先日、この記事がネット上で話題になった。
要約すると、
彼氏が風俗に行っていたことが発覚。
それが嫌で嫌でたまらなくて、心がズタズタに傷つく。
それでも、彼のことを嫌いになるのも、彼から嫌われるのも、怖くて怖くて仕方がなくて、道で車が走るのを見れば死ぬことを考えてしまう。
という内容。
ぼくはこの文章を読んでとても他人事に思えなかった。
ぼくも彼女と同じ類の人間だと思う。
彼女はどうか知らないが、ぼくは傷つきやすい性格もあって、いわゆるメンヘラあるいはメンヘラ予備軍のような人間だ。
そして、この彼女と似たような経験もあるし、
彼女と同じ状況になっていたら、同じような心境に至っていただろうことが容易に想像できてしまった。
彼女は悪くない。
悪くないが、彼女の思考・精神性はとても危険だと思った。
危険というのは、彼女が今後健やかに生きて行くことが危ぶまれるという意味で、だ。
心の弱い人間というのは確かにいる。
以前、こんな記事もあって、この内容にはすごく共感した。
でも、だからといってこの問題を「自分は心が弱いから」のひと言で済ませては何も進展しない。
他人である彼女が書いた文章であるからこそ、この出来事を客観的に見ることができた。そして、彼女の思考パターンの問題点にも多々気付くことができた。
彼女、そしてぼくらのような人間が今後、幸せに生きるためには、それらの問題点を克服する必要がある。
ぼくらメンヘラ(及び予備軍)はいかに生きるべきか。
この悲壮な事件とともに考えていきたい。
- 1人では歩けないほどの他人(恋人)への依存
- 文章から滲み出る「自己肯定感の低さ」
- メンヘラ特有の思考パターン「認知の歪み」
- 悪いあの人、かわいそうな私
- 我々はどうすればいいのか?
- 最後に:僕らは他人を信じてもいいのか?
1人では歩けないほどの他人(恋人)への依存
彼女の文章を読むと、彼女が恋人にどっぷりと依存していることが読み取れる。
そもそもこの恋の始まりが、彼から精神的に助けられたことから始まっている。
恋愛もセックスも人並み以下の経験しかせずに、しかも結局夢にも破れて、なぜだかストーカー被害にもあったりしていろいろ挫折して、どんぞこにいた自分を、元の明るい自分にしてくれたのは彼だった。
精神的な援助から発展した恋愛感情は依存の関係に発展しやすい。
そもそも、それを恋愛感情を呼んでいいのかもわからないが、とにかく精神的な依存につながりやすい。
だから彼との関係に傷が入った途端、自分が保てなくなるほど心が壊れてしまっている。
道を歩いている時も、車での移動中も、事故が起きて私だけ死なないかなと思っていた。
鍵を開けて部屋に入りドアを閉めて、そこからずっと声をあげて泣いた。
泣き続けておかしくなりそうだったので、泣くのをやめた。
自分の心が壊れるのが怖い。だから、泣きすぎるとやばいと思った。
恋人に浮気をされたり、別れ話を切り出されたら誰でも傷つくものかもしれない。
だがそれが原因で日常生活もままならなくなり、本気で死を考えるというのは、異常な状態だ。
さらに、彼のことが許せないのに、別れられなくて苦しんでいるという描写もある。
これらのことは、彼なしでは生きていけないという状況、つまり生きていくことを彼に依存しているということの証拠である。
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長文から見える彼氏への過度な依存性。同情のコメントが多いがこれは普通じゃないぞ。たぶんこの人は彼氏からフられるまでズルズルダラダラ付き合い続けると思う。(id:megaflickz)
依存しすぎなのではと思った、別れて次行こう。自分が他人に対して、そこまで背負わなくて良いし責任感じなくて良い。(id:lifefucker)
不快に思ってるだけなら他の人を探すべきって話で終わるんだけど本人がこの一件で自分の存在価値を見失ってしまっているあたり元々恋愛への依存度が不健全なほど高そうには見える(id:narukami)
依存しあうと必ずどこかで崩壊が来る。どれだけ笑顔を作っても、どれだけ稼いでも、どれだけ幸せになろうと努力してもその崩壊がくる。依存しあわない術は現代にとても大切だが、その方法を多くが知らない。(id:Kmusiclife)
そして、この「彼への依存の強さ」は、彼女の自己肯定感の低さという形でも現れている。
文章から滲み出る「自己肯定感の低さ」
悲しいかな、自分の醜さが目に付いた。
顔が腫れぼったい、鼻が低い、目が細い、口が曲がってる、眉毛すら美しく生えていない。
胸が小さい、くびれがない、下腹がみっともない、足が太い、とにかくいけてない。
少なくとも風俗嬢よりきれいじゃない。
自分とのセックスは気持ち良くなかったのかも、自分はスタイルも顔もよくないし、その上積極的にできていなかったのかも、胸が小さすぎるのかも、しまりが悪いのかも、風俗でどんな風にしたんだろう、ちゃんとゴムはつけたのだろうか、彼は嬉しかったのだろうか、どんな風に優しくしたんだろう、なにをしゃべったんだろう、終わった後どんな気持ちになったんだろう、いろんなことを考えた。
