がっちりとした身分制度で固められていた江戸時代において、身分を超えた思い切った抜擢が見られるのが幕府の財政を預かる勘定所とそのトップの勘定奉行です。
幕末に勘定奉行を務め外交交渉などでも活躍した川路聖謨は、豊後日田の代官の手代の子であり、もとは幕臣ですらなかったのですが、無役の御家人の家に養子に入り、そこから勘定所に採用され勘定奉行まで上り詰めます(35-36p)。また、「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出る」との言葉を残したとされる神尾春央は伊豆の百姓の出身と噂されました(本書でも指摘されているようにこれは誤り)。
このように幕府の中でも珍しく実力主義をとっていた勘定所は、たんに幕府の財政を預かるだけではなく、道中奉行を兼任し、幕府の司法機能を担う評定所の実務を担当しました。勘定所は幕府の財政・農政・交通・そして司法を担う中枢的な役所だったのです。
このような勘定所と勘定奉行について近世史の大家とも言っていい著者がまとめたのがこの本。
エピソード的な面白さはもちろんありますが、それと同時にこの本を読むことで江戸時代の経済政策の大きな流れとポイントが分かるようになっています。特に未だに評価の分かれる田沼意次の経済政策については、積極策VS緊縮策の二元的対立にとどまらない見方を提示していて興味深いです。
目次は以下の通り。
勘定奉行は江戸時代のはじめからあった役職ではなく、勘定奉行という名前になったのは元禄年間(1688~1704)になります。幕府の財政と幕府領の支配行政を行う勘定頭が寛永年間(1624~44)に確立し、万治・寛文期(1658~73)に勘定所の職制が確立し、元禄期に勘定奉行という役職が確立したのです(12p)。
勘定奉行になる者には、目付けなどから転任する「目付コース」と、勘定所の末端職員から奉行にまで上り詰める「叩き上げコース」がありました(13p)。
旗本らの幕臣にとって、格式の点では駿府城代、留守居、大目付が頂点でしたが、町奉行と勘定奉行は、大名が就任する寺社奉行とともに三奉行と称せられ、またさまざまな重要政策の諮問も受けたことから、勘定奉行は幕臣にとっても実質的な頂点ともいうべき役職でした(ただし、格式では勘定奉行よりも町奉行が上(28-29p))。
勘定所には「筆算吟味」と呼ばれる採用試験がありました。幕府の試験制度としては「学問吟味」もありましたが、こちらがたとえ優秀な成績をとっても役職への登用が約束されたものではなかったのに対して、筆算吟味は採用試験であり、合格すれば採用されました(35p)。
勘定奉行就任者213名のうち、目付から長崎奉行を経て勘定奉行になった「目付コース」を通った者が108名と過半数を占め、これは標準的な出世コースであったことがわかります。一方、勘定組頭→勘定吟味役→勘定奉行と叩き上げで奉行になった者は23名、全体の10%ちょっとにすぎませんが、これが勘定所の特異なところでありました(37-38p)。
町奉行において、与力や同心から町奉行に上り詰めたものは一人もいませんが、勘定所では末端職員からトップへの出世が可能でした。幕臣において立身出世するのは将軍の側近か、勘定所にいたのです(40p)。
江戸時代の勘定奉行として、まずとり上げられるべき人物が元禄期に貨幣改鋳を主導した荻原重秀です。
江戸時代初期の幕府財政は非常に豊かでしたが、主要な輸出品だった銀の産出の激減、明暦の大火からの復興費用などで赤字に転落します。さらに綱吉の時代になると、寺社造営のための作事方と呼ばれる費用や、将軍の衣服や大奥などの費用にあたる納戸入用が膨張し、巨額の財政赤字となりