原題 THE GREATEST SHOWMAN 製作国 アメリカ 製作年 2017年 上映時間 105分 監督 マイケル・グレイシー 脚本 ジェニー・ビックス、ビル・コンドン ストーリー ジェニー・ビックス |
評価:★★★★ 4.0点
この映画はミュージカルとして高揚感に満ち、その音楽とダンスは観客を感動させる力があると感じます。
しかしアメリカの批評家の評価は最悪で、その理由にP.T.バーナムの歴史上の実像との違いに多くが言及しています。
じっさいこの映画は、結構しっかり歴史事実を反映した作品だったりしますので、ご紹介したいと思います・・・・・
<目次> |
映画『グレーテスト・ショーマン』予告 |
P.T.バーナム(ヒュー・ジャックマン/幼年期エリス・ルビン)/フィリップ・カーライル(ザック・エフロン)/チャリティ・バーナム(ミッシェル・ウィリアムス/幼年期スカイラ・ダン)/ジェニー・リンド(レベッカ・ファーガソン、歌声ローレン・アレッド)/アン・ウィーラー(ゼンデイヤ)/レディ・ルッツ(キアラ・セトル)/W・D・ウィーラー(ヤーヤ・アブドゥル=マティーンII世)/キャロライン・バーナム(オースティン・ジョンソン)/ヘレン・バーナム(キャメロン・シェリー)/ゼネラル・トム・サム(サム・ハンフリー)/コンスタンティン王子:刺青男(シャノン・ホルツァプフェル)/チャン&エン(ユーサク・コモリ:ダニアル・ソン)/フランク・レンティーニ(ジョナサン・レダヴィド)/ヴィクトリア女王(ゲイル・ランキン)
映画『グレーテスト・ショーマン』出演者
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映画『グレーテスト・ショーマン』実在モデル紹介P.T.バーナム・年表 |
この映画で描かれた主人公P.T.バーナムは、基本的に善人として描かれているようですが実在の彼はどうだったでしょうか・・・・・・まずはその人生を年表形式で追ってみたいと思います
P.T.バーナム・年表
1810年7月5日:コネチカット州ベテルで、宿屋兼商店主の父の元生まれる。(映画→父は仕立て屋)商店主として出発し、宝くじ販売、不動産投機業などを営む。
1829年:コネチカット州ダンバリィで週間新聞『ザ・ヘラルド・オブ・フリーダム』を創刊し、キリスト教長老派に対する彼の社説により、訴追され名誉毀損と2ヶ月の投獄の判決が下される。
1829年11月8日:幼なじみのチャリティ・ハレットと結婚しキャロラインコーネリア、ヘレン・マリア、フランシスイレーナ(3歳で死亡)、ポーリン・テイラーの4人の子供を授かる。(映画→キャロラインとヘレンの娘2人)
1834 年: コネチカット州で宝くじが禁止、主な収入源がなくなり、店を売却し、ニューヨークに移住。1835年:ジョージ・ワシントンの元看護師で161歳(実際は死亡時70~80歳)と噂されていた黒人奴隷ジョイス・ヘス(Joice Heth)を違法な奴隷売買で購入し見世物とし、1週間に約1500ドルを稼ぐ成功を得た。
1836年:ジョイス・ヘスの死期が近づくと、1日に10時間から12時間働かせ、2月にヘスが死亡すると、彼女の遺体の解剖を1人50セントで公開し2000人を集めた。(右:ジョイス・ヘス広告)
1837年~1840年:大恐慌
1841年:ニューヨーク、ブロードウェイとアン・ストリートに位置する"スカダー・アメリカン・ミュージアム"を購入し、改装後"バーナムのアメリカンミュージアム"としてオープンし人気を博す。
1842年:博物館興行主モーゼス・キンボールより"フィジーの人魚"を借り出し展示。
人魚の死体と喧伝したが、オランウータンの上半身を巨魚の下半身とつないだイカサマだった。
ゼネラル・トム・サム(親指トム将軍:本名チャールズ・ストラットン)が大評判となった。
1843年:インディアンのグループ「フー・フム・ミー」を結成し、インディアンの風俗と踊りをショウとし人気となる。
1844~45年:ゼネラル・トム・サムと共に欧州巡業。ヴィクトリア女王と面会し好評を得る。そして、欧州各王室の扉が開かれ、ロシア皇帝にも会った。