彼との関係に傷が入った途端、自分の短所をこれでもかとあげつらっている。
そうせずはいられなくなっている。
劣等コンプレックスが、堰を切ったように噴出して、たれ流しになっている。
もともと自己肯定感が低かったのだろう。
しかし、彼と交際することでその穴を埋めていた。
彼と恋仲にあるという事実が、彼に認められているという実感が、彼女自身の人としての価値のよりどころになっていた。
それで心の平静を保っていた。
だから、彼の風俗行きが明らかになり、彼から軽んじられていることがわかると、彼女自身の価値・自尊心も大きくぐらついた。
彼から大事にされない私は、価値がない人間なんだと。
見ないふりをしていた劣等コンプレックスが溢れ出てきた。
彼への依存の背景にあったのは、この自己肯定感の低さだ。
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最初からあったけど見ないようにしてた不安や劣等感が噴き出すきっかけになっただけの気がする。遅かれ早かれ何かのきっかけで彼との距離を感じるようになったんじゃなかろうか。相性が合わないだけだと思う。(id:star_of_bba)
2つの問題が混在してる。1つは彼氏が風俗に・・という普遍的な問題。もう1つは劣等感とプライドでゴチャゴチャの気持ちをうまく処理できないでいること。自分で消化できないし相手に強く当たることもできないんだなぁ(id:shimael)
そしてさらに、メンヘラによく見られる思考パターンが、自己肯定感の低さに拍車をかけている。
メンヘラ特有の思考パターン「認知の歪み」
その思考パターンが、自分をあえて傷つけるような不快なイメージを反芻する被害妄想。
そして、「認知の歪み」である。
ふとしたときに、彼が風俗の女性と抱き合っている姿がうかんだ。
官能的なものじゃなく、彼の後ろ姿と抱きしめられて彼の体に隠れてほとんどみえない裸の女性の静止画。
それが目に浮かぶたび「私じゃない人と、そんなふうに近づいたりするのかあ。」と思った。
彼が友達と行った旅行も飲み会も、ぜんぶ風俗に行ってたかもしれない。そう思うと楽しかった思い出も全部むなしい。彼のことが好きで、いつも幸せだったから、それが全部裏切られたと思った。
認知の歪みとは、うつ病などの精神疾患患者によく見られる思考の癖。
一言で言うと、不確かな根拠をもとに、ネガティブな妄想を一方的に事実であるかのように決めつける思考パターンである。
碇シンジくんにもよく見られる。
例えば、「ある朝教室に行くと、クラスメートの1人から突然冷たくされた」という体験を通して、
「みんな僕のことが嫌いなんだ」と結論づけて決めつけてしまうこと、など。
そのクラスメートが冷たく思えたのも、ただ虫の居所が悪かっただけかもしれないし、たまたま冷たく見えただけかもしれない。
その彼に嫌われたことを確証づける根拠は1つもない。
ましてや、"みんな"が自分を嫌っていると思うのは、完全に論理が飛躍している。
しかし、こういう風に本気で思い込んでしまう人たちがいるのである。
こういう思考の癖のことを認知の歪みという。
認知の歪みにも色々種類があって、他にも「全か無か思考」「一般化のしすぎ」「結論の飛躍」「すべき思考」などある。
彼女は、彼が風俗に行ったという1つの事実から、あらゆる物事を、あることないことすべてをネガティブな妄想に歪めていることが、文章全体を通してうかがえる。
この認知の歪みによって、いたずらに自分の心を傷つけ、自ら進んで自分の価値を放棄してしまっている。
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やべぇ依存してるし離れたほうが良いと思う 彼は行いを「改められる」かもしれないが、あなたは自身の思い込みを改められないんじゃないかな これからずっと疑って生きていくのしんどいよ(id:milkmooncake)
悪いあの人、かわいそうな私
彼女の文章は、
自分が彼をとても好きだったこと。
そして、どれだけ自分が傷ついたか。
という内容に終始している。
そして、それが誰のせいかということも。
私は風俗嬢という言葉を見るたびに、少し傷つく気がする。でもそれは風俗嬢にされてるわけじゃない。あなたに傷つけられんだ。
著書『幸せになる勇気』によると、著者が人生に迷った相談者をカンセリングするとき、相談者のほとんどはある2つの内容のことしか話さないとある。
それが、
「悪いあの人」と
「かわいそうな私」
だ。
見事なまでに彼女もその例に当てはまっている。
いかに私がかわいそうで、いかに彼が悪者かということ。
たしかに彼は悪者なのかもしれない。
だけどそれを強調することに何の意味があるのか?
