進化心理学と反市場バイアス

Toban Wiebe, “Evolutionary Psychology and the Antimarket Bias,” mises.org, 09/15/2010.

 経済的な非リテラシーが広く行き渡っているが、なぜこれを問題にしなければならないのか。無知はマイクロ電子工学とコンピューター・プログラミングでもっと広く浸透しているけれども、コンピューター技術はまったく驚愕ものである。

人々はほとんどの研究の分野で科学を専門家に委ね、彼らの結論の正しさを信用する。経済学ではそうではない。経済学者にことを任せるよりも、人々はむしろ明らかに虚偽である立場を固持する。経済的無知それ自体は問題ではない。マレー・ロスバードが言うとおり、[1]

経済学に無知であることは犯罪ではない。結局、それは専門化した学科であり、ほとんどの人々が「陰鬱な科学」と考える学問である。しかし経済的主題についてこの無知の状態のままでありながら大声で喧しい意見をもつのは完全に無責任である。

人々が経済理論を職業経済学者に託すならば、彼らの経済的無知は他のほぼすべての主題にかけての彼らの無知と同じだけ無害であったことだろう。

人間本性

ポール・ルビンはこの普遍的な悪い経済学を(民間物理学folk physicsや民間心理学folk psychology〔あるいはfolkの代わりに素朴naiveとも〕)「民間経済学」(folk economics)[2]と呼んだ。経済学を研究した人々は民間経済学によく気づいている。我々が果てしなく反論している反市場な現状のことだ。我々はみな経済学を学ぶ前はこれら、情緒的に魅了してくる立場をとっている。

非経済学者は市場に対して体系的にバイアスがかかっているので、これは単なる無知の問題ではなくて、もしそうであったら一方的なバイアスではなくむらがあると期待されるだろう。[3]民間経済学は自由市場の道を阻む、まさに最大の障壁である――ゆえにその原因と治療の理解が重要となる。ルビンは民間経済学の頑迷な粘り強さを説明するために進化心理学に頼る。

進化心理学は我々の進化史が我々の心に及ぼした影響を研究することで人間本性を大いに説明する。それは心が空の状態で世界に入る、全面的に環境と条件付けの産物であると、すなわち、人間本性などない、と述べる過激な育ち(「白紙」blank-slate)派の立場に反対するための強い証拠を差し出す。進化心理学はそうではなく、人間本性はあり、我々自身の進化した選好に根付いていることを発見し、これが文化的普遍[4]――あらゆる文化に現れる行動を説明する。進化心理学はもっと明白な、進化した選好、たとえばなぜ我々は逆の性別に魅了されるのか、なぜ我々は砂糖と脂肪を食べるのを楽しむのか、を説明する。それはまた、たとえば我々の道徳的諸制度と民間経済学のような、人間本性のあまり明白ではない諸要素をも説明する。

脳は同質的な思考器官ではない。異なる領域は異なる仕事に特化しているのである。たとえば、脳には視覚、聴覚、言語、顔認識などに特化した部位がある。これらの能力はすべて教育の必要なく自然にできる。しかしながら、脳は数学や読み書きのような今では非常に有用な領域での特化を欠いている。これらのことは直感的にも自動的にもできず、それらを学ぶために意識的な努力を要する――しばしば遅く、難しい努力だ。そのうえ、我々は世界を扱うための直感的な諸理論をもっており、これは決して直観物理学と直観道徳、直観心理学、直観経済学に限られない。[5]この進化的負担は否応なく人間本性の一部であり、根付いている。

民間経済学の核

進化適応環境(EEA)――新石器時代アフリカの狩猟採取社会――が人間本性とその民間経済学のルーツを説明するための基盤を差し出す。遊牧的狩猟採取者は小集団で、ほとんど財産と市場交換なしで生活していた。生産は自然が提供するものの収穫に限られていた。我々の脳は我々自身とは非常に異なる世界での機能に適応している。民間経済学は我々の進化史の遺産である。

