女性は、自分に呪文のように言い聞かせていることがあった。
「子どもたちを避難前より不幸にしてはいけない」。
自分のせいで不幸にしてしまったのではないか、という負い目があった。子どもたちには「自分の好きな道を追い求めるように」と言い聞かせた。
子どもの学費のため、「息子の分」「娘の分」と通帳をつくった。住民票を東京に移した。奨学金を使えないかどうかも考えた。東京都育英資金は親以外に第二連帯保証人が必要でダメだった。日本学生支援機構の奨学金は、離れて暮らす夫の収入のために世帯収入限度を超えてしまい、こちらもダメだった。
収入の他に、精神的なつらさもあった。
避難指示区域以外からの避難者は「自主避難者」と呼ばれ、「勝手に逃げてきた」という扱いを受ける。放射能の脅威を誇張していると揶揄する、「放射“脳”」という言葉も投げかけられた。特に、事故後も自宅に住み続けている福島県民からのインターネット上の批判が激しかった。
女性は、批判を受けるたびに、「安心と思っていないと住み続けていられないという気持ちもわかる」と、悲しく思った。残るも地獄、避難するも地獄。原発事故さえなければ、みんな一緒に暮らせていたはずなのに。つらく、苦しかった。女性は、なるべく「避難者」という言葉を使わないようにし、近所づきあいを避けてきた。一人っ子で、周りに相談相手もいなかった。
2015年6月、ついに福島県が住宅提供を打ち切ると発表した。「除染が進み、生活環境が整ってきている」という判断だった。対象は1万2000世帯以上に及んだ。
いつまでもお世話になるわけにいかないのはわかっている。
そう覚悟していた女性にも影響は大きかった。
夏ごろ、女性は突然左手がしびれ、左半身が言うことを聞かなくなった。病院に行くと心因性ジストニアと診断され、抗うつ剤を処方された。ストレスなどが原因で体の一部にまひや硬直が出る病気だ。以来、家事をするにも3倍の時間がかかるようになった。
2016年になって、息子が大学に進学し、家を出て下宿に入った。費用は学資保険と女性の実の両親の支援、貯金で賄った。
この間、女性の支えになったのは福島県の実父と実母だった。
当初は実父も、「福島の伝統校に行かせるべきだ」と、孫である息子を避難させることに反対していたが、置かれた状況の困難さを訴えると理解してくれ、夫のことを「ははは、そんなやつ」と笑い飛ばし励ましてくれるようになった。
だが、実母が2016年に亡くなった。娘の大学入学が控えている中で、女性の心因性ジストニアの症状は深刻になり、手の強張りが頻繁に出るようになって働けなくなってしまった。
ますます誰とも話さない日々になった。たまに娘と好きな「勇者ヨシヒコ」シリーズ「スーパーサラリーマン左江内氏」などのテレビドラマを見て俳優について語り合うのが気晴らしになった。
避難者からの要望があり、公営住宅によっては、そのまま有償で一定期間、住み続ける事が出来る仕組みができた。しかし条件がそれぞれ設けられ、女性が避難していた雇用促進住宅に入居を続けるためには、「申請者の収入が家賃・共益費の3倍以上あること」という避難者の立場として厳しい条件があった。雇用促進住宅は働く人のための公営住宅で、「3倍」という収入基準は平常時の入居条件と同じだった。
療養中となった女性には、収入がない。家賃は共益費込みで6万3000円。この3倍の収入は18万9000円になる。住み続けられないのでは……、子どもを大学に通わせられなくなるのでは……と、女性は大きな不安に陥った。
同時に使えるはずの福島県の家賃補助(1年目は月3万円、2年目は月2万円)については、「低所得世帯であること」という、雇用促進住宅の入居条件とは相反する条件がつけられた。つまり、申請者である女性個人に家賃・共益費の3倍以上の収入がなければ住み続けることができず、補助は女性と夫の収入を合わせて低所得世帯と認定されなければ受けられない。
住宅の確保を講じる役割の復興庁が調整せず、こうした矛盾のしわ寄せが避難者に行った格好だ。
女性が2人分の大学の授業料を自分一人で賄うと、2年で貯金が尽きる。現在の住宅に住み続けられなくなると、引っ越し費用も家賃もかかる。悩んだ末、2016年末に、避難者の相談を受けていた支援団体の男性に助けを求めた。