自分が被害者だと声を荒げることに何の意味があるのだろう?
「傷つけられた」とか、
「捨てられる」とか、
そういう言葉が出てくるのは、自分が受け身な姿勢だから、相手と対等な関係を築けてないからこそ出てくる言葉だ。
性別は関係ない。
また、かわいそうな私を強調することで、周囲の同情や共感を買いたいのかもしれない。
それも一時の癒やしにはなるかもしれない。
だが、それだけでは何も解決しない。
わたしたちが考えなければいけないのは、「悪いあの人」の話でもなければ、「かわいそうな私の話」でもない。
「これからどうするか?」
だ。
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長文がきもい。自分を壊してるのは自分だと気付けよ。なんだかんだ他人に責任転嫁して安っぽいヒロインに浸ってるだけ。(id:sato0427)
我々はどうすればいいのか?
そう、だから「これからどうするか?」の話をしよう。
適切な人間関係の構築
彼女の場合、彼氏に依存しない関係を築いていかなければいけないことは明らかだ。
では、依存しない関係を構築していくにはどうすればいいか。
すべてを捧げない
我々メンヘラは、好きな人や恋人ができると自分のすべてをその人に捧げたくなる。
そうせずにはいられなくなる。
なぜそうなるのか?
それは、その行為が気持ちよくて気持ちよくてたまらないからだ。
気持ちいいから、その気持ちよさがもっと欲しくて、それをひたすらに繰り返す。
つまり中毒だ。
ニコチンやアルコールで中毒になるように、恋愛で中毒を起こしている。
中毒とは、別名を依存症ともいう。そう依存だ。
人がニコチンやアルコールの依存症になるのはどんな時か?
それは辛いことを忘れようと、快楽でそれをごまかそうとする時だ。
メンヘラの恋愛依存も同じだ。
つまり、メンヘラは自分に欠けたものを埋めるため、自分の人生が辛いのを紛らわすために、恋愛の快楽に頼り、依存する。やがて自分のすべてを捧げるようになる。
また、メンヘラは内向的で人付き合いが苦手なことが多い。
人間関係を広げるのが苦手なので、仲良くなることができた少数の人に自分の好意と時間を集中的に投入する。
恋人ともなれば、その度合いはより激しくなる。
その結果、恋人にだけのめり込んだ、極端な依存状態に陥る。
相手の存在が自分の中で大きくなりすぎた状態、もっとひどいと自分のすべてになってしまう状態。
だから、相手との関係に傷が入ってしまっただけで、人生の終わりかのような絶望を感じてしまう。
この先、一生ひとりぼっちのような恐怖にさいなまれる。
だからそれが怖くて、相手の一挙手一投足が必要以上に気になり、疑い深くなり、被害妄想に苛まれ、相手を束縛したい欲求に駆られる。
こうして恋人がいなければ生きていけない、病的な依存状態が生まれる。
だから、相手との関係が、このような不健全なものにならないためには、
特定の人物を、自分のすべてにしないことが必要だ。
もっと細かく言えば、「自分の生きがいを増やすこと」
そして、「人間関係を広めていくこと」だ。
生きづらさが原因で恋人に依存してしまうなら、その生きづらさ自体を消す努力、あるいは他に自分を慰められる生きがい(仕事でも趣味でもなんでもいい)を見つけた方がいい。
そして、楽しい時間を過ごせる友人を増やすこと。
メンヘラにとって、笑いあえる友人を作ることは大変なことなのは間違いない。
だからといって、特定の1人としか関係を持たないという安きに流れては、のちのち地獄の苦しみを味わうのは自分だ。
そして、相手を自分のすべてにするなと言うと、
なぜ自分の1番大事な人をあえて軽んじらなければいけないのか?と言われるが、そうではない。
むしろ、特定の人物にだけ没入する方が、被害妄想や束縛の欲求で相手に負担を強いることになる。
相手に尽くすことと、依存することを履き違えてはいけない。
自分の価値を他人に委ねない
自己肯定感が低いと、それを補うために他人からの承認を強く求めてしまう。
まさに彼女がそうだ。
「彼が認めてくれているから自分には価値がある」と。
だから、彼との関係にヒビが入った途端に、彼からの承認によってせき止められていた劣等コンプレックスが一気に噴き出し、濁流となって押し寄せてきた。
自分の人としての価値を、他人である彼1人に外注していたために起きた不幸だ。
