「35歳問題」というものがあるという。その頃になると、「あの時ああしていれば、今どうなっていただろうか」と自分の来し方を振り返り、「いま、ここ」の偶有性と一回性に怖れおののくことがある。「ここだ」と信じて穴を掘り、ひとつ確実に水脈にたどり着いた人もいれば、あちこち小さな穴だらけで何も出ていないと感じる人もいるかもしれない。人生はそんな分岐にあふれているが、特に20歳前後はpoint of no return、過ぎ去ってしまうと二度と戻れない(文字どおり)有難い時期である。
大学一年生にとって、身近にいる同じ学部の先輩やバイト先の店長を「ロールモデル」にする場合が少なくない。新潟県立大学では、「首都圏の大学に比べても遜色ないように、社会の第一線で活躍する方々に学生達が直接触れる場を積極的に提供することが必要であると考えてい」(若杉隆平「学長室だより」2017年9月)るが、「いま、ここ」の「先」や「外」をあらかじめ思い描きながら、各自、「井戸掘り」に取り組んでもらいたい。「ここ掘れワンワン」はいない。自分の内側から湧き上がってくる声(inner urge)に耳を傾けるしかない。
今回、35歳の田村優輝氏(外務省総合外交政策局人権人道課兼人権条約履行室首席事務官)を国際地域学部一年生向けの「政治学入門」に再びお招きし、2018年1月10日に特別講義を開催した。その全容をお届けする。なお、以下に記される田村氏の発言は個人的見解を示すものであり、日本政府の公式見解を反映するものではない。(文責:浅羽)
田村優輝「新しい「ことば」の学び方―「一身にして二生を経る」時代を生き抜くために」
浅羽 「政治学入門」の特別講義を開催します。外務省から畏友の田村優輝さんにお越しいただきました。田村さんからは「新しい『ことば』の学び方~『一身にして二生を経る』時代を生き抜くために~」というテーマでお話いただきます。
田村さんのご紹介ですが、学生のみなさんは昨年度の講義録(「ローコンテクスト社会で<通訳する>ということ――新潟県立大学「政治学入門」授業公開」)を読んでくれているはずですので、重なる部分は割愛して、違う観点からご紹介したいと思います。
田村さんは2005年4月に外務省に入省しました。今年度でキャリア13年目ですが、7つの異なるポストを経ています。最初、北米局日米安全保障条約課で2年間勤務したのち、イギリスのケンブリッジ大学で研修し、修士号を取得しています。2009年から2年間は、アフリカのガーナにある日本大使館で二等書記官として勤務しました。2011年に帰国し、外務本省の総合外交政策局海上安全保障政策室で、最初は外務事務官として、のちに昇進して課長補佐として勤務しました。2013年から15年までは大臣官房総務課という別のポストで課長補佐をしました。その頃から、通訳担当官として総理や外務大臣の英語の通訳も行っていて、2017年まで続けたと伺っています。2015年から17年までは、アジア大洋州局地域政策課で同じく課長補佐として勤務しました。2017年7月からは、現在の所属である総合外交政策局人権人道課兼人権条約履行室に移り、昇進して首席事務官として働いています。首席事務官というのは外務省だけの独特のポストで、課長の前の筆頭課長補佐に該当します。
このように田村さんは13年間で7つの異なるポスト、3つの異なる職位を経ています。今後もおそらく2年から3年に一回の頻度で、新しいポストに就き、そのつどアサインメント、割り当てられる職務や責任が変わっていくことになります。
私たちが生きている時代は、2年から3年で変わるかどうかはともかくして、今いる場所にずっと留まるわけではありません。そのたびに、英語であったり、政治学であったり、新しい「ことば」、新しいゲームのプレイの仕方を身につけ、振る舞っていくタフさが求められています。そういう世界の最先端でお仕事されているお話を伺いながら、私たち自身が生きていくうえでヒントを得たいと考えています。みなさん、奮って参加するとともに、田村さんをもう一度拍手で迎えたいと思います。
■「幕末」から「明治」へ
田村 みなさん、こんにちは。外務省の田村と申します。今日はどうぞよろしくお願いいたします。
私がみなさんにお話するのは、「新しい『ことば』の学び方」というテーマです。「ことば」というと、日本語とか英語とか中国語とか、ある言語のことだと思いがちです。しかし、今回、わざわざ平仮名表記でカギ括弧付きの「ことば」になっているのには意味があります。これはそういう一般的な意味の言語だけではなく、みなさんが今後、大学を卒業し、就職して、新潟であれ別のところであれ、新しい人生をどのように歩んでいくのかということと関係しています。新しい世界で必ず出くわすことになる新しい「ことば」をどのように身につけていくのかについて、私自身の経験も踏まえながら、何かヒントになるようなお話をさせていただきたいと思います。
最初にクイズをしてみます。
この人は誰でしょうか。ちょんまげ姿の武士ですね。ピンとくる人はいますか。これだけだとさすがに難しいでしょうか。では別の写真を見てみましょう。この人物は数年後にこの写真を撮られました。ハズれてもいいので誰か手を上げてみてください。
(学生の一人が「福澤諭吉」と答える)
