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宮本武蔵の出生地は播磨国(兵庫県)なのになぜ岡山人は美作と言い張ってるのです...

neo_x_tokyoさん

2009/12/522:56:16

宮本武蔵の出生地は播磨国(兵庫県)なのになぜ岡山人は美作と言い張ってるのですか?

どうしてなのでしょう?

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marorintomyさん

2009/12/600:45:35

以前に私も同じ内容の質問をしましたのでご参考にどうぞ。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1032624540

吉川英治の影響が大きいんでしょうね。

小説を真実と思い込んでしまう危うさですね。

質問した人からのコメント

2009/12/10 22:51:47

成功 武蔵は兵庫県出身ですね。
ほんと岡山人は武蔵武蔵と言わないでほしいです!

ベストアンサー以外の回答

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a2s4ipさん

編集あり2009/12/809:35:13

吉川英治の小説が大きいです。生誕地は、播磨説と美作説がありますが、話として、奥深い作州で生まれ育ち、武道の基礎を作り上げたとする方が、小説に合うのでそのようにしたということかもしれません。

いくつかの資料による史実は、おそらく、
播磨で生まれて美作の新免無二斎家で養子として育ち武道を教わった。成長して都に出て名を成してから、播磨の兄の息子伊織を養子にした。
多分、これが正しいでしょう。

yuzuhiko0914さん

2009/12/615:04:09

詳しいことを知らない人は
岡山県に宮本武蔵駅があるから。

編集あり2009/12/816:17:44

すでに述べられている人もいるので、補足的に…。

この手の有名人が何処の出身地については、とにかく地元の人だとして郷土史家が強弁するのです。郷土愛による地元の振興というべきものなのでしょう。
そもそも郷土史家には資格はありません。史学を学んだ者でなくとも、国語教師で定年後に地元の研究をして本を出した程度のことで「郷土史家」を名乗れます。当然、専門家ではないので史料批判の手法など知らないし、古文書を発見しても誤読をすることは多いです。勿論、全てがそうだというわけでもありませんし、多くの人たちは専門でなくとも真面目です。ただ、年配の人は柔軟性に欠けて、もっというのなら思い込みに激しいのです。ですので、都合のいい記述を見つけては捏ねくり回して、都合のいい事実を作り出すこともあります。美作説もその類のものでしょう。
美作出身地説はそのまま地元振興が関わってるので余計に面倒な話になっている感があります。駅やら何やら…今更後に引けない、というのが本音で、最早真実などはどうでもいいのかもしれません。

あとは、すでに自分の中で結論がある人の場合、自分に都合のよい風にしか見えないという人は確かにいます。http://www7b.biglobe.ne.jp/~musashi-shinmen/musashi-22.html この論考などはまさにそうで、播磨出身地説のサイトhttp://www.geocities.jp/themusasi1/から史料の多くを採りつつも美作説に至ってます。確かに、同じものを読んでいても別の結論に至ることはあるのですし、こちらのほうが正しいというのは簡単に言えることではないのですが、最初のURLのサイトは
少なくともhttp://www.geocities.jp/themusasi1/023.htmlを読んでいたのなら、大原に宮本村が武蔵出生時はなかったということも知っているはずで、正否はどうあれ反証の説を書いていたでしょう。
しかし、どうにも自分の都合の悪いことは視界に入らなかったようです。この人は新免家の人ですが、やはり武蔵が自分と親戚関係であって欲しいという欲望が根本にあったのかと邪推してしまうくらい、本当に無理な推論を重ねています。

恐らく、このような思考形態が武蔵美作説を支えているのだと思います。

彼らにとっての真実は、かわりようはないのです。
本当に、仕方のないことなのです。

人は不都合な真実からは意識して、あるいは無意識にも目をそらすという、ただそれだけのことなのでした。

追記。
武蔵の出身地は五輪書に「生国播磨の武士」とあります。武蔵に関係する初期史料のことごとくは播磨出身を示しており、美作説が登場するのはかなり後です。
近年の武蔵は播磨に生まれて美作の宮本村に養子にいった、としている説ですが、美作説の根本史料となっている宮本村古事帳写を参照すると、宮本村ができたのは武蔵の死後の日付です。美作説を主張する史料はどれもがいい加減な日付だったり内容に相互矛盾が激しく、この程度は普通ですけど。
ならばそんないい加減な史料に書いてあることを都合のいい部分だけ出してくるな、という話もありですが、明和年間(1760年代末)の美作国絵図にも宮本村はでてきません。
美作に宮本村ができたのは、武蔵の死後と考えてよいと思います。ならば武蔵がこの村に養子にせよ誕生したにせよ、いたことによって宮本姓を名乗るようになったというのも必然ありえなくなり、武蔵は全く美作とは無縁だったと考えてよいでしょう。
恐らく、武蔵が養子として美作の宮本村にきたという説は、美作説の物証の多さを無視できなかった人が折衷案として考えたのではないかと思われます。しかし、物証というのは時に捏造されるもので、播磨説の揖東郡宮本村は物証も伝承すらもなかったのですが、最近は有名になったせいなのか、いつの間にか「武蔵生誕の際に使った産湯」などというものが作られています。
そんなわけで、「物証は捏造される」をはからずも証明してしまったこの宮本村なのですが、本当にここには何もなく、考証家の綿谷雪は「何度も採訪した」にも関わらず「口碑以外には、遺跡や遺物など何の発見もなかった」と述べておられます。さらに「先立つ戦前の頃に吉川英治が「『宮本武蔵』を書くにあたり、取材のためこの地を三度訪れ、武蔵の産地はここに違いないと繰り返し云ったが、武蔵などに興味のない石海神社の氏子総代にその都度追い返された」という話すらあります。もしかしたら、美作説を吉川氏が採ったのは、その意趣返し…はないでしょうけども。
あと武蔵が田原家の出身で伊織の叔父という説は宮本家の家系図が元ですが、これは誤記が多くて参考にするには難がありますし、かなり後年に改竄されたという説もあります。少なくとも初期史料の「播磨鑑」では伊織と武蔵は別の村の出身とあり、「播磨鑑」の著者は伊織出身地と隣接した村の人間なので、これがほぼ確実でしょう。つまり、武蔵と伊織に血族としての関係はありません。

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