What do libertarians and pedophiles have in common?
Posted by Joseph Heath on April 22, 2014 | political philosophy
答え:インターネット登場前には、こんなに沢山いると誰も知らなった。
オーケー。このなぞなぞは、読者の注意を引くために即興で創り上げたちょっとしたジョークだ。このジョーク、今回の議論の調子を伝えるためにをやらかさせてもらった。要は、今回の議論、リバタリアニズムの批判を行うが、教義や主義そのものに言及しない感じの批判になっている。はっきり言ってしまえば、理性より感情に訴えたリバタリアニズム批判をやってみたい。もっと正確に言わせてもらうなら、リバタリアンの典型例の観察を行うことで、リバタリアニズムを間接的に批判したいわけだ。
この批判を達成するために、新しいコンセプトを紹介したい。ぶっちゃけるに、『自制心(セルフ・コントロール)貴族』と私が呼んでいる特定集団の人々について話したい。
この考えは非常にシンプルだ。一部の人は、他の人達よりも「自制心」に優れているのである。私の例を挙げてみたい。私は妻を心から愛しているのだが、時に妻は私を恐怖の存底に叩き込むことになる。数か月前のことだ。妻は、市販の統計分析ソフトに料金を支払うのが嫌になったので、代わりにオープンソースソフトウェアのRを学ぶことを決心した。妻は、いくつかの無料のオンラインのコースに申し込み、それから毎日、仕事後の晩に、Rのプログラミングの細かい仕様を講師が解説するチュートリアルビデオの視聴に1時間ほど費やすようになった。妻は、多量の問題一式に取り掛かり、月末にはそれを基本的にマスターしてしまった。
私を畏怖させたもの、それは妻の「自制心」の行使量である。仕事場での長い1日を終えてから帰宅し、それから統計ソフトのプログラミングの自習に1時間費やすのである。こんなことをするのは、私には到底無理だ。端的に私には妻のような凄い自制心がないからである。ただこう言っておいて何だが、私も平均的な人よりは強い自制心を持っているはずなのだ。何せ、私は大変な労力を割いて本を書いており、完成に至るまでの何年もの忍耐力を必要としている。
なので、妻と私は共に自制心の行使に関しては、人口の上位10%の帰属にある、とおそらく断言できる。この上位10%に帰属する集団のことを、私は『自制心貴族』と呼んでいる。この貴族クラブメンバーであることは、社会において巨大な便益を得ることになっている――有名な「マシュマロ・テスト1 」によっても示されているが。この巨大な便益は、「自制心」が、社会の諸領域に普遍的に適応する非常に安定的な個人性質として発現することに由来している。(例えば、妻と私は、25年以上もクレジットカードを、限度額未満の金額しか使用したことがない。)我々の社会において、「自制心」は、その能力の保持者に、単に富を与える以上に、多くの実利をもたらしているだろう―ー自制心は、人生の非常に多くの領域(健康、教育、ダイエット、財テク、人間関係、キャリア開発、犯罪の自己抑止、等々…)で利点をもたらすからである。
博士課程を修了した大抵の人は、この自制心では最高水準にある。大学に留まり続けることは、[人生における]満足感を延期するための強い忍耐力を必要とするからだ。人文科学のようにあまり形式化されていない分野の博士号を持っている人は、確実にこの自制心を持っている。
(学部の院生が博士課程入学認定試験に合格した後、私はいつも彼らに「ほの暗い下宿に今すぐに戻るのだ! そして二年後に自著を抱えて帰還したまえ!」と声掛けしている。冗談のようだが、あながち冗談ではない。哲学の博士論文執筆には基本的に総計でこのくらいはかかるのだ。もちろん、博士課程従事のような種類の仕事は、皆に適性があるわけではない。ただ、博士過程を完遂できないとすれば、それは「知性の欠如」によるものではない、ただ「自制心の欠如」によってのみ起こりうるのである。)
自身が『自制心貴族』の一員であることを自覚しているが故であるが、社会における「個人の自由」に関する諸問題について考える際には、ある種の特権階級の話だと想定するとピンとくるのである。私は非常に強い「自制心能力」を持っているので、「個人の自由」領域の拡張によって、平均的な人よりも、非常に多くの便益を得る立場にある。なので、24時間営業の酒屋は、私にとっては素晴らしいが、他の人にとっては良し悪しがあることを、私的には認識している。また、私は新しいTFSA2 プログラムについて熱心な関心を寄せているが、その関心が一般的に共有されていないことも認識している――TFSAの主な便益は、富裕層ではなく、『自制心貴族』に流れ込むからだ。
ここまでの話が、[意識高い系]リバタリアニズムとどう関係するかだって? (漫然かつ暗黙裡に、個人の自由を他の政治的権利より優先するような教義に基づいている)リバタリアニズムの学問的支持者達全ては、『自制心貴族』の一員であることが、重要な論点なのだ。現に、この手リバタリアニズムの支持者が推奨している政治概念は、他者よりも、自身に非常に広範に便益をもたらすものとなっている。それでいながら、ほとんどの事例で、彼らは自身がエリートであり社会の支配的なグループの一員であることで[自身の推奨政策から]偏って利益を得る立場にあることを認識していない。なので、彼らは非常に無邪気に自身の政治概念を推奨している。リバタリアン想定だと、「自由」は、全ての人に平等に便益を与えるものとなっている。(もしくは、リバタリアン想定では、「自由」の拡張が一部の人に便益を与えない場合は、その人が、十分な自制心の行使に失敗したことになっている。つまり完全なる自己責任である。)
経済学を背景に持つたぐいのリバタリアンは、この観点では最悪の傾向を示している。経済学者が方法論的過程として導出している「合理的エージェント」モデルは、絶対的に完全自制心によって明示化されたエージェントに寄っているからだ。(例えば、ミルトン・フリードマンの恒常所得仮説。この仮説では、銀行の貯蓄残高とか、信用限度がどのくらいなのかというような事象は、影響を与えないはずだと明示されている。そうだったらいいののだけどねぇ!)