正解。よくできました。こういうところで手を上げるのはとても難しいのですが、勇気を奮って手を上げ、しかも正解にたどり着きました。すばらしいと思います。
今年は「明治150周年」ですので、いろいろ話題になると思いますが、福澤諭吉は一万円札の人ということで一般的によく知られている人物です。しかし、実は、福澤諭吉は激動の時代に非常に多様なキャリアを生きた人としても有名なんです。
福澤諭吉は1835年に生まれました。大政奉還、明治維新が1867年、68年ですから、彼が生まれたのは江戸時代末期、まだ幕藩体制の頃でした。彼は、今でいう大分県に位置する中津藩で、比較的裕福な藩士、侍の子どもとして生まれました。福澤諭吉の最初のキャリアは蘭学者でした。日本史の授業で習ったと思いますが、蘭学はオランダの学問です。鎖国の時代に学べた唯一の西洋の学問が蘭学だったことは、みなさんも覚えているでしょう。
17世紀の江戸幕府は、キリスト教が日本に入ってくることを警戒して、西洋との交易を長崎の出島に集約し、そこから外に出ないようにしていました。出島を今でいう特区にして、その中であれば、オランダの学問や言葉を使ってよいという特別なルールを敷いていたんです。幕府は、武士の中から、あなたはオランダ語を学んでいいという人を「オランダ通詞」、今でいう通訳として特別に指名していました。
福澤諭吉はもともと学問の素養がある人で、特に中国の古典に優れていたのですが、当時の侍にとって最先端であった蘭学にも通じていました。そこでわざわざ長崎に行ったり、大坂の適塾に行ったりして学んでいました。しかし、そのとき大きな時代の転換が起こります。
日本史の教科書で読んだと思いますが、黒船の来襲によって、日本は否応なく19世紀の帝国主義の荒波の中に巻き込まれています。そうした中で、アメリカやイギリスといった国が「開港しろ」と迫ってきます。ここ新潟も、最初に開港した五港のひとつだということはみなさんも知っているはずです。
そこで福澤諭吉が気づいたのは、「あれ、オランダ語ってちっともメジャーではない」ということでした。今まで唯一学べた海外の言語だったオランダ語が、世界の中では超マイナーな言語だったということに気づいてしまったんですね。
江戸幕府がオランダ語だけを特別に許可していたのは、鎖国することを決めた17世紀前半の頃は、オランダが世界帝国として力を持っていた時代だったからです。現在ではチューリップとサッカーのイメージが強いかもしれませんが、オランダは当時、西ヨーロッパだけでなく、世界的に交易をがっちり握り、相当の富を持っていた国だったわけです。しかし日本が鎖国を続ける間にも、世界は動いていました。オランダはイギリスとの間の戦争に負け、欧州の中流国になり、そのイギリスが世界帝国として台頭しフランスとしのぎを削る中で、19世紀後半は、英語やフランス語ができないとお話にならない時代になっていました。
明治時代になっていきなり文明開化した、というイメージを持つ人もいるかもしれませんが、実は江戸末期、14代将軍の家持や15代将軍の慶喜の時代は、江戸幕府も自ら「変わらないといけない」と認識するようになっていました。そこで海外のものを積極的に取り入れようと、当時の侍たちで、今でいう外交官にあたる遣欧・遣米使節団を結成し、アメリカやイギリス、フランスに派遣しました。福澤諭吉はその一員に入り込み、アメリカやイギリスの最先端の学問に触れ、強い感銘を受けます。
その後日本に戻った福澤諭吉は、江戸幕府が倒れ明治政府ができたとき、あえて明治政府には入らず、自ら慶應義塾という教育機関を設けました。福澤諭吉はそれまでオランダ語をやってきたので、オランダ語にしがみつきたいという気持ちを持ったとしてもおかしくありません。しかし福澤諭吉は、これからは英語の時代であり、慶應義塾では英語で学問をやると考えたようです。そのあとの話はみなさんもよくご存知でしょう。『学問のすゝめ』や『文明論之概略』など様々な著作を残しました。
今回の講義のサブタイトルになっている「一身にして二生を経る」という言葉は、その福澤諭吉が残したものです。『文明論之概略』から該当する箇所を引用し、書き下してみます。
≪最近の日本国内の洋学者、アメリカやイギリスはこんなふうになっていると話す人は、以前は漢学者だった。中国の古典に親しんで、どう解釈するのかを考えていた人たちで、そうでなかった洋学者はいない(「方今我国の洋学者流、其前年は悉皆漢書生ならざるはなし」)。それは、まるで一つの身体が二つの人生を生きているようだ(「恰も一身にして二生を経るが如く一人にして両身あるが如し」)。≫
これは激動の時代を生きた福澤諭吉の偽らざる心情だったと思います。
さて、ここまではイントロなのですが、なぜ私はこの話をしたのでしょうか。それは、今、そしてこれから生きる時代も、福澤諭吉が生きた時代に負けず劣らず激動の時代だからです。そうした中でどう生き、そして新しい「ことば」を学んでいくのか、何かヒントを得ていただきたいと思っています。つまり、狭義の意味、「言語」という意味でいった場合、外国語をどのように習得するか、そしてより広い意味で、新しい分野でどのように「ことば」を自分の血肉にするのか、についてです。【次ページにつづく】
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