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世界を変えた - 伝説の戦場カメラマン18人の代表作

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人々の意識と行動を変えた名写真

今やスマホで誰もが写真を撮影し、すぐにSNSにアップして数万・数十万の人に届く。写真を撮影し公表する「特権」は失われ誰もが表現者になれる時代です。

昔はそのような「時代を切り取る」仕事は写真家の仕事でした。新聞やテレビが大きな影響力を持っていた時代、彼ら戦場カメラマンの命がけの仕事によって人々の意識と行動が変わり社会を動かしていました。その写真は今でも我々の心を大きく揺さぶります。

 今回はそのような時代を動かした伝説の名写真をピックアップします。


1. 「崩れ落ちる兵士」 1936年 ロバート・キャパ(1913-1954)

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Credit: ©Robert Capa © International Center of Photography/Magnum Photos

真偽について議論もある有名すぎる写真 

ロバート・キャパはハンガリー出身の写真家で、フランス誌「ヴュ」やアメリカ誌「LIFE」を中心に活動しました。それまでの戦場カメラマンはある程度安全な場所から、俯瞰的に撮影するスタイルが主でしたが、キャパは実際に戦闘の最前線に突入していって、目の前の容赦ない緊迫した戦争の現場をレンズに収めていくスタイルで世界に衝撃を与えました。

 キャパの写真で最も有名なものが、スペイン内戦で共和軍側の兵士が撃たれて倒れる瞬間を描いたこの一枚。キャパが共和軍の兵士と共に塹壕から飛び出した瞬間、一緒にいた兵がフランコ軍の機関銃に撃たれ崩れ落ちる瞬間をレンズに収めました。

この写真は世界中に衝撃を与え、以降の戦争写真の概念すら変えてしまいました。

 1970年代になると、この写真は果たして本当に撃たれた瞬間を撮影したものなのかの疑問が提示され、これは実際には戦場の写真ではない自作自演のものであるという検証がなされました。この写真の真偽については様々な議論があり、「自作自演説」「戦場ではあるが死んだ瞬間ではなく転んでいるだけ説」、さらにはこれを撮影したのはキャパではなく恋人のゲルダ・タローであるという説もあります。

 

2.「日本軍の重慶空爆によるパニックで死傷した人々」カール・マイダンス (1907-2004)

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Credit:Casualties of a mass-panic during a Japanese air raid in Chongqing in 1941 – photo by Carl Mydans | © Carl Mydans/WikiCommons

日本軍による中国侵略を印象付けた写真

 カール・マイダンスは第二次世界大戦中の従軍カメラマンとして我々の記録に残る数多くの写真を撮影した代表的な戦場カメラマンです。

大学卒業後にカメラマンになり、中国大陸・太平洋戦線・欧州戦線を移動し戦場をカメラに収め続けました。1941年にはフィリピンで日本軍の捕虜になり、1年間の拘留を経験。釈放された後は欧州戦線を撮影した後、歴史的なマッカーサーのフィリピン再上陸の様子をカメラに収めることに成功しました。

 この写真は1938年から始まった日本軍による重慶爆撃を受けて市民がパニックになり、お互い押したり踏んだりして死亡した人の様子とされています。

日本軍による中国への侵略とそこで行われた残虐な行為は、アメリカの雑誌や新聞で数多く報道されていましたが、この写真はアメリカ人に中国への同情と日本への敵意を強く印象付けることになりました。

 

3.「ガンジーと糸車」 1932年 マーガレット・バーク=ホワイト(1904-1971)

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 インド独立の英雄ガンジーのイメージを形成した歴史的写真

「糸車」は人々がガンジーを想起する重要なアイコンとなっています。現在のインドの国旗にも糸車が描かれ、インドの国の成立そのものに大きな影響を与えています。このガンジーと糸車の写真を撮影したのが、アメリカの女性写真家でLIFE誌のカメラマン、マーガレット・バーク=ホワイト。

この写真は1932〜1933年にインドのプネにあるイエラブタ刑務所にガンジーが収監されていた時に撮影したもの。ガンジーは、インドがイギリス産の綿製品に支配されていることに抵抗し、インド人自身の手で綿製品を作りイギリスの経済独占を打破することを主張。そしてそれを彼自身が実践してみせたのでした。

この写真はしばらくは発表されませんでしたが、ガンジーが暗殺されて以降に急速に広まり、非暴力非服従の聖人的なイメージを併せもって広がっていったのでした。

 

