フェミニストの牟田和恵先生たちの科研費研究の使途がおかしいのではないか、みたいな難癖みないなのが話題になって、それに反応してか先生たちのグループが成果の電子書籍を公開してくれたので、ちょっと読んでみました。公開えらい。
私の印象では、ちゃんとしたグループ研究だと思いますね。立派だ。えらい。一部には「ジェンダー平等のための〜」っていうタイトルなのに、いわゆる慰安婦問題を中心にした研究にしぼられているのはどうなのかという声もあるようなのですが、まあジェンダー平等とかって目標の一部に慰安婦問題の考察が必要不可欠なのだ、みたいな立場だったら許されるのではないか。研究計画とか読んでないからわからんですが、まあそういうのはあんまり関心がない。
んで内容としてもろにセックスの話をあつかってるとわかる章だけ読んでみたんですが、研究として立派だとは思うものの、いろいろ言いたいことは出てきますね。
最初に言いわけしておくと、この論文集はいわゆる朝鮮半島での従軍慰安婦問題ってやつが中心になってて、そっちの方は私詳しくないのでそんなコメントできません。半島で軍が直接女性を狩り出したとかってことはあんまりなさそうだけど、でもいろんな業者に騙されたり売られたりして、とにかく本人の意に反していわゆる「慰安婦」になって/させられていたたひとはかなりいたろう、日本軍が間接的に関与してたことはもちろんあったろう、そして労働環境が劣悪な場合もかなりあったろう、ぐらいの認識です。日本軍は他の地域ではもっと直接的に邪悪なことをしていたとも思ってます。
んでまあ読んでみると、かなりいやな気分になるところがありました。いくつか指摘してみたいと思います。
牟田和恵「なぜ「慰安婦」はこれほどバッシングされるのか:性暴力をめぐる新たな認識をめざして」
牟田先生たちは台北の公娼館跡地を訪問して、昔そこで公娼をしていた白蘭さんという人に話を聞いたようなのですが、彼女はその公娼館にいたころが一番よかった、って言ってるらしいわけです。
幼いころから極貧で親に売られ苦労してきた白蘭さんにとってここで働いていた時代が、することを自分で決めることができ、一日3人も客を取れば十分生活できた、一番いい時期だったからと、公娼館の閉鎖後、食い詰め体を壊した彼女はここで死にたいと瀕死の状態で戻ってきていたのだった。
ということらしい。ところが牟田先生はその部屋を眺めて、
右奥の部屋は、かつて女性たちが客を取っていたままのかたちで保存されているのだが、そこは、セミダブルの寝台が部屋のほとんどを占め、化粧台等が端に置かれている。廊下や隣の部屋との境は薄いベニヤ板のような間仕切りで、しかも天井まで仕切られているわけではなく、上が10センチくらい空いている。ここで一回15分で客たちは「女を買って」いた。
この薄暗い部屋にたたずみながら私は、そこで行われていたのはいったい何だろうかと疑問を抱いていた。それは果たして「セックス」なのか?話し声は筒抜けでプライバシーの無いここでは、娼妓と客のコミュニケーションなど、身振りでのやり取り以外にはほとんどなかったであろう。男がズボンと下着を下ろし、女の上にのしかかり、ペニスを突き刺して擦り、射精するだけで終わるような15分だったであろう。それはどのような15分だったであろう。それはどのような意味でセックスなのだろうか?
