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司法

真実を知りたい…「アーチャリー」と呼ばれたわたしが考えていること

麻原裁判は、これでよかったのか

1995年、日本を震撼させた地下鉄サリン事件。事件を起こしたオウム真理教幹部らの裁判は、すべて結審した。だがこの間、私たちはどんな事実を知り得たのだろうか。当時、教団内で「アーチャリー」と呼ばれていた、教祖・麻原彰晃の三女・松本麗華さんが、前回(現代ビジネス3月31日<「アーチャリー」と呼ばれたわたしが、今伝えたいこと>http://gendai.ismedia.jp/articles/-/54997に引き続き、いま感じていることを語ってくれた。

「ストップがかけられなかった」

前回もお伝えしたように、この記事は、父の無罪を訴えたり、釈放を求めたりするものではありません。ただ、父が、父だけの知る事件の真実を語る必要が、まだあるのではないかと思っているということ、「詐病」とされ、治療もされないまま放置されている父に対して、本当に公正・中立な裁判が行われたのかという疑問を、綴りました。

また、娘としては、とても耐えがたいことですが、父が事実を語り、適正な裁判を受けた上で、それでも死刑判決がくだるならば、法治国家の国民として、受け入れざるを得ないと覚悟していることも。

 

今回は、その父の「訴訟能力」についての問題から、お話を始めたいと思います。前回もご紹介しましたが、父の裁判で裁判長をつとめた阿部文洋氏は、父に対して訴訟能力がある旨、述べていたことをお伝えしました。

この「訴訟能力」という言葉は、「被告人としての重要な利害を弁別し、それに従って相当な防御をすることのできる能力」(最高裁平成7年2月28日決定)を意味するとされます。簡単にいうと、裁判を受ける能力ということになるでしょう。訴訟能力がない場合、わたしたちは裁判を受けることができません。

刑事訴訟法第314条は、「被告人が心神喪失の状態に在るときは、検察官及び弁護人の意見を聴き、決定で、その状態の続いている間公判手続を停止しなければならない」と規定しています。ここでいう「心神喪失」とは、訴訟能力を欠く状態を言います。被告人が治療を受け快復すれば、訴訟能力も回復しますので、停止していた公判が再開されることになります。

[写真]面会を求め、東京拘置所に向かう車内で(撮影:堀潤氏)面会を求め、東京拘置所を訪れた帰りの車内で(撮影:堀潤氏)

一審の裁判中、弁護団は父の病気を理由として、公判停止を申し立てることもできました。弁護団は父の精神鑑定をするかについて検討はしたようですが、結局、行っていません。

その理由について、安田先生は、2018年3月7日の「宮台真司とジョー横溝の深堀TVch_ニコ生」に出演され、以下のように語っておられます。

<第一審では精神鑑定をしませんでした。精神鑑定をやってしまうと、精神の問題ですべて実行行為をくくられてしまうので、弁護人は精神の問題は一番最後にやる、というのがいつも弁護人の考え。事実が大切だと。

精神の問題は責任問題ですから、まずやったかやらないか、何をやったかと。それが違法なのか合法なのか。最後にその責任を本人に問えるのかどうか。その一番最後の場面なんですね。一番はじめに責任をもってきてしまうと、この人は何をやったのか、という部分が曖昧にされてしまうんです。ですから、刑事弁護人は、精神的な問題は一番最後におくと。

ただ、裁判で何が行われているか、何を行っているかが理解できない限り、その人は適切に防御することはできないわけです。それがどんどんどんどんなくなっていくわけです。どっかでストップをかけなきゃならなかったわけです。しかし、ストップをかけるタイミングがなかなか難しくて、ストップをかけられないままで物事が進行してしまった>