ここではEEAの二つの主な特色に関心をおく。第一に、それはゼロサム世界であった。我々の狩猟採取先祖は何であれ自然に提供されるもので生活していた。そこには事実上、経済的進歩はなかった――確かに、或る人物の一生涯の間にはない。或る人物の消費は他の万人の支出からなる。特化や生産、財産がほとんどなく、交易範囲は最小限であった。社会は基本的に小さく、平等主義的なコミューンであった。第二に、EEAは市場的交換ではなく互酬的交換に特徴付けられた。互酬的交換とは贔屓(favor)の受け取りとお返しである。たとえば、あなたが将来わたしに返してくれるという理解の上で、わたしの獲物をあなたと分かち合うことだ。ゼロサム思考と互酬的交換の論理が我々の直観経済学の核心を形成する。

ゼロサム世界では、資源の平等主義的な分配が有利である。豊かな人物は固定規模のパイの大きな一片を手に入れることで他人から枢要な資源を奪っているだろう。結果として、我々は直観的に、一方の人の富を他人の犠牲から来るものと感じる。ゼロサム世界ではインセンティブは到底問題にならないから、富を再分配することで失われるものはほとんどない。これが社会経済的な平等主義の人気を説明する。

しかも、狩猟採取社会は一夫多妻制であり、豊かな男性で多数の妻をもつ者が文字通り他の男性から遺伝的生存を奪っているだろう。[6]非支配的な男性が支配的な者を制約することには大なる便益があったであろう。これが富を邪悪と連合する我々の傾向性、反富裕バイアスを説明する。

今では、これらの感情は無益であるのみならず極度に有害である。自由市場では規模の経済のおかげで、多く需要される財ほど多く生産されて安くなる。かくて消費とはまさに他人から奪うのとは反対のことをしている。インセンティブが生産を駆り立てるが、非自発的な再分配はパイを縮めながらインセンティブを損なう。自由市場での富の取得は各取引が第二者を利する場合にしか可能ではなく、ゆえに関心は衝突しない。最後になるが、我々は一夫一妻的社会で生活しており、遺伝的関心でも紛争しない。

互酬的交換の論理は幾つかの経済的誤謬に光を当てる。それは客観価値の誤謬へと真っ直ぐ導く。わたしがあなたを贔屓するとき、需給条件が変化しようとしまいと、あなたは「わたしに一つ貰っている」。この贔屓の価値は客観的かつ恒常的であり、わたしはお返しに相応の贔屓を期待する。これが公正価格と価格統制、特に高利法のような混乱した諸観念の人気を説明する。

行き渡った反中間商人な感傷も、客観価値の誤謬の結果である。中間商人は財に物理的なものを何も加えないので、彼らの取引は搾取的に思われる。反利潤バイアスも同様だ。わたしが互酬的交換で利潤を上げるならば、我々の交換は平等財のものではなく、わたしはあなたを騙していた。反富裕バイアスに貢献する要素のもう一つが、EEAでの富裕者がほとんど非互酬者か詐欺師であっただろうことにある。

互酬的交換の要点は、必要なときに助けてもらうために助けが必要な人を助けることにある。市場交換では買い手に助けが必要か否かにかかわらず市場価格が決定される。結果として、我々の経済的直観は互酬的交換を好む――市場交換は必要なときに人々を気にかけておらず心が冷たいと! これこそはかくも多くの人々が、貧困者と困窮者が関わる何かに自由市場を許したがらない理由である。必需品にかけて貧しい人々に請求を行うのは間違っていると、端的に感じるのである。そのような状況では、市場交換は我々の利他的感情に逆行しており、これが互酬的交換の基盤を形成する。

