東日本大震災から7年。被災地と向き合い続けてきたアーティストがいる。
「7年間で会った人の数って計り知れない」「風化はある。誰も伝えないんであれば、その誰かに自分がなればいい」
4人組ハードコア・パンクバンドのBRAHMAN(ブラフマン)。
ボーカルであり、先頭を切って被災地を支援するTOSHI-LOWの言葉と行動を知ると、自分の生き方が問われているような気持ちになる。過去ではなく、これからの。
BRAHMANは民族音楽を取り入れた独自性のある音楽と、圧巻のライブパフォーマンスで人気を誇る。結成して20年以上を経て、ジャンルの枠を超えた楽曲とライブの激しさはむしろ増している。
だが、震災前のTOSHI-LOWは音楽活動をやめようと考えていた。
気づけば、生活のために音楽をしているように思えた。バンドを始めたころの志と大きくズレているのではないか。
どんな歌詞を書いても、社会に迎合している気がした。自分に対する疑心暗鬼の中で、制作は止まっていた。
そんな苦しみの中で、あの日を迎えた。2011年3月11日、東日本大震災。
人間として気高く生きる道を選択する
翌日から福島第一原子力発電所が水素爆発し、自粛ムードが漂った。
TOSHI-LOWはすぐに動いた。BRAHMANが率いる所属事務所「タクティクスレコーズ」のスタッフとメンバーを巻き込み、支援活動に乗り出した。
震災5日後の3月16日にチャリティTシャツの販売を開始。3月17日から3日間は福島県いわき市や茨城県北茨城市へ向けた、米や紙オムツ、粉ミルクなど支援物資を募集・運搬した。
3月27日、キャンセルが相次いでいた水戸市のライブハウスで、BRAHMANは「幡ヶ谷再生大学」と称したライブを敢行した。TOSHI-LOWは当時、自粛ムードに戸惑う観客にこんな言葉を投げかけている。
俺が今正しいと思ってんのは、人間として気高く生きる道を選択するっていうこと。ただ、それだけ。BRAHMAN始めます。
心は揺れ動いた
3月29日には被災地の子どもたちのために東京でお菓子を集める活動に入る。支援物資を配っていたアーティストと協力し、自らトラックのハンドルを握って岩手県宮古市まで運搬した。
そして、メンバーとともに沿岸部に向かい、津波の猛威を目の当たりにする。荒れ果てた街で瓦礫の中に立つと、愕然とした。
それまでの音楽活動が、自分の日常が、どれほど尊いものだったか気づいた。
「命があるからこそ音が鳴らせるし、それを聴いている。そういう単純なことが、どんだけ幸せなことか気づいてなかったんだよ」
被災地で支援活動を続ける中、自分がすべきことを考えたときに一人で歌える曲がなく、悔しさがこみ上げた。それがきっかけで、弾き語りの練習をするようになった。
支援をし、時にギター1本で弾き語る。歌と自分自身に向き合う日々が始まった。
傷ついた言葉
時間を見つけては継続して通った支援の現場は、自分の強みと弱みを知る場所だ。
「自分のできないことをたくさん知って、学べるわけさ。木の切り方はどうとか、重いものをどうしたら軽く運べるとか。生きる力を学べた」
とはいえ、いいことばかりではなかった。支援活動に対して、「売名」「偽善者」と誹謗中傷の言葉も浴びた。屈強な風貌のTOSHI-LOWだって傷つくことはある。それでも歩みを止めなかった。
「動きたいのに早く動けなかった名のある人たちは『売名』とか言われるのが特に嫌だったのがあったよね」
「でも、俺は震災前に音楽をやめようとして自分自身を捨てようとした身だった。何を言われようと関係ない、そんな名前も命でさえも惜しくない、と思ってたんだからね」
「ボランティアは何も得てはいけない」。そう考える人がいる中、TOSHI-LOWにとって、支援は得るものばかりだった。ネット上で誹謗中傷されても、現地で出会うのは、感謝の言葉と笑顔ばかり。
「じいちゃんやばあちゃん、子どもたちに『ありがとね』って言われたら、誹謗中傷なんか一切どうでもよくなる。チャラどころか、いっぱい心にお土産もらって帰ることになった」