4. 「USSホーネットの上を飛ぶSBC2C-3」 1945年 チャールズ・カーリー(1907-1981)

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 Credit :Lieutenant Commander Charles Kerlee, USNR. Sourse: Official U.S. Navy photo 80-G-469319 from the U.S. Navy Naval History and Heritage Command

現場に張り付いていないと取れない臨場感のある写真

戦場カメラマン、チャーリズ・カーリーはもともと映画業界の出身で、第二次世界大戦の勃発で従軍カメラマンとなり、もっとも成功した商業カメラマンとなりました。

彼は空母USSヨークタウン(CV-10)に乗り込み、海の男たちの様子をレンズに収め続け、太平洋戦争の終了まで撮影を続けました。

この写真はUSSホーネットの上を旋回する航空機から撮影したもの。その臨場感のある写真はまるで映画の一場面のようです。

 

5.「国会議事堂に翻るソ連旗」 1945年 エフゲニー・ハルデイ(1917-1997)

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 歴史的なソ連軍によるベルリン制圧の瞬間

ウクライナ出身でソ連軍従軍カメラマンであったエフゲニー・ハルデイは1945年5月2日にソ連軍兵士がベルリンの国会議事堂にソ連旗を翻す歴史的な瞬間を撮影。それは共産主義のファシズムに対する勝利のアイコンとなりました。

エフゲニー・ハルデイは4年間母国の戦争を相棒のライカに収め続け、とうとう戦争のクライマックスとして宿敵ナチスのお膝元であるベルリンに到着。5月2日の2日前にヒトラーは自殺をしていましたが、ドイツ軍の抵抗は未だ激しく、完全な制圧はできていな状態でした。エフゲニー・ハルデイは3人の兵士に呼びかけ、崩れたベルリンの国会議事堂に登って、ソ連旗を掲げるように指示。そうして撮影したのが、この有名な写真です。

 

6.「ナチ党行進の中のヒトラー」 1934年 ハイリンヒ・ホフマン(1885-1957) 

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ナチスの代表的プロパガンダ写真

ナチスのカメラマン、ハインリヒ・ホフマンは1920年にナチ党に加入し、ヒトラーに随行しナチスのプロパガンダのための写真を200万枚以上撮影しました。

荘厳で大げさな舞台演出は、ドイツ民族の復活とナチスの支配を象徴するもので、その世界観をホフマンやレニ・リーフェンシュータルといった若い芸術家たちが新たな感性のもとでメディア演出していきました。

この写真は1934年9月30日より始まったビュッケベルグ収穫祭の模様で、当時の熱狂が伝わってきます。

 

7. 「硫黄島の星条旗」 1945年 ジョー・ローゼンタール(1911-2006)

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 アメリカの勝利の象徴

1945年2月から始まった硫黄島の戦いで、 アメリカ軍が島南西の摺鉢山のてっぺんに立てた星条旗の写真はあまりにも有名です。

この写真は太平洋戦争最大の激戦となった硫黄島の戦いのみならず、アメリカ軍の太平洋戦争全体の勝利の象徴となるのですが、この写真は1ヶ月以上続いた戦いのほんの序盤に撮影されたものです。

戦闘序盤は島で一番高所の摺鉢山の攻防が繰り広げられ、頂上の側は星条旗と日章旗がコロコロ変わる激戦となったのですが、AP通信のジョー・ローゼンタールは5名の海兵たちと共に巨大なスピード・グラフィックカメラを担いで頂上に登り、星条旗の掲揚の一連の流れをカメラに収めました。

この写真はピューリツァー賞を受賞しただけでなく、郵便切手にもなったし、アメリカの海兵隊記念碑のモチーフにもなりました。

  

8. 「悲しみ」 1942年 ディミトリ・バルターマンツ(1912-1990)

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あまりにもショッキングなためしばらく隠された写真 

ウクライナ出身の写真家ディミトリ・バルターマンツは、大祖国戦争(独ソ戦)を中心に有名な写真を数多く残しました。

彼の代表作の一つが、1942年にクリミアで撮影されたこの写真。

2ヶ月ほどクリミアはナチスによって占領され、その際に支配下のユダヤ人、女性・老人・子どもが容赦なく殺害されました。遺族らが殺害現場を訪れた際に撮影されたのがこの一枚。この写真はあまりにもショッキングなため、しばらく公開が見送られていましたが、1960年代以降に大戦のメモリーとして公開され、世界中で反響となりました。