民間経済学、さらに

EEAではうまく働いた心的ヒューリスティックスも、現代世界を明晰に考えることの大きな障害でありうる。そのような心的短絡のうち経済学者を特に残念がらせるのは、成果より意図で行為を判断する我々の傾向性である。EEAでは動機は結果に直結していた。利己的な動機は利己的な結果を生み、利他的な動機は利他的な結果を生んだ。これは互酬的交換が利他的な贔屓の交換だからであり、利己的な行動は贔屓には数えいれられないのである。このヒューリスティックは、生産し交換する利己的な諸個人が彼ら自身のみならず多くの他人を利するところ、市場を完全に取り壊す。我々は統計上の人々に対して名と顔を知る人々に相当の重きを置く。EEAでは、バンド[7]の全員が互いに名と顔を知っているので、このバイアスはこの集団のために働いた。[8]市場社会では、これは見えるものへの焦点と見えないものへの無知に結果する。これは経済的誤りの紛れもない泉である。事実上、消費者の関心より生産者の関心を贔屓する事例のすべてがこのバイアスから流れ出てくる。わずかな例でも、生産より雇用創出への強調、保護主義、地方主義、財政援助、貯蓄より支出を好む、など。そのような場合のすべてにおいて、利益は同定可能な諸個人に発生し、費用は数え切れない匿名の諸個人に生じる。

我々の反外国バイアス、今ではかくも有害であるが、これはEEAでは有益であっただろう。狩猟採取者の間では部族間交戦は実にありふれていた。他の部族との協調を確立する試みはきわめて危険であっただろう。なぜならば、彼らはあなたの部族の男性を殺して女性を奪うことで、彼らに残された自然資源の量を増加させながら利益を得る立場にあったからである。結果として、我々は簡単に敵意を激化させることができる外人不信に進化した。我々はこれらの選好に耽ることで多大な犠牲を払う。貿易制限は我々の暮らし向きを悪くし、移民制限は我々から安い労働を不必要に奪う(もっと重要なことに、潜在的な移民から良い生活を奪う)、[i]そして何より、戦争の荒廃がある。

関連するバイアスは大企業への嫌悪である。我々は顔のない大企業よりも小地方の者を扱うことを選好する。EEAでは、知らない大集団よりも知り合いを扱う方がかなり安全であっただろう。今日の大規模生産の世界では、この選好に耽ることはますます高くつくようになっている。我々はいまやいつもどおり、ウォルマートがいかに地方の商売を破壊したか大声で嘆きながら端的にそっちの方が良いからとそこで買い物し続ける人々を目撃している。

利得より損失に重きを置く我々の傾向性、損失回避は、自由市場を掘り崩すもう一つのバイアスである。[9]損失回避は損失が大抵死を意味するEEAでは人にうまく働いた――子孫を二人設けるのは一人より二倍良いが、一人設けるのは一人も設けないより無限に良い。近代世界では、損失回避は問題に当たる。労働者は、変化する市場条件への滑らかな調整を妨げながら、名目賃金の減少に(よしや実質賃金が増加しようとも)抵抗する。人々は、所得増加の印象が与えられるから、デフレーションよりインフレーションを選好する。特に悪い結果の一つは政治的なラチェット効果である。[10]すなわち、損失を蒙る者はその廃止を妨げるよう強く動機付けられるから、悪い政策を撤廃することはきわめて難しい、しかし、損失は一般的には消費者の大部分に薄く広がるから、悪い政策を導入することは相対的に容易である。

民間経済学に多くの例があるのは疑いない。[11]結局、我々は高度に社会的な種であり、社会組織は我々の進化にとって非常に重要な要素であった――脳の大部分が社会環境を扱うことに専念している。この短い概要から、体系的な反市場バイアスは我々の進化的な過去の遺産であることが明らかである。

民間経済学の普遍性

この進化的説明の証拠の幹線は、民間経済学が時と所を越えて残存していること――文化的普遍であることだ。民間経済学はつねにあちこちにあった。歴史を振り返れば、あらゆる時代と場所の人々が同じバイアスをもっていたことが分かる。トマス・モアの『ユートピア』[12]は今日の社会主義ファンタジーとちょうど同じように読める十六世紀の卓越した例である。しかも、経済科学の進歩にもかかわらず、民間経済学はかつてと同じだけ強いまま残っている。数世紀前に完全に論駁されたのと同じ誤りが今での公共での広い流通を享受している。公衆の経済的ナンセンスに対するサイモン・ニューカムの一八九三年の嘆きには今も同じ真実が響いている。[13]経済科学は世論への手がかりをほとんど掴んでいない。