といろいろ想像をめぐらせている。まあこれはよくわかります。15分じゃたしかに短かそうですねえ。でもほんとに15分なんだろうか。牟田先生は、上の白蘭さんが、15分で1日3人お客さんとって、計45分で3回セックスすると(楽に)生活できた、と想像しているのだろうか。そんなものなのかな。そこらへん、白蘭さんに聞くことはできなかったのかな。むずかしいですか。むずかしいでしょうな。聞きにくいわね。
でも、私はそういう場所に行ったことがないのでよくわかりませんが、同じような仕組みでやっていたはずの大阪飛田のは、井上理津子先生という方が『さいごの色街 飛田』というルポで描いてるんですね。かなり取材していて、良質なルポだと思います。そこだと、20分か30分が選べて、20分だと1万5千円(当時)とかで、けっこういろいろ話をしたりさまざまな交渉したりするらしいです。もうちょっとリアルな描写もあります。どうも「組み敷く」みたいな形ではない。当時の台湾や朝鮮半島でどうだったかはもちろん知らんけど、それほどちがってたろうか。まあ飛田に限らず、昭和初期からしばらくの遊廓やちょんの間や私娼窟みたいなのがどういうものだったかというのはいろいろ文学作品が残っていて、わりと正確に様子がわかるはずですね。そのころの朝鮮も外国というよりは日本帝国の一部だったわけだからそんな大きくちがってたわけでもないんちゃうかという気もします。なかにはおそらくやっぱり悲惨なやつもあれば、そうでもないのもあるだろうと思う。おもしろいかどうかわからないし、あんまり上品なものでもないし、つらいと思えなくもないけど、*牟田先生が思ってるほどは*悲惨ではないかもしれない。
でもこれは私が気になる問題ではないのです。私が問題にしたいのは、牟田先生がわざわざ現地調査に行って、「ここにいたときがいちばんよかった」とまで言うお姉さんの話を聞いていながら、たんに「それはどのような意味でセックスなのだろうか?」と想像するにとどまっていることですね。
牟田先生は(おそらく)性風俗一般について、「カネを払って「同意」を買っているとはいえ、それはレイプとどう違うのだろうか。」、買春は「幾ばくかの金銭によって同意を擬制しただけのレイプではないのか?」という疑問を持ち、「私たちはそれを長らく、合法・非合法を問わず、「セックスをカネで買う」商行為とみなしてきたが、実はそれは、経済的社会的力関係の下でなければ生じえない性交の強制、すなわちレイプに他ならないのではないか」とおっしゃる。
んじゃ上の白蘭さんはレイプされいた時代が生涯で一番よい時代だったということになる。それでいいのだろうか。さらに気になるのは、その文章につけられた注ですわ。
ここでの記述は、現実のセックスワーカーの方々とその現場について述べているのではなく(実際、上述の通り白蘭さんが、文萌楼で公娼として働いていた時期が自分の人生で最良だったと語っていた事実は重い)、性行為の「同意」についてラディカルに考えるならばこうした見方ができうるのではないかという理論的な問題提起であることを断っておく。
これを見たとき、私ほんとにいらいらして禁煙していたタバコ吸ってしまました 1)あえて書いておけば、もちろん牟田先生が言いたいのは、公娼として働いているときがベストだったと言わねばならなおいほどつらい人生を送らねばならない人生とはどのようなか、という共感なのはわかっているつもりです。。実際に人々がおこなっているセックスはどのようなものかと調査したり考えたりするよりも、まず「ラディカルに考えるならばこうした見方ができうるのではないか」ってのを優先するというのは、いったいどういうことなのかわたしにはわからないです。なぜ牟田先生はわざわざ取材・調査に応じてくれた白蘭さんの言葉や思いをもっと紹介してくれないのだろう。なぜ白蘭さんという生身の人の生身の経験を踏み台にして、いきなりアメリカの白人インテリのラジカルフェミニストの理論から見た売買春の話にジャンプしてしまうのだろう。
「慰安婦」とか債務奴隷の状態にされた人々のなかにものすごく悲惨な経験をした人々が、かなり多数いるのはまちがいないところだと思うわけですが、だからといって「ラディカルに考える」ために、人々の姿を勝手に想像し押しつけるのははまちがっていると思う。それがフェミニズムとか哲学とか社会学とかだったら、そういう学問はなくてもよいのではないかとさえ思ってしまいました。(続きます)
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References
1. | ↑ | あえて書いておけば、もちろん牟田先生が言いたいのは、公娼として働いているときがベストだったと言わねばならなおいほどつらい人生を送らねばならない人生とはどのようなか、という共感なのはわかっているつもりです。 |