 

9.「勝利のキス」 1945年 アルフレッド・アイゼンスタット(1898-1995)

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 第二次世界大戦終了の喜びを表す象徴的な写真

LIFE誌のカメラマン、アルフレッド・アインセットは、日本が降伏し第二次世界大戦が終わったというニュースを聞き、ニューヨークのマンハッタンで喜びに沸く人々を撮影していました。

すると、目の前で歩いていた海兵が、たまたま目があった看護師の女性に背中を傾けてディープキスをした。

すかさず彼はこれをファインダーに収めました。

この写真は第二次世界大戦の終了と人々の喜び、そして新たな自由な世界の幕開けを予感させるエポックメイキングな写真となったのです。

 

10. 「戦争の恐怖」 1972年 ニック・ウト(1951-)

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 ベトナム戦争の残虐さを全世界に示した歴史的写真

ベトナム系アメリカ人でAP通信の写真家ニック・ウトは、サイゴン(現ホーチミン)から北西に約25マイル離れたトラン・バン村の外で取材していました。そのとき南ベトナム空軍が誤って村にナパーム弾を落としてしまった。

村から幹線道路へ村人たちが逃げ出してきて、その中には多数の子どもたちが混ざっており、中に裸の女の子も混じっていました。

ナパーム弾は極めて高温度で燃焼する兵器で、直接球に当たらなくても、その周辺にいる人は高温度で焼け出されます。この少女もあまりの高温度で服を投げ出し逃げてきました。ニック・ウトはそれに気づき、彼女の体に水をかけてあげました。しかし全身火傷をしており重症で、すぐに彼はアメリカ軍の病院に移し治療を施しました。

この写真はベトナム戦争がいかに民間人を巻き込んだ残虐なものであるか、そして南ベトナム軍が腐敗し規律のない軍隊であるかを世界に喧伝し、反戦運動の象徴になっていきました。

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11. 「リーチング・アウト」1966年 ラリー・バローズ(1926-1971) 

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 Credit: The LIFE Magazine Collection, 2005

構図やストーリーがよく練られたバローズの写真

イギリス出身の写真家ラリー・バローズは、LIFE誌の写真家としてコンゴ・レバノン・キプロス・イラクなど数多くの戦場で活動しましたが、もっとも有名なシリーズがベトナム戦争での作品。

この写真はベトナム戦争で展開されたプレイリー作戦の最中に、頭に包帯を巻いた海兵隊下士官が、地面に倒れている仲間に手を差し出す場面を撮影したものです。

バローズの写真は、豪胆に前線に突入して本能でチャンスを捕まえるものではなく、慎重に構図やシナリオを計画し、長期間の観察によって撮影された劇画チックなものです。そのため、一枚の写真を撮影するのに数日かかることもありました。直感的で本能的な作品ではありませんが、理性的に用意されたその写真は効果的で印象的なシーンを多く提供しました。

 

12. 「安全への逃避」  1965年 沢田教一(1936-1970) 

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 Credit: Corbis/沢田教一(UPI)

ピューリツァー賞を受賞した日本人カメラマンの代表作

ベトナム戦争では数多くの日本人の戦場カメラマンが活躍しました。「地雷を踏んだらサヨウナラ」で有名な一ノ瀬泰造のように、取材中に命を落とす者も数多くいました。「安全への逃避」を撮影した沢田教一もその一人です。

沢田は1961年にUPI通信東京支社に入社し、本人の強い希望でUPIの特派員としてベトナム入りし戦争の様子をカメラに収め続けました。

沢田の無鉄砲っぷりは有名で、アメリカ軍部隊を撮影するために地雷原に踏み込んだり、クメールルージュの捕虜になり釈放された翌日にまた撮影に及んだりと、死を恐れていないかのような撮影活動で数多くの傑作を撮影しました。

代表作「安全への逃避」は、ベトコン(南ベトナム解放民族戦線)側の村がアメリカ軍の爆撃を受けている時、村から逃げてきた女性たちが川を歩いて逃げてくる様子を撮影しました。この写真によって沢田はピューリツァー賞を受賞しました。

しかし1970年にカンボジアを取材中に強盗の襲撃にあい、金品を奪われ殺害されました。

 

13.「路上での処刑」 1968年 エディー・アダムス(1933-2004)

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   腐敗した南ベトナム政権を象徴する写真

AP通信の写真家エディー・アダムスは1968年2月1日、北ベトナム人民軍がテト攻撃を開始し、怒涛のように南下しベトナム各都市が陥落し焦燥と混乱に満ちていたサイゴン(現ホーチミン)の街を取材していました。

警察長官グエン・ゴック・ロアンは、街に紛れた共産側ゲリラであるベトコン(南ベトナム民族戦線)のゲリラを捕らえ、すぐさま38口径のピストルでその頭部を撃ち抜いた。

この時の行動を、グエン・ゴック・ロアンは「ためられば、義務を果たさなければ、奴らは決して従わないんだ」と述べ、武力で抑え込むことの正当性を主張しましたが、この写真は公開されるや世界中で反ベトナム戦争への反響を与え、南ベトナム政府が容疑者を裁判なく殺害する野蛮で腐敗した政府であるというイメージを広げました。

この写真をピューリツァー賞を受賞し、戦争の矛盾と残虐さを示す写真として永久に語り継がれる作品となりました。

 

14.「焼身自殺」1963年 マルコム・ブラウン(1931-2011)

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アメリカ政府の対ベトナム戦略すら変えてしまった写真

アメリカのAP通信社の写真家だったマルコム・ブラウンは、南ベトナムのゴ・ディン・ジェム大統領の仏教勢力への弾圧政策への一部世論の反発から、何かしら極端な抗議活動が行われるのではないかという予想をしていました。

1963年6月、仏教僧ティック・クアン・ドックはサイゴンのアメリカ大使館前で、支援者を前にしてガソリンを被って蓮華座のまま焼身自殺をしてみせ、世界中の度肝を抜きました。

マルコム・ブラウンはその決定的な写真を捕らえ、ティック・クアン・ドックは自殺を始めた数秒前から始め一部始終を撮影しました。

この写真はピューリツァー賞を獲得。アメリカ社会にゴ・ディン・ジェム政権の腐敗さを白日のもとに晒し、ケネディ大統領はゴ・ディン・ジェムとの関係を見直さざるを得なったのでした。

 

15.「英雄的ゲリラ」 1960年 アルベルト・コルダ(1928-2001)

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反権力・反帝国主義の象徴となったアイコニックな写真

1960年3月4日、キューバ政府の写真家アルベルト・コルダは、前日にハバナで起きたラ・クーブル号爆発事件を受け、カストロ議長への取材を行なっていました。

カストロはアメリカがこの事件を起こした犯人であると主張し、数十人の命が奪われたことを非難するのですが、この時共に壇上にいたチェ・ゲバラの姿をたまたまアルベルト・コルダは撮影していました。

この時には彼は特に有名な人物ではなく、キューバ政府の一重役であったのですが、ゲバラがボリビアで殺害されて以降、キューバ政府はこの時撮影された写真をプロパガンダに用いて、「革命の殉教者」として持ち上げたのでした。

この写真のカッコよさはすぐに広まり、ゲバラをモチーフとしたデザインは反帝国主義のイメージとしてすぐに広まり、同時にゲバラ自身も世界中で人気になっていきました。彼の人気の原点はこの写真にあったわけです。

 

16.「自由への跳躍」1961年 ペーター・ライビング(1941-2008) 

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 冷戦と東側諸国の圧政を象徴する写真

第二次世界大戦が終了すると、ドイツの首都ベルリンは米ソ英仏の連合国軍による分割統治を受けました。

東ベルリンはソ連、西ベルリンは米英仏により占領されていましたが、1949年から1961年にかけては東西ベルリンの行き来は比較的自由であったため、約250万人が東ドイツから西ベルリンに逃亡しました。これ以上の流出を防ぐべく、東ドイツのヴァルター・ウルブリヒトは1961年8月初旬から東ベルリンと西ベルリンを分ける壁の建設をスタートします。

建設当初は小さな有刺鉄線が張り巡らされているだけで、ジャンプすれば子供でも乗り越えられることができました。AP通信の写真家、ペーター・ライビングは近いうちに西側への逃亡事件が起きるだろうと予測し、有刺鉄線の付近に張り込んでいました。すると、8月15日に東ベルリンの国境警備兵コンラート・シューマンが有刺鉄線を乗り越えて西側に亡命。この瞬間を収めたライビングの写真は、冷戦構造そのものと、東側の圧政により西側への亡命を希望する人が多数いることを象徴するものとなりました。

 

17.「タリバンのロケットにより死んだ兄弟の葬い」 1996年  ジェームズ・ナクトウェイ(1948-)

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Photo from: "From ‘Inferno’ to ‘War’: A Few Considerations on James Nachtwey, VII, and War Photography (2004)" ASX

現代を代表する戦場カメラマン 

ジェームズ・ナクトウェイは独学で写真を学び、1976年から新聞社で写真を撮影した後、1980年にニューヨークに移住しフリーランスの写真家として働いています。

ナクトウェイは中米、アフリカ、中央アジア、中東など様々な紛争地帯に足を踏み入れて撮影を行なっており、National Geographic、Life、Time、ElPaís、L'Expressなどの多くの雑誌に作品が掲載されています。 

この印象的な写真は内戦の続くアフガニスタンで1996年に撮影されたもの。タリバンのロケットにより死んだ兄弟を弔うブルカを着た女性を撮影したもので、言葉では言い表せない迫力と悲しみが見ている人を圧倒します。

 

18. 「ギリシャ兵に夫を殺され泣くトルコ系女性」 1964年 ドン・マッカラン(1935-)

f:id:titioya:20180228193145p:plainCredit: Don McCullin, Cyprus, 1964
© Don McCullin. ARTIST ROOMS National Galleries of Scotland and Tate. Acquired jointly through The d'Offay Donation with assistance from the National Heritage Memorial Fund and the Art Fund 2008

 家族を亡くした深い悲しみと怒りが凝縮された一枚

ドン・マッカランはイギリス出身で、初めはイギリス空軍に従軍していましたが、民間に戻りプロのカメラマンとして活動を開始。1959年にロンドンのギャングの写真を撮影し名声を得ますが、1961年にペーター・ライビングの「自由への跳躍」を見て心を動かされ、戦いの場をフィルムに収めるようになりました。

 代表作が1964年にキプロス紛争で撮影した上記の作品で、トルコ系キプロス人の女性が、ギリシャ系キプロス兵に夫を殺され泣き叫び、彼女の息子が慰めようと手を伸ばしている様子を収めたものです。この作品でワールド・プレス・フォト・オブザイヤーを獲得しました。

ドン・マッカランはその後も、ベトナム、レバノン、コンゴ、エルサルバドル、北アイルランドなどの紛争地帯を巡り、2018年現在も活動を続けています。 

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まとめ

他にも紹介しきれないものが数多くあり、「あれがないやり直し」という声が多数寄せられそうな予感がしますが、いったんこちらでお終いにしようと思います。

スター写真家はどんどん少なくなっていってるし、よくオールド・ジャーナリストが「新聞を読まない人が増え、大衆がバカになっている」などと嘆いています。確かに以前ほど雑誌や新聞を皆が読まなくなり、以前ほどプロのジャーナリストが社会に対して与えていたインパクトはなくなってしまいました。

ただし発表する場が変わっただけであって、いまここで起きている重大な事柄を多くの人に届けたいという人の思いは変わっていないし、むしろ情報機器の進化によってそのようなモチベーションは増えていると思います。ジャーナリズムという観点では昔より現在の方がよほど進化しているのではないかと個人的には思います。

 

参考サイト

"Proving that Robert Capa’s “Falling Soldier” is Genuine: A Detective Story" AMERICAN MASTERS

Carl Mydans - Wikipedia

 "12 Extraordinary WWII Photographers" Culture Trip

"Raising a Flag over the Reichstag" TIME 100 PHOTOS

"Gandhi and the Spinning Wheel" TIME 100 PHOTOS

"The Terror of War" TIME 100 PHOTOS

"The Burning Monk" TIME 100 PHOTOS

"Saigon Execution" TIME 100 PHOTOS

"Leap into Freedom" TIME 100 PHOTOS

"V-J Day in Times Square" TIME 100 PHOTOS

"Guerillero heroico" TIME 100 PHOTOS

"Hitler at a Nazi Party Rally" TIME 100 PHOTOS

"ココがスゴイ!ピューリッツァー賞受賞作品・第2回 ピュリツァー賞と日本人" NATIONAL GEOGRAPHIC

"Larry Burrows" International center of photographe

 "James Nachtwey AMERICAN PHOTOJOURNALIST" BRITANICA

 "Photographer behind iconic shot of grieving Turkish Cypriot widow knighted in New Year Honours" T-VINE

"From ‘Inferno’ to ‘War’: A Few Considerations on James Nachtwey, VII, and War Photography (2004)" ASX