「青春のアフター」読了

 今日も今日とてツイッターでだらだらしながら、ときどきはなんか作品について語ったりしながら居心地よく過ごしていたところ、タイムラインにとつぜん爆弾が投げ込まれました。

「青春のアフター」という作品なんですけども。

 以下、ネタバレが致命的な作品ですので、未読の方はアマゾンなりどこなり行って、絵がかわいいと、そんで胃がギリギリするような感じで女の子かわいいのすごい好きだよぉもう死にたいよぉと思うタイプの人なら買って損はないと思います。

 以下感想です。あ、ネタバレですネタバレ。言うの忘れててあわてて追記したわ。

 

 まあすでに読んだ方なら、そりゃ爆弾ですわなーと思うような作品でしょう。実際タイムラインでも知ってる人は多かった。

 そんでまあ、いま番外編的なものも含めて読み終わったところなんですが、後半ちょっと速度を上げすぎて時系列的なものとか、オチの意味とかわかりづらくなっちゃったんですが、まあとりあえず現状での感想です。

 まずおもしろいかおもしろくないかという点でいうと、単純におもしろいです。そのおもしろさは人を選びますが、力のある作品であることはまちがいないです。

 あーんー、読んだ直後なんでさすがにまとまらねえなあ。

 ぱっと読んだ限り、最初のほうで思い出したのは、初期の星里もちるなんかなんですよね。「わずかいっちょまえ」とかのころの。俺はああいう人種のことを個人的に「病人」と呼んでます。どういう病気かというと「女の子をかわいく描くこと」にすべての支点が置かれてるタイプ。この作品でも2巻あたりまではその傾向が濃厚で、すべてのエピソードがさくらをかわいく描くことと直結してるんです。あとこのへんの病人の傾向として「すべてのコマがかわいい」というのが挙げられます。特にパジャマ。あれ頭おかしい。完全に病人の仕事ですわ。

 かわいいというだけなら罪はないんですけども、このへんの国の人たちってひっでえ妄想体質なんですよ。そして妄想も限界を越すとリアリティを持ち始める。つまり「この女の子を成立させるためにはちゃんとした世界を与えてやらなければならない」ということになる。しかし妄想に由来してることは、さくらのために主人公が残した10年日記なんかのあたりであきらかで、あれはもう「もしこういう状況があったら俺ならこうする」っていうことを、何千回となく考えた人間が行き着くひとつの結晶だと思うわけです。

 ただ3巻あたりからかなり雲行きが怪しくなってきた。この場合の怪しさは「おもしろくなくなる」ということではないです。

 もともと最初から「これちゃんとハンドリングできんのかなあ」って不安ではあったんですよね。これそもそもがめんどくさい人間関係じゃないですか。もし「この状況」に対してきちんとした解答、結末を与えるのだとしたら、相当にめんどくさい人間のドラマを最後まで描写しきらなきゃいけない。正直、完全にさくらのために存在してる作品だと思えたんで、やばいかなーとは思ったんですよ。

 ただまあ途中で、主人公にとってのさくらという存在が「16年間の妄執の結晶」みたいなものであると明かされてたんで、結論はもう出てるなーとは思ったんですよ。

 ちょっと話逸れるんですけどいいですかね。

 俺、作品には「その渦中」に作られたものと「その後」から作られた作品があると思ってるんです。もうちょい説明すると「まさにそのテーマのなかを、作ってる最中に作者が生きているかどうか」ということで、ふつう、その渦中にいるときは作者はエンドマークを打てない。ただ、ごくまれに、エンドマークとか無関係にどこかに飛翔してしまう異常な作品があって、俺が思うに「AIR」ってのはそういう作品だったと思うんです。よく茶化す文脈で「文学」なんて表現されますけど、仮に文学というものが「文章という媒体をもちいてここではない場所に飛翔するための道具」であると定義するなら、あれはまさしく文学だったと思うんです。さらに余談ながらつけくわえると、俺ガイルみたいな作品が半分文学に踏み込んでたと思います。

 んで「その後」っていうのは、その嵐の時期が過ぎ去って、振り返った視点から俯瞰されて語られる作品です。

 でまあ、この作品は完全に「その後」から作られた作品なんですよね。なのでまあ、ある程度は安心して読んでたってのはあります。

 ただ驚いたのは、その妄執の物量のすさまじさですね。作中でもっとも印象的なシーンのひとつは、まさにその「脳内だけに存在しているさくら」のあたりで、あれはもう圧巻というしかないです。多かれ少なかれそういうのを抱いている人は多いでしょうが、この作品では、それにかたちを与えてしまった。ゆえに、必然的にその妄執と主人公との戦い、という展開になるわけなんですが、あー主題はこっちだったかと。