「大事なのは、喜んでもらうことを拒否して、陰に隠れてありがとうも言わせないことじゃない。ありがとうって本当の笑顔でニコってされることをやっていくこと。やらない人のたわごとなんか、初めの半年くらいでケリをつけた」
胡散臭く見えていた。重ねる過去
心ない発言をした人たちの気持ちもわかるという。自分も、かつてそう思っていたから。
23年前の阪神・淡路大震災のとき、TOSHI-LOWは大学生だった。駅で見かけた募金箱に手元にあるだけの小銭をボンと入れ、いつもの生活に戻った。
被災地のために何かしたいけれど、できたのは小銭を入れるだけだった。そんな居心地の悪さを感じながら、こう思っていたと振り返る。
「23年前に動いた人たちを俺は信用してなかった。知らない人が、知らない人のためになんかやるのって胡散臭く見えるもん。自分が思ってたことが自分に降りかかってきただけ。『お前が思ってたろ』って」
流れてきたのは『満月の夕』だった
BRAHMANは今年2月7日、約5年ぶりとなるフルアルバム『梵唄 -bonbai-』をリリースした。津波に子どもを奪われた宮城県石巻市の友人のエピソードをもとに作った『ナミノウタゲ』のほか、『満月の夕』のカバーを収録した。
『満月の夕』は、阪神・淡路大震災当時、ソウル・フラワー・ユニオンの中川敬とHEATWAVEの山口洋が共作した楽曲。中川は避難所の中で、山口が外から目にした光景を歌詞にし、互いにそれぞれのバージョンで歌った。
TOSHI-LOWが東北の瓦礫の上に立ち、次は歌いに来たいと思った時、最初に頭に流れたのがこの曲だった。
東北で弾き語りで歌い始め、それからバンドでも歌うようになった。
中川と山口で別々だった歌詞を一つにした。曲を聴くと、神戸ではなく東北の情景が浮かんでくる。
「それはそうだよね。俺らは東日本大震災の時代に生きてるわけだから。人によっては熊本とか福岡の朝倉でもいいと思う。今の時代の『満月の夕』だと思ってる」
「これからどこかの地域で何か起きてしまった時、この曲が必要だったら新たに誰かが歌ってくれればいい。勇気づけたり、慰めたりできる曲だから」
「自分にできねえことは、人に頼めばいい」
思いを言葉にすることが大切だと考えたTOSHI-LOWは、支援と時を同じくして、ライブでMCをするようになった。
MCでは観客を鼓舞するときもあれば、悲しみや怒りをぶつけることもある。自らが進みたい方向を確認しているようにも見える。
2018年2月9日、初の日本武道館公演。『今夜』を歌う前、観客に話した。
あの日から教わったの。自分にできねえことは、人に頼めばいいんだって。俺より背の高いやつに棚から取ってもらうみたいに。俺より重いやつに支えてもらうみたいに。俺より真面目なやつに計算してもらうみたいに。俺より優しいやつに世話焼いてもらうみたいに。
そうやって、頼めばいいんだ。そして、その代わり俺も引き受ければ良いんだ。足の動かないあいつのために泥を掻こう。車椅子のあいつのために遠くに行こう。目の見えねえあいつのために俺が見てやろう。
そうだ、そうやって頼めばいいんだ。俺はそうやって頼むことを知った。それは俺の中では逃げじゃねえ。挑戦だ。
ファンには「あの日」で「東日本大震災」だと伝わる。
手首には、岩手県と宮城県の3ヶ所へのライブハウス建設を主な目的としたプロジェクト「東北ライブハウス大作戦」のラバーバンド。
震災の直後は一人ですべてやろうと思っていた。でも今は被災地の支援では率先して人に頼り、音楽でも他のアーティストとのコラボが多くなった。
震災と向き合い続ける。ゴールは決めているのか。TOSHI-LOWは「何もなきゃやんないし、ただ...」と続ける。
「そういうもんじゃないと思ってるから、縁は。どこまでやったらゴールとか、更地になって新しく家が建ったって、心の中ではすごい傷ついている人たちがいっぱいいるわけ」
インタビューしたのは2月19日だった。その日、石巻市の高校生からLINEで届いたメッセージを紹介してくれた。