自立するためには、自分自身の価値は自分自身で自給自足する必要がある。
比べるのは他人とではなく自分自身
人はつい自分と他人を比較してしまう。
他人という存在は非常によく目につく。
他人と比較して、
「私はあの人には勝ってる」と息巻いたり、
「あの人はあんなにすごいのに自分は…」と落ち込んだりする。
このような他人と自分の優劣の比較というのは、非常に不毛なことだ。
なぜなら、これによって終わらない戦いに身を投じることになるからだ。
戦いの末にAさんに勝っても、今度はより優れたBさんの存在が気になり始めるだけだ。
こうなると、誰もがオリンピックの金メダリストにならないと人として価値がないということになってしまう。
彼女も、自分と(想像上の)風俗嬢を比較して落ち込んでいる。
可愛くて、スタイルがよくて、なんかテクニックとかもすごい、そんな相手と自分が比べられたかと思うと恥ずかしかった。
こんな恥ずかしい顔や体や自分を、愛されてる、受け入れられてる、喜ばれてる、と何の疑問も持たずに彼にさらけ出してきた自分が恥ずかしかった。
このままでは彼女は、世界一の美女にならないと精神の安定が保てない。
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ソープでも違法本番店でも手コキやピンサロでも全部同じで嫌なんだろうけど、それより同じ状況の他の女性はどうなのか、風俗嬢より自分は劣るという思いなど、人と比べて優劣価値決め思考が大きそうなのが気になった (id:manotch)
そもそも他人と自分を比較するのに何の意味があるだろうか?
自分と他人は何もかもが違う。
生まれた場所、育った家庭環境も違えば、細胞に内包する遺伝子の配列も違う。
いわば、そもそもスタートラインが違うのである。
スタートラインが自分よりはるか後方にある人間に向かって「勝った」と自慢げに言い放つことはとても恥ずかしいことだと思わないだろうか?
スタートラインが自分よりはるか前方にある人間を見て「あの人には勝てない。だから自分は価値のない人間だ」と首をもたげることは馬鹿らしいことだと思わないだろうか?
じゃあ我々は何と自分を比較すればいいのか?
言うまでもない。同じスタートラインに立つ人間だ。
それは誰か?
そう、自分自身だ。
自分自身を基準にして、その足が、確実に、前に向かって歩を進めていればそれでいい。
我々は、どんな場所で、どんな身体に生まれるかを自分で決めることはできない。
そして、その与えられた自分という資源を、どう使うか。その1点においてのみしか、自分がコントロールできるものはない。
であれば、与えられた自分を使って、自分なりに、自分にできることを、真摯に取り組んでいくしかない。
そうやって生きていれば、他の誰に劣っていようと、他の誰があなたを侮辱しようと、誰もあなたの価値を傷つけることは、絶対にできない。
そして、あなたも、あなたの価値を心置きなく認めてあげてほしい。
人の価値は、今どの場所にいるかで決まるのではない。
いまこの時も、足を止めず歩き続けているかどうかによって決まるのである。
「……………」
「他人と比較してはいけないことはわかった。
でも、だからと言って、いつか彼が私以外の魅力的な女性の元へ行ってしまうかもしれない不安は消えない。
その不安が消えない限り、魅力的な女性と自分を比較することをやめることはできない」
そういう声が聞こえてきそうだ。
そんな人は、ある1つの真実を知らなければいけない。
それは。
他人をコントロールすることはできない
人は、他人という存在をコントロールすることができない。
なぜなら、周囲の人間がその人にどんな働きかけをしようと、その人がどんな行動を起こすのか、最終的に決めるのはその人自身だからだ。
そんな当たり前のことも忘れ、私たちは他人に勝手に期待し、操ろうとし、そして勝手に失望したりする。
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心の底から彼のことを愛して信じていたのだろうなと伺える/しかし他人と過去は変えられないから、事実を事実として受け止めるしかないんだよなー (id:tk_e)
