイエクのあらゆる党派の社会主義者は国家主義の支持にかけて或る程度異なっている。或る党は他より国家主義を支持するが、いずれの党派も支持するのである。対照的にも、ミロウスキーは少なくともときどきネオ自由主義者にオーストロ=リバタリアンを含めるから、彼のネオ自由主義の範疇内の部類には違いがある。実際、ほとんどの「ネオ自由主義者」はロスバード派の見地では社会主義者とみなすことができる。対照的にも、オーストリア学派のアナルコ資本主義追随者はあらゆる国家活動に対して完全に反対する。

[8] オーストリアの見地からのEMH批判のために、ホーデンHowden (2009) を見よ。

[9] ハイエクHayek (1945; 2002) を見よ。

[10] ミロウスキー自身の認識論的な立場は不明瞭である。彼は普遍的経済法則が存在しないことを信じているようだ。実際、政治的左翼は時間が変える事柄(経済法則)を討論で強調すべきと彼は述べる。

[11] アルメンターノArmentano (1990) を見よ。

[12] ウエルタ・デ・ソトHuerta de Soto (2009, pp. 517–18) を見よ。

[13] ロスバードRothbard (2000a) を見よ。

[14] ロスバードRothbard (2002) を見よ。この記事でロスバードはオーストリア学派の感知からフリードマンの見解を攻撃する。

[15] たとえばロスバードRothbard (2000b) を見よ。奇妙にも、ミロウスキーが例示するには、大恐慌に応じた政策はオーストリア派の洞察に基づいていたが、リフレーションと干渉主義は正確にはオーストリア派の洞察ではない。彼はまた、ミーゼスとハイエク含むモンペルラン協会創立集団がケインズとルーズベルト、およびオスカー・ランゲとヤコプ・マルシャックのような市場社会主義者に負けたと主張する。ケインズの政策処方がルーズベルトやどこそこで従われたのは事実である。しかしオーストリア学徒が理論てこ討論で負けたと示唆するのは間違っている。社会主義計算論争について、ウエルタ・デ・ソトHuerta de Soto (2010) を見よ。

[16] ロスバードRothbard (2002) を見よ。

[17] 基本的に、ミロウスキーはMPSを、ミロウスキーの関係では社会の善に不可欠な福祉国家を除去するための設立された、よく組織された特別利益団体とみなす。

[18] 後に公共選択学派が第四の学派とみなせるようになった。

[19] ミロウスキーでさえネオ自由主義者は概してレッセフェールを信じないと認める。ミロウスキーはレッセフェールの立場を「滑稽」と称するところまでいく。

[20] フルスマンHülsmann (2007, p. 880) を見よ。

[21] 「洗脳」論の「操作的無意味」について、ロスバードRothbard (2000, p. 162) を見よ。