結果的に、経済学の薫陶を受けた人がなんらかの政策問題について考えると、誰もが完全な自制心を持つことを前提条件にした概要分析をよく挙げることになる。このような観点だと、生活保護給付が月単位になっているような制度は、不思議に思えるかもしれない。なぜ生活保護給付を税制度に組み込むことで一元化しないのだろうか? とか、単に年度始めに一度だけ総額を高額給付しないのだろうか? とか不思議に思えるようである。
(現実世界に住んでいる人なら誰でも、この質問には容易に答えられるでしょう? しかしながら、確実にある種の経済学者――「合理的行為者」薬物を常時ラッパ飲みしている人――にとっては、答えは正真正銘の謎に思えるようである。)
生活保護の給付を単年度の一括支払いに変更することを、真剣に検討してる人はさすがにいない。しかしながら、確定給付型年金制度を、拠出ベースの年金制度や定期預金に置き換えるような事案は、人によっては検討している。そしてこういった事案の検討時に、(完全な自制心を前提条件に置いている)経済学者のバイアスは、深刻なまでに議論を歪めているように見える。
自制心の不平等な分配に注意を向けることを始めると、すぐにリバタリアニズムのある特徴が見いだされる。私は長年に渡って、リバタリアン達の、国家権力による単一ないし複合的な規範の押しつけへの批判や、個人の自由余地のさらなる拡大を目的とした国家権力の抑圧を縮小する要求を聞くことに、少なからず時間を浪費してきた。しかしながら、彼らの批判を聞いてきた長い年月全てにおいて、この手の[国家による規範や権力の]縮小によって自身が便益を得るのを想定していない事案を要求するリバタリアンにはついぞ出会ったことがない。
例えば、銃の所有権を擁護する類のリバタリアンは、銃を所有していたり、銃の所有を欲するような類の人である傾向がある。本物の原理主義的リバタリアンであるなら、銃所有の要求如何によらず所有権を擁護するだろうし、ことによると銃犯罪の犠牲者になる可能性が平均以上なろうとも所有権を擁護するはずだ。本物の原理主義的リバタリアンであることは、自己利益の促進のために単なる修辞的なカモフラージュとして「自由」という言葉を使用するのことにあるのではない。純粋な価値として「自由」を掲げることを意味しなければならないはずだ。
毎度の経済に関してだと、リバタリアンの議論は常に同じ趣をまとっている。例えば、公的保険制度を嫌うリバタリアンは、自前による民間の健康保険制度を自由に選択できるように望んでいる。しかしながら、この手の議論を行う類のリバタリアンは、常に民間の健康保険を既に購入してる類の人である。この手の事例は枚挙にいとまがない。
ここまでの見解を適切に表している優れた風刺がある(どこで見たまではちょっと思い出せないが、たしかニューヨーカーに掲載されていた風刺漫画だったはずだ)。風刺漫画ではマンハッタン在住の富裕層の女性が、貧しい人に対して不平を述べていた。
富裕層の女性曰く:
「貧乏な人がお金がないことについてしょっちゅう文句を言ってるのが、私には不思議なのよね。私なんて、まったくお金を使わないで何日も過ごすことがしょっちゅうあるのよ」
ここで、彼女の夫が突っ込んで言う:
「マイハニー。それはね、君の運転手が全て支払っているからだよ」
この話の教訓。それは人は一度十分なお金を所有してしまえば、それは見えなくなってしまうことにある。つまり、人は一度富裕になると、お金で困っている人の視点で世界を見る能力を失ってしまうのだ。「自制心」に関しても同じだ。『自制心貴族』のメンバーは、自身が「自制心」を多量に保持しているのを当然視している。その結果、彼らは「自制心」を欠いている人の視点で世界を見るのが非常に困難になっている。故に、彼らは多くの事例で、自身帰属の狭い社会階層だけに便益をもたらすであろう政治的概念の推奨に日々費やすことになる。しかしながら、それが自身の狭い社会階層だけに便益をもたらすものであることには、決して気が付かないのだ。
※訳者による補足・注釈文章は基本的に[]で囲っている。
コメントを残す