「中学初の道徳教科書と問われる文科省」(時論公論)
2018年03月29日 (木)
西川 龍一 解説委員
今年の小学校に続き、来年春から中学校で教科となる道徳の初めての教科書検定が終わりました。奇しくも物事を広い視野から多面的・多角的に考え、生き方についての考えを深めるという「考える道徳」の実現に向けて教育現場の理解を得なければならないはずの文部科学省にとって、現場の信頼を失いかねない事態が起きています。
初の中学校道徳教科書検定の内容と問題点に加え、前川前事務次官が中学校で行った授業への文部科学省の対応を通して、道徳教育のあり方について考えます。
小中学校の道徳は、教科外の特別活動などと同じ位置付けでしたが、文部科学省はいじめ問題への対策などを理由に特別の教科に格上げすることを決め、小学校はこの4月から、中学校は来年4月から実施されます。教科になるにあたって、文部科学省は「読み物道徳」と揶揄されてきた状況を改めて、「考える道徳」「議論する道徳」といった問題解決型の道徳に変えることを目指しています。教科になれば検定を受けた教科書を使い、成績を付けることになります。中学校の道徳の教科書は、今年度文部科学省の検定を受けていて、その内容が公表されました。どんな特徴があるのでしょうか。
今回の教科書検定には、出版社8社が申請しました。そのうち7社は去年、小学校の道徳の教科書も出版していて、純粋な新規参入となるのは1社だけです。いずれも記述を修正した上で合格になりました。
小学校の道徳の教科書では、文部科学省が教科化を見据えて配布してきた文部科学省版の教科書とも言える「わたしたちの道徳」と共通する教材を取り上げた出版社が多く、総じて横並び感や画一的な印象が指摘されました。こうした傾向は、中学校でも現れていて、中学校向けの文部科学省版教材から多くの教材を取り上げたものが目立ちました。一方で、こうした教材にほぼ頼らない形で教科書を編集した老舗の出版社もあり、差別化を図ろうという動きも見られます。
では、中学校の道徳の教科書検定で付いた意見には、どんなものがあるのでしょうか。
特徴的なのは、3つの出版社の教科書に「内容全体」を対象に「学習指導要領に示す内容に照らして、扱いが不適切である」という意見が付いたことです。どういうことなのか。道徳の学習指導要領には「節度、節制」「思いやり、感謝」「友情、信頼」など22にわたる項目が示されていて、教科書ではこれらの項目を必ず取り上げることになっています。これらの項目にはさらに細かく要素が示されています。例えば「節度、節制」では、「望ましい生活習慣を身に付け、心身の健康の増進を図り、節度を守り節制に心掛け、安全で調和のある生活をすること。」となっています。
ある出版社の1年生の教科書は、「節度、節制」のうち、「安全で調和のある」の部分が扱われていないという理由で、教科書の内容全体が不適切とされたのです。この出版社は、「中村久子~ヘレン・ケラーが抱きしめた女性」という検定意見の付かなかった教材を載せるのを止めて、自転車で小学生にぶつかりそうになり、急ブレーキをかけて自分が大けがをおった「曲がり角」という交通安全の教材に差し替えることで修正が認められました。体裁を整えるため、問題のない教材が押し出された形です。交通安全は大事ですが、発達段階を考えればこの教材への差し替えがふさわしいのかとの疑問も浮かびます。学習指導要領のたがを一言一句はずさない方針が、意見が付かない子どもたちの探究心を育む教材を差し替えることにつながる可能性を示しています。
なぜこんなことが起きるのか。
背景にあるのは、道徳特有の検定の難しさです。教科書検定では、基本的に学術的な根拠に基づいて事実関係などに誤りがないかを判断し、必要があれば検定意見が付けられます。しかし、道徳の場合は、学術的な基盤が定まらない事柄が多く、何を根拠に検定意見を付ければいいのかがはっきりしないため、当初から検定に馴染まないという声が文部科学省の教科書検定審議会の委員の間からも上がっていました。教科書の編集に長年携わって来た出版関係者の1人は「1つの細かな事由で全体が不適切というのは、道徳以外では例がないのではないか」と指摘します。学習指導要領の項目に当てはめることが目的化しているようでは「考える道徳」への足かせになるだけです。
今回合格した教科書には、もう一つ、気になる点があります。すべての教科書に道徳の授業について振り返って学んだことや自分の成長を記録する欄が設けられている中で、5つの出版社の教科書は生徒自身が自らの理解度を3段階から5段階といった方法で評価するようになっていることです。道徳の教科化に伴い、もっとも議論となったのが成績をどうするのかという問題でした。教科となる以上、付けざるを得ないという結論になったものの、子どもたちの内面に点数を付けることはできないとして、段階別や点数での評価はしないことになった経緯があります。文部科学省は「先生が点数で評価するわけではなく、生徒の自己評価であれば問題ない」との立場です。しかし、道徳教育に関する文部科学省の調査に中学校の先生の43%が「指導の効果を把握することが困難だ」と答えています。そこに数値があれば、利用したくなっても不思議はありません。文部科学省はもう1度、成績のあり方について学校現場に周知する必要があります。
教科書はできましたが、「考える道徳」の実現に向け課題は多く残されています。
そうした中、文部科学省と学校現場の信頼関係を崩しかねない事態が明らかになりました。前川前事務次官を授業の講師に招いた中学校にその理由や授業の内容の報告を求めていた問題です。この問題では自民党の文部科学部会の部会長と部会長代理の2人の国会議員が、文部科学省が学校にメールで報告を求める前に問い合わせを行っていたことも明らかになっています。メールの内容が、前川氏が天下り問題で辞任していたことや、出会い系バーの店を利用していたことを指摘するなど、個人への中傷とも取られかねないおよそ道徳的とは思えない内容が含まれていることにも批判があります。前川氏が行った授業というだけで法令違反でもないのに詳細な質問をすること自体、現場の萎縮や忖度を生むおそれがあり、行きすぎだという声が教育関係者の間にも広がっています。当初、文部科学省は授業が行われたことを地元紙の報道で知ったと説明していましたが、国会議員からの指摘でわかったと説明を変えたり、議員の指摘で学校への質問内容を修正したりしたことも明らかになり、釈明に追われています。およそ道徳教育を司るにふさわしいとは思えない対応にはあきれるばかりです。文部科学省と各地の教育委員会や学校との関係がぎくしゃくすれば学校教育全体がゆがむことにもなりかねません。影響を受けるのは子どもたちだと言うことを忘れてはならないと思います。
道徳の教科化にあたっては、戦前の教育勅語体制下の「修身」の復活につながるという根強い批判があります。学習指導要領の型にはまった窮屈な教科書や学校現場の萎縮を生むような文部科学省の対応がそのことを想起させるようなことはあってはなりません。
(西川 龍一 解説委員)