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2018年03月26日 11時45分 JST | 更新 2018年03月26日 11時45分 JST

「忖度」を招いたからといって「内閣人事局」否定は短絡・・・どの道具にもトリセツあり

当初の発案者として、もう一段の工夫、知恵の出しどころだとは思います。

MasaoTaira via Getty Images

内閣人事局の創設が、官僚の総理(官邸)への忖度を招いたと批判されています。しかし、「道具」の使い方が悪いからといって、その「道具」そのものを否定するのは短絡というものでしょう。それはあたかも、「車」(道具)の交通事故死が多いからといって、「車」(道具)そのものまで否定してしまうのと同じです。

 内閣人事局は、霞が関の官僚人事を政治主導にすることを目的に、第二次安倍政権下の2014年5月に創設されました。ただ、その源流をたどってみれば、それは「橋本行革」と称された「中央省庁再編」(2001年4月~)にまで遡ります。組織管理の要諦は「カネと人事」を握ること。「カネ」は「経済財政諮問会議」を官邸に置くことで、当時、ある程度達成しましたが、「人事」の方は、官房長官主宰の「人事調整検討会議」を置くにとどまっていたのです。

 それまでの霞が関の人事は、ほぼ霞が関のお手盛り(予定調和人事)でした。そう「役所の役所による役所のための人事」。たまに、政治が人事に介入すると大ニュースになるほどでした。例えば、1993年12月の熊谷通産相(当時)による産業政策局長更迭人事が、その象徴です。大臣が事務次官確実と言われた局長を辞職させたのですが、当時は意図的な政治介入と批判されたものです。

 しかし、考えてみれば、民主主義国家においては、国民から選ばれた政治家、その代表たる内閣総理大臣が「行政のトップ」である以上、官僚の、特に幹部人事を総理(官邸)が決めるのは、ある意味、当たり前のことでしょう。官僚組織の民主的正当性もそこから生まれてきます。

 にもかかわらず、内閣人事局が設置される前の官僚人事は、霞が関の論理、平たく言うと、役所の組織防衛にたけ、その組織益(天下り等の権益)を拡大した人物が評価され出世するという、「国民不在」のものだったのです。それを改め、国民の代表(総理)が行政の人事を握るというのは、本来望ましい姿なのです。

 ただ、今回露呈した問題は、その内閣人事局を悪用し、それを国民本位の「能力実績主義」への適正評価ではなく、あえて、ある政治的な意図をもって、必要以上に役所の人事を壟断した点にあります。そう、その「使い方」が悪いのです。

 その代表例が、よくあげられるように、菅官房長官が総務相時代に、自らが発案した「ふるさと納税」に反対した官僚を、当時の総務相が事務次官候補にあげてきたものの、そのことをもって拒絶したという人事があげられます。こうした事例はこれだけにとどまらず、安倍政権下でかなり頻繁に起こるので、官僚の必要以上の官邸への忖度が行われるようになったことは否定できません。

 公務員の評価が、役所内の「組織防衛」の論理などは論外としても、それが、時の政権の「好き嫌い」「私怨」「従順さ」「イエスマンか否か」等々の基準で決められるのでは、今後も「霞が関の劣化」が一層進んでいくことでしょう。「国民本位の能力実績主義」という内閣人事局の取扱説明書(仕様書)に沿った使い方をしていくべきなのです。

 そこをどう担保するか? 当初の発案者として、もう一段の工夫、知恵の出しどころだとは思いますので、「内閣人事局」制度の見直し自体は否定しません。が、以上の制度の趣旨をよく理解していただいた上で、その「根幹」は是非、維持していただきたいと考えています。

 民主主義国家では、こうした公務員人事のあり様、運用の仕方も含めて、最終的には国民の審判(選挙)に委ねるというのが基本なのです。

(2018年3月24日今週の直言より転載)

 
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