 読む前に、まあKindleで買ったんで、2行か3行程度の作品紹介だけは読んだんですけど、それ見る限り、泥沼にしかならんだろうなと。それから「あーでも泥沼にしちゃったら、タイムスリップした女の子は必然的に弱い立場に置かれるから、主人公が見捨てるにせよ味方するにせよ、作中のパワーバランスは崩れるから、これお話にはならなんな」っていうふうに思い直したんですね。

 んで実際、泥沼化はさせてなかった。そりゃそうです。この作品の根幹は、作者の妄執そのものなので。妄執に人間ドラマは入らないのです。もちろん妄執そのものでは作品にならない。ちゃんと作品としての構造は与えてあります。しかし作者の妄執の物量がすさまじすぎて、ガウディの建築みたいなことになってる。ちゃんと地面に建ってるし、まあ入口があって部屋がある。何階建てかにもなってる。でもこれ全体として見ればあきらかにおかしいよね、と。

 俺が圧倒的に「これは異常だ」と感じたのは、最終盤あたりのさくらと主人公の二人だけの生活ですね。あーいや、異常ではないのかな。異常なんですけど。どっちだよ。

 すっげー古い話で恐縮なんですけども、俺が好きなアニメのひとつに「ポポロクロイス物語」というのがありまして、ヒュウっていう基本的に自分のことしか考えてないわがままな女の子が出てくるんですよね。大好き♡なんですけど。でまあ、話の内容はさておき、そのヒュウが好意を持ってるピエトロと、なかば強引におままごとみたいな生活を始めるんですよ。いつかはかならず崩壊するとわかっているような。俺はああいう概念を「楽園」と読んでます。「この世界」という外圧からのエアポケットみたいな場所。閉じた逃避空間。俺はこの概念が大好きで、たとえばハルカナソラなんて作品の最後のほうでの穹とのエロシーンなんかにそれがよく表現されてると思うんです(まあそれだけにあっさり社会性を持っちゃったあたりは不満点なんですけど。余談です)。

 この作品における、あの二人だけの生活は俺の考えている「楽園」の概念に実にしっくり来る。ただしこの作品、もう「その後」から描かれてる作品なんで、楽園はかならず崩壊する。

 でまあ、あのラストということになるわけなんですが、実は最後のシーンで、さくらがひとりで弁当食ってるあたり。あのへんの正確な意味を読み取れてないんで、そのへんまだちょっと保留。あと3回くらい読まないとだめな感じ。

 ただこれなー、ほんとに「その後」かっていうとけっこう怪しいところで、主人公は決してみい子を主体的に選択したわけではないと思うんですよ。俺のいう「楽園」を描写する作品は、別の側面では「描かれた」というその時点で祈りでもあり、また鎮魂歌でもあるわけです。鎮魂歌である以上は、魂はまだそのへんうろついて荒ぶってますからね。だからこその、この桁外れの作品のパワーというものがあるわけで。

 なんていうのか、こういうのは「叫び声の大きさ」といってもいいかもしれない。充分にコントロールされた悲鳴は、たぶん音楽です。同時に悲鳴でもある。たとえば竹ゆゆ先生が執拗に片想いの描写を繰り返すように。あれは高度にコントロールされた悲鳴なんです。

 たぶんこういう作品に対してできることは、批評や論評ではない。俺がこうやって感想を書いてるのも、よりよく内容を理解するためとか、紹介するためとかそういうわけではなく、自分の読書体験に外枠を与えてやって「あのへんの場所」と落ち着けてやるためだと思います。そうでもしてやらなければ自分が侵食される。つくづく二十代とかにこの作品を読まなくてよかったと思った。

 前にどこかで、ある作品に魂ごと砕かれるような、そんな読書体験を「嵐の夜」と表現した文章を読んだことがあるんですよ。どこだったかな、あれ。この作品は、だれかにとっての嵐の夜を引き起こすような、そういうタイプの作品だと思います。俺にとってのそれが「AIR」であったように。

 

 あと思いつくことをちらほらと。

 この作者の病人性を感じさせる部分っていろいろあって、それ逐一書いていきたい気分もあるんですけど、ちょっと時間がないのでやりません。思い出すところだけ。

 ひとまず、過去にタイムスリップしたときの主人公のエロシーンを目撃しちゃったあとのさくらの描写ですね。あれを受け入れたうえで「嫌いになれない」と言わせるところ。あの業の深さはちょっと鳥肌たちました。俺はこういうのを「女の子は醜いほどかわいい教」と呼んでおります。俺もその宗教の末席を汚しております。あれをあの表情で、あんなふうに描写するあたりがもう。ものすごい妄執の量ですよね。

 あとは……そうだなあ、いろいろあった気がするんですけど、とにかく総量がやばくてちょっと思いつかないです。いずれ読み直す作品だと思うんで、そのときにでもまた感想書くと思います。