欧州訪問時スウェーデンのソプラノオペラ歌手・ジェニー・リンドと、米国興行の契約を締結。一晩1000ドルで150公演行う事を取り決める。
1850~52年:ジェニー・リンドの公演開始。バーナムの広告により大盛況を得るも、リンドは自らのペースでの公演活動を欲し、バーナムとの契約を解消し、その後一年は自らのマネージメントで公演を続けた。
リンドは公演により約$350,000獲得し、バーナム管理下では93回のコンサート公演を行い、彼に$500,000の利益をもたらした。(映画→喧嘩別れしバーナムは破産したと描かれているが、実際は十分な利益を得た。)
1856年:50年代初頭から投資したコネチカット州イーストブリッジポートの開発に失敗。破産し4年間の訴訟と世間の非難を浴びた。その中でバーナム自身講演ツアーなど興行を続ける。
1860 年: 債権を完済し、再び博物館の所有権を得て営業を再開した。1865年7月13日:"バーナムのアメリカン博物館"は、原因不明の火災で焼失。
1868 年3月: ニューヨーク市に再建した博物館が焼失。博物館事業から退去。
(映画→バーナムに反対する市民により一回焼失。現実は2回火事)
1870年:PTバーナムはサーカス興行に乗り出しダン・カステッロとウィリアム・クーデターと提携しニューヨーク市で「PTバーナムのグランドトラベルミュージアム、メナージュ、サーカス、ヒッポドローム(地上最大のショウ)」を設立した。
1872 年: 業界初の試み、サーカス列車の巡業に成功。
1873年:妻チャリティ・ハレット死去。
1874年:ナンシー・フィッシュと結婚。
1875年:「地上最大のショウ」の所有権を完全取得。
1881年:「クーパー・アンド・ベイリー・サーカス」と合併し、「PTバーナムの最高のショー、グレートロンドンサーカス、サンガーのロイヤルブリティッシュメナジェリーとグランド国際連合ショー連合」を設立し、すぐに「バーナム&ベイリーズ」へ改名した。1882年:ロンドン動物園よりアフリカ象ジャンボを購入し、人気を博す。この像の名前が「巨大」という英語の語源。また、ディズニー映画『ダンボ』の母象のモデルとして登場。
1885 年: バーナムとベイリーは分裂。
1888年:バーナムとベイリーは再びコンビを組み「バーナム&ベイリー地上最大のショウ」として世界を回った。
1891 年4月7日: 自宅で脳卒中により死亡。
1907年:「バーナム&ベイリーショー」は、1907年にライバルのリングリング兄弟によって買収された。
映画『グレーテスト・ショーマン』実在モデル紹介P.T.バーナムの実像を探る |
こうやってバーナムの人生を見てくると、バーナムという存在は実にアメリカ的なキャラクターだという印象を持ちました。
米国民の基本的なモチベーションとして、故国で困窮しアメリカに移民して来たという、ハングリーさが根底にあるように思います。
それゆえ金銭的な利益を得るためにナリフリ構わず、法の逸脱すら費用対効果が良ければ犯しかねない、そんな姿を映画の中でもよく目にします。
関連レビュー:アメリカに流れる血 『ゼア・ウイル・ビー・ブラッド』 ポール・トーマス・アンダーソンの傑作 ダニエル・デイ=ルイスのアカデミー賞受賞作 |
時代背景もあるでしょうが、黒人奴隷ジョイス・ヘスのように黒人を見世物としたり、インディアンに踊らせて、見世物にしたりと、ショーマンとしてのバーナムのキャリアが、白人以外の人種や障碍者を侮蔑する形で興行利益を上げていたとする研究もあり、実在のバーナムに人種差別の意識があるのは間違いないと思います。
また、金儲けのために"フィジーの人魚"や"カーディフの巨人"など、インチキだと知りながら詐欺広告を打ち集客に努めており、当時ですら"Hum-Bug(いかさま師)"と世間から批判される人物だったようです。
実際、当時の彼は相当嫌われていたようで、開発事業に失敗した後、これでペテン師バーナムも終わりだと喜ぶ良識派がいっぱいいたそうです。
そんな彼は、南北戦争が終わり奴隷解放が決定的になった後は、それまでの政治信条をがらりと変え民主党から共和党に乗り換え、人種差別反対論者になります。
