原発事故で避難した人たちの生活が困窮している。特にやむなく自主避難に至った人たちの生活は苦しく、2017年に住宅提供を打ち切られた今、未来への不安と孤独にさいなまれ自死した母子避難者の母親まで現われた。
事故から立ち直っていく人たちがいる一方で、助けを求める人たちが声をあげられなくなっている。こうしたメディアが報じない「不都合な真実」を、若手女性ジャーナリストで『地図から消される街』の著者・青木美希氏が描く。
2018年1月10日、筆者は神奈川県の公園を訪れた。風が緑地を吹き抜け、ササや下草を揺らす。サクラやタケなど多種多様な木々が茂る雑木林。ドングリや落ち葉の中で、二股に分かれ、遊歩道を覆うように空に伸びるコナラが茶色の木肌をさらす。
54歳になる一人の母親が2017年5月、この木に洗濯物用ロープをかけ、首を吊った。子どもたちと福島県から東京に避難していた。
彼女は、2つ3つと仕事を掛け持ちし、必死に子供の学費を捻出した。しかし心身共に追い詰められてしまった。どのように支援が打ち切られてきたか、どう絶望していったかを克明に書き残している。学費の悩みが多く残されており、なにより住む場所に困っていた。
震災から7年。事態は深刻化している。
立ち直っていく人が増える一方で、支援が次々打ち切られるなかに取り残される人が孤立している。震災関連自殺は2016年の21人から17年には25人に増加した(2018年3月12日時点)。
特に県外避難者の生活は苦しく、福島県の調査では避難指示などが出た1万人以上がうつ病や不安障害の傾向が高いと推計され、特に県外避難者は9.7%と、全国平均の3倍以上の割合だった。世間の無関心のため、助けを求める人たちが声を上げられなくなったことが背景の一つにある。
首を吊ったこの女性は、震災前は夫と中学生の長男、小学生長女の4人で一軒家で暮らしていた。カレーや肉じゃが、手料理が得意で、子どもたちを励ますときにはチーズハンバーグをつくった。たまに家族旅行に行くのが楽しみだった。
「あの日」までは普通だった。
一家が住んでいた福島県郡山市は、原発事故で線量が上がった。放射線量は2011年4月1日午前0時時点で郡山合同庁舎東側入口が2.52マイクロシーベルト毎時。平常時(0.04~0.06マイクロシーベルト毎時)の40~60倍だった。
女性が線量計を借りて測った。学校の近くは1マイクロシーベルト毎時あった。国が年1ミリシーベルトとする0.23マイクロ毎時の4倍だ。
政府は4月19日になって、「年20ミリシーベルト」という、福島県内の小中学校や幼稚園などの暫定的な利用基準を公表した。どうして平常時の20倍なのかと、県民や有識者から批判が相次いだ。
内閣官房参与の小佐古敏荘・東京大学大学院教授は、4月29日に記者会見を開き、「とんでもなく高い数値であり、容認したら私の学者生命は終わり。自分の子どもをそんな目に遭わせるのは絶対に嫌だ」と涙を流しながら訴え、辞任した。