他者の過去をすべて自分のものにすることはできないので,そこまで病みそうになるほど煩悶するのであれば,その男とは別れて同じ価値観の方を探した方がお互いのためなのではないかしら。(id:wackunnpapa)
もちろん、自分の行動によって、相手の行動が変わることはある。
それで相手が自分の意図通りに動けば、さも他人をコントロールできたかのように錯覚することもある。
でもそれはすべての判断材料を勘案した上で、その人自身が最終的に決断しただけだ。
その最終的な決定権までも他人から奪うことは絶対にできない。
だから、たとえ恋人であろうと、一生自分だけを見続けさせることなど原理的に不可能だ。
じゃあ他人をコントロールできないなら、恋愛において私たちができることはないのか?というと、そんなことはない。
先ほども述べたように、コントロールはできないが、自分の行動によって相手の行動が変わることはある。
だから、
自分とのセックスは気持ち良くなかったのかも、自分はスタイルも顔もよくないし、その上積極的にできていなかったのかも、胸が小さすぎるのかも、しまりが悪いのかも
と思うのであれば、それ自体を改善するか、それを補える別の何かを磨くか、または全く別のジャンルのことで魅力をアピールするか、をするしかない。
やるべきことを粛々とやっていく。
答えは非常にシンプルだ。
『進撃の巨人24巻』より
もちろん、それをしたからと言って彼が自分の元にとどまってくれる保証はない。それを決めるのは彼であって、あなたに決定権はないからだ。
どうなるかはわからない。
それは、そこまで進み続けた者にしかわからない。
『進撃の巨人24巻』より
その上で、やるか・やらないか。
決めるのはあなた自身だ。
最後に:僕らは他人を信じてもいいのか?
僕たちメンヘラはどう生きるか?について綴ってきた。
自分の価値を自分で認め、他人への依存から脱却できた時、人は本当の意味で自立できる。
僕たちがいかに傷つきやすい心を持っていようと、その心と一生付き合っていくしかない。
大事なのは何が与えられているかではない。
与えられたものをどう使うかなのだから。
そして最後に、彼女が吐露したこの言葉に、僕からの言葉を添えて締めくくりとしたい
人間は孤独で、どんなときも心のどこかで人に対してあきらめを抱えたまま生きていくしかないのに、誰と愛し合おうが結婚しようがそれは変わらないのに、うっかり忘れてしまっていた自分が情けない。
もともと他人に期待しすぎちゃいけないと思って生きてきた。
自分の傷つきやすさを自覚しているからこそ、家族や友人も含めて、他人に変に期待(依存)しないように、思春期からずっと気をつけてきた。
それでも、彼氏にはすごく期待してしまっていたことに、今回気付いた。
こんな無意識の期待さえしてはいけなかったんだと分かって悲しかった。
今後、他人に対してもっともっと慎重にいなければならないと思うと、生きる喜びってとても少ないなと思った。
もっと言えば、いつも他人を心の底で少し突き放して生きていくことになる。それは軽蔑と言ってもいい。残念だな。
ぼくも似た様なことを思っていたことがある。
信じるから傷つけられる。なら、初めから信じなければいいと。
だが、
人から裏切られることが、人を信じない理由になるだろうか?
それは、転ぶのが怖いから、交通事故にあうのが怖いから家から一歩も出ないと言っているのと同じだ。
家から出なければ安全かもしれないが、そこで得られる喜びも限られている。
人を信じることで得られるものを取るか、人から裏切られない安全を取るか。何度も繰り返すが、決めるのはあなた自身だ。
それと、1本の木が腐っていただけで、この森全体が腐っていると判断するのも早計じゃないだろうか。
あなたはちゃんとたくさんの木を見た上で、その結論に至ったのだろうか。
多くの木を調べようとしたのだろうか。
眼に入った木の中で、お気に入りだった1本が実は腐っていたことがわかっただけで、「この森の木は全部腐っている」と認知の歪みが生じてないだろうか。
いま彼女の眼に映る景色が暗く澱んでいるのは、彼女が新しい関係を築くための、そして人を信じるための勇気をくじかれているから、ただそれだけのことだ。
それを、「生きる喜びが少ない」とか「軽蔑」とかいう暗い言葉で自分の人生にレッテルを張るのは、どうか、やめてほしい。
この世界はあなたが思っているよりずっとずっと広い。