震災がなかった方がいいに決まってるんだけど、なかったらお兄ちゃんとお母さんは流されてないんだけど、もし震災がなかったらTOSHI-LOWたちとも会ってないのかな。そういうこと考えちゃうんだよね。
「俺たちは縁があるから大丈夫だよ、切れないよ。またそこに行かなくなるってこともないし、忙しいかもしれないけど」
そう、返したという。
それぞれが、葛藤を抱えながら生きている。TOSHI-LOWと東北との関係に終わりはない。
社会に生きている人間として
「バンドやめなくてよかった。もし震災が1ヵ月遅くて、自分がもし歌をやめていたら、支援していたかわからないし、後悔をしたかもしれないな」
TOSHI-LOWは、仲間たちと震災直後に立ち上げた被災地支援団体のNPO法人「幡ヶ谷再生大学 復興再生部」の学長(代表)でもある。
今では東北に限らず、熊本、九州北部豪雨があった福岡などにも支援活動の場を広げる。
先述の日本武道館公演では「幡ヶ谷再生大学 復興再生部」「東北ライブハウス大作戦」などの復興支援ブースを設けた。
「俺たちは社会に生きてるわけだから。社会に良いことをするってことは、そもそも偽善でもなければ悪でもないわけで。当然のことだと思う」
「自分で考えて、自分が社会の一員として何をやったら喜ばれるのか考え出すことが、社会の一員として当然のことじゃん。それが社会人じゃんって思う」
夫として、2児の父としての顔
そんなTOSHI-LOWは現在43歳。夫として、2児の父としての一面も持つ。
家族の話題では打って変わって朗らかになる。「鬼」の異名で呼ばれるのが不思議なほど表情は柔らかく、温かい。
「自分を信じてくれて、ある意味覚悟してくれたんだと思ってる。とても力強いパートナーだと思う」
東北に行くと告げると「行ってきな」と送り出してくれたのは、妻で女優のりょうだ。日常では2人で手分けして、子どもの弁当を作り、送り迎えをする。
2011年6月、長男を岩手と宮城の沿岸部に連れて行った。子どもでもできることがあると思ったからだった。
まだ5歳。幼いながら「真剣に見てたし、最後は旧北上川で灯篭を流すお手伝いをした」。
その時、箱に入れられた生まれたばかりの子猫6匹が流れてきた。息子は一番弱っていた1匹を救い、飼い始めた。
「うちは犬がいるからダメだって言ってるのに、一番死にかけのやつを『いやだ、絶対連れて帰る』って。生まれて初めて反抗してきて。すごい本気を感じてさ」
目が開いてないほどだった子猫は、今では噛みつくほど強く元気になった。特に次男は毎日のように泣かされているという。
選んだ道に後悔はない
この春、その日に5歳だった長男が中学生になる。短くはない年月だ。それでも、サインには「2011.3.11」の日付を入れる。
支援という選択肢を選び、進み続ける。音楽活動に対しても妥協はしない。
曲『真善美』にはこんな歌詞がある。
さあ 幕が開くとは 終わりが来ることだ
一度きりの意味を お前が問う番だ
「人間は生きているだけでは人間ではなくて、自分の生きてる意味と何をしたいのかを見つけ出すことが、人間が人間になっていく道筋だ」
あれから7年の3月11日、TOSHI-LOWは福島県いわき市で歌い、仮設住宅の住人たちと語らった。途切れることのない「縁」がそこにあるから。
〈BRAHMAN〉1995年結成。TOSHI-LOW(ボーカル)、KOHKI(ギター)、MAKOTO(ベース)、RONZI(ドラム)のメンバーで活動する。99年、シングル『deep / arrival time』でトイズファクトリーよりメジャーデビュー。アルバム『梵唄 -bonbai-』発売に伴う全国ツアーが3月3日からスタートし、6月に東北の3会場での追加公演が決まった。
※この記事は、Yahoo! JAPAN限定先行配信記事を再編集したものです。
バズフィード・ジャパン ニュース記者
Kensuke Seyaに連絡する メールアドレス:kensuke.seya@buzzfeed.com.
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