青春ゾンビ

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芝山努『ドラえもん のび太と夢幻三剣士』

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ドラえもん のび太と夢幻三剣士』(1994)という映画がある。決して出来のいい作品ではない。1980~90年代におけるドラえもん映画の黄金期と照らし合わせてみると、そのストーリーテリングには雲泥の差があると言っていい。おそらく今後もリメイクの対象になることはないだろう。原作者である藤子・F・不二雄も「失敗作」とはっきりと語っているほどで、作品は構成力に欠け、物語の細部の繋がりは曖昧だ。しかし、その不明瞭さが故、今でもカルテ的人気を呼び続けてもいる作品でもある。個人的にも妙に心惹かれるものがあって、折に触れて観返している。

現実の世界は、どうしてこんなにつらくきびしいのだろう・・・。

こんな、あまりにもブルージーなのび太の嘆きから物語は始まる。寝坊してはママに怒鳴られ、遅刻、宿題忘れで先生に叱られ、ジャイアンスネ夫にバカにされ、しずかちゃんには冷たくあしらわれる。「あまりにも情けない、せめて夢の中だけでもかっこいい自分でありたい」とのび太ドラえもんに泣きつく。なんとも後ろ向きな導入だろうか。血沸き肉躍る冒険を求めて、宇宙や魔法の世界に飛び出すのではなく、辛い現実に絶望したのび太が、「せめても・・・」と夢の世界へと没入していくのである。当然、ドラえもんのび太を諭す。

夢の世界に逃げたって
さめたらみじめになるだけだよ!
あぁ情けない・・・
もっと現実の世界でがんばらなくちゃダメだよ

実に辛辣だ。しかし、のび太の家出*1ドラえもんは考えを改め、「夢の世界で自信を取り戻せば、現実の世界でやる気になるかも」とのび太を自由気ままな夢の世界へと誘うのである。



ときに、タケコプター、どこでもドア、スモールライト、もしもボックス・・・ドラえもんがそのポケットから出すそれらは、いくらなんでも便利すぎやしないだろうか。あらゆる法則を無視したかのようなその利便性は、世界に大きな無理を強いているはず。であるから、均衡をとるようにして、ひみつ道具はバグを起こし、ときに”邪悪なもの”を世界に生み出していく。その関係性はディズニー映画のおける夢のようなイマジネーションの代償としてのヴィランズたちのあり方を想わせる。たとえば、『のび太魔界大冒険』(1984)での「もしもボックス」によって出現した大魔王デマオン、『のび太のパラレル西遊記』(1988)において「ヒーローマシン」から抜け出した牛魔王・・・そして、その系譜の最終形態が『のび太と夢幻三剣士』の「気ままに夢見る機」が生み出した妖霊大帝オドロームだ。ドラえもん映画シリーズの中において、その様相を含めて極めて凶悪なヴィラン。そんな困難な敵に対してのび太たちは、ある種の責任を負いながら挑んでいく様が、上記に上げた3本の映画をとても魅力的なものにしている。

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のび太と夢幻三剣士』の最大の特徴はやはりそのダークな色調と不明瞭さだろう。オドロームの攻撃により燃え尽きて塵になるという、のび太としずかの死の描写は今なお語りぐさだ。オドロームを生み出したのは、「気ままに夢見る機」に使用する特製カセット「夢幻三剣士」だ。このカセットの特徴は以下のように説明されている。

この夢は強いパワーをもっているので、あまり長時間みつづけると現実世界に影響することがあります。

このカセットはこれまでの夢とちがって”第二の現実”を創造する、画期的新製品であります。

つまり、このカセットにおける"夢"とはパラレルワールドもしくは別宇宙であり、それらは相互関係を持ってしまう。そして、おそろしいのが「気ままに夢見る機」に設置された"かくしボタン"だ。

ドラえもん:「かくしボタン」をおす!!
のび太:かくしボタン?
ドラえもん:つかわないつもりだったんだけどね。
      このボタンをおすと・・・・夢と現実とが入れかわるんだ。
      つまり、夢が現実の世界になって、
      今ここにこうしていることが夢になるんだ。

夢と現実がシームレスに入れかわることで、2つの境界は曖昧になり、その世界はいりまじっていく。のび太たちは夢宇宙でのオドロームとの闘いを決し、夢から覚めて、現実世界へと戻ってくる。しかし、翌朝のび太としずかが向かう学校の様相がすっかり異なっていることを示すショットで映画は終わる。
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実に不気味な印象を残すラストなのだが、この夢と現実がイコールになるかのようにいりまじった状態こそ、のび太が望んだものなのだ。のび太は映画の序盤にして、すでに夢と現実の区別が不明瞭である。

のび太:きみはしらないけど・・・、ゆうべはあぶないとこだったんだよ。
    それをぼくがたすけたんだよ。
しずか:なあに?人の顔みてニタニタして!
    変なのび太さん!
のび太:いいよ!そのうち本当のぼくの姿がわかるさ。

スネ夫:ハハハハ。のび太はおくびょうだなあ。
のび太:そっちこそ!
    ゆうべは青くなってふるえてたくせに。
ジャイアン:なにねぼけてんだよ
のび太:ほんとだぞ!!

誰もが自分と同じ夢を見ていると思っているどころか、夢と現実があきらかにごっちゃになっている。この世界の常識に当てはめれば、はっきり言ってほとんど狂人の様相だ。しかし、一つの冒険を終えた時、世界はのび太の望む方向に書き換えられている。前述の学校の描写はもちろんであるし、最後のしずかとの会話を抜粋したい。

のび太:惜しかったなぁ。もう少しでいいとこだったのに・・・・・。
しずか:おはよう、のび太さん。
のび太:あ、おはよう。
    ゆうべさ、しずかちゃんの夢みちゃった。
しずか:あたしも、のび太さんの夢みたわ。
のび太:え、どんな夢!?
しずか:それはないしょ!
    でも、のび太さんかっこよかったわよ。

のび太の世界からの"狂い"が改善されるでもなく、狂ったままに肯定されてしまうエンディングがあまりに感動的だ。そもそも『ドラえもん』というのは、のび太のダメさが改善されるような作品ではない。のび太という”わたしたち”を重ねずにはいられぬ少年が、あらゆる冒険を経ながらも、成長することなくダメなままに未完に終わったからこそ永遠に愛され続けているかもしれない。

*1:実際は裏山で気絶していただけ