これら二つの事実――その普遍性とその理性への抵抗――は民間経済学が文化的普遍であり、この種の遺伝的構成に帰せられることを強く示唆する。そうでなければ、我々はリバタリアンな理念がそれを採用した文化に成功をもたらし、その成長と模倣を経て広がっているだろうと期待するところだ。言うまでもないが、こうなったわけではなかった。進化心理学はこの普遍的反市場バイアスの唯一道理に適った説明を差し出している。

経済教育の重要性

原因が同定されれば、民間経済学の治療は明らかになる。粘り強い教育だ。我々はこの進化的な選好とバイアスを背負い込んでいるけれども、その奴隷ではない。我々はこれを制御できる――自由市場を選好する我々の存在が生きた証である。唯一現実的な解決は人々が市場の論理を学ぶための意識的な努力を行うことである。経済教育は強力な道具であり、その試練は人々に学習の努力を行わせることにしかない。

自由社会は民間経済学が蔓延るところには存在できない。基本的な算術技能が本質的であると考えられるのと同じように、経済リテラシーは社会の全メンバーに本質的であると考えられなければならない。民間経済学の誤りは経済学の基本原理の教育で直接的に扱われなければならない。経済教育の任務は決して終わらない。ちょうど万人が数学に無知に生まれるように、万人が民間経済学に生まれるのである。自由市場のイデオロギッシュな根底を維持するためには、すべての新世代が経済学を学ばなければならない。これの重要性は強調するにしすぎることができない。ミーゼスが『ヒューマン・アクション』の結びの言葉で警告したとおり、

経済的知識の体系は人間文明の構造の本質的な要素であり、近現代の産業主義と先立つ数世紀の道徳的、知性的、技術的、及び治療的な業績が拠って立つところの基盤である。この知識に提供されるその豊かな財宝を、人々が適切に使用するか、それともそれを使わないまま放っておくかは、彼ら人々にかかっている。しかし、その最善の活用を怠り、その教えと戒めを軽んじるならば、彼らは経済学を無効にするどころではない。社会と人類を根絶やしにするだろう。[14]

これは公衆に経済学を教育すること、すでに多くの諸個人と諸集団になされた仕事の、途轍もない重要性を際立たせている。言うまでもなく、ここでなされるべきことはもっと幾らでもある。

[1] http://mises.org/daily/2197

[2] http://papers.ssrn.com/sol3/papers.cfm?abstract_id=320940

[3] Brian Caplan, “Systematically Biased Beliefs About Economics: Robust Evidence of Judgmental Anomalies from the Survey of Americans and Economists on the Economy,” Economic Journal, Vol. 112, No. 479 (2002): pp. 433–58; and The Myth of the Rational Voter (Princeton: Princeton University Press, 2007).

[4] http://en.wikipedia.org/wiki/Cultural_universal

[5] Steven Pinker, The Blank Slate: The Modern Denial of Human Nature (New York: Viking, 2002), pp. 220–21.

[6] Paul Rubin, Darwinian Politics: The Evolutionary Origin of Freedom (London: Rutgers University Press, 2002), pp. 103–4.

[7] https://en.wikipedia.org/wiki/Band_society

[8] Rubin, Darwinian Politics, pp. 162–64.

[9] Rubin, Darwinian Politics, pp. 173–74.

[10] http://mises.org/daily/4640

[11] See Rubin, Darwinian Politics.

[12] http://en.wikipedia.org/wiki/Utopia_%28book%29

[13] Simon Newcomb, “The Problem of Economic Education," Quarterly Journal of Economics, Vol. 7, No. 4 (1893): pp. 375–99.

[14] Ludwig von Mises, Human Action: A Treatise on Economics (Auburn, AL: Ludwig von Mises Institute, 1998), p. 881.

[i] ここで著者は間違えている。移民規制は反市場バイアスとは無縁である。