そんな彼の行動も「いかさま師」バーナムの、自分の信念よりも利益を求める、功利的な姿だと感じられてなりません・・・・・・・・
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映画『グレーテスト・ショーマン』実在モデル紹介チャリティ・バーナム(チャリティ・ハレット)と娘達 |
チャリティの情報は乏しいのですが、幼なじみで結婚したのは事実のようです。
四人の子を授かりますが、3女のフランシスイレーナは三歳で早逝しており、下の写真には写っていません。
また映画では子供は娘二人が登場します。
左写真:左から実在のチャリティ・バーナム、ヘレン・マリア、ポーリン・テイラー、キャロラインコーネリア上流階級の出身という記述は探した限り見つからず、個人的な想像ですが、当時の時代背景を考えるとその設定は脚色のようにも思います。
右写真:左から映画のヘレン(キャメロン・シェリー)、チャリティ(ミッシェル・ウィリアムス)、キャロライン(オースティン・ジョンソン)
映画『グレーテスト・ショーマン』実在モデル紹介オペラ歌手ジェニー・リンド |
そして1849年5月、まだ30歳前で理由は謎のまま引退を宣言します。
しかし、バーナムにアメリカツアーを持ち掛けられ、慈善事業への大規模な寄付が可能になると思い受諾したそうです。
そんなリンドは、バーナムの宣伝の上手さもあり、アメリカ公演が始まる前から「リンド・マニア(リンド熱狂ファン)」がいたほど人気だったといいます。
当然、公演は大成功だったようですが、リンドはバーナムの過密スケジュールに嫌気がさし、93回公演でバーナムから離れ、以降自身でマネージメントをしたそうです。(右:リンドのボストン・コンサートポスター)
しかし、2人が袂を分かった時、バーナムはすでに50万ドル稼いでいたと言われます。
1850年の50万ドルは2018年だと1,500万ドルに相当するという計算もあり、だとすれば円換算で15億円(1ドル100円換算)という額になり、バーナムとしてもホクホクだったのではないでしょうか?
しかし、そんな二人が恋愛がらみでケンカし公演が続けられなくなり、ついにはバーナムが破産するという『グレーテスト・ショーマン』のストーリーは映画の脚色のようです。
1人になったリンドはアメリカ公演中に、オットー・ゴールシュミット(Otto Goldschmidt)と結婚し、1852年にヨーロッパに戻り、3人の子供を得、1887年11月2日に67歳で亡くなったそうです。
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映画『グレーテスト・ショーマン』実在モデル紹介フィリップ・カーライル |
フィリップ・カーライルは映画のオリジナル・キャラクターです。
しかし、バーナムの相棒として登場する所を見ると、実在のバーナムの共同経営者ジェームス・アンソニー・ベイリーを想定しているかとも思います。
<左写真>
上:P.T.バーナム
下:ジェームス・アンソニー・ベイリー
<右写真>
上:ヒュー・ジャックマン演じる映画のバーナム、
下・ザック・エフロン演じる映画のカーライル
ジェームス・アンソニー・ベイリー(James Anthony Bailey:1838年1月4日- 1883年7月15日)は、旧姓マクギニスとして1847年7月4日に生まれました。
8歳で孤児となったマクギニスは、サーカスの先駆者ハチャライア・ベイリーの甥、フレデリック・ハリソン・ベイリーと10代後半で出会い、フレデリックはマクギニスを助手として雇い、2人で何年も一緒に旅をします。
そしてマクギニスはベイリーの姓を名乗り、サーカスを経営していたジェームズ・E・クーパーと共に、25歳の頃には「クーパー&ベイリーサーカス」の経営者になります。
その後、PTバーナムと出会い、1881年に「バーナム&ベイリーサーカス」を設立しました。
彼は1906年に丹毒で死亡し、遺族には妻ルース・マッカドンがいました。
近年実話を元にした映画が増えているので、調べてみると思わぬ発見があり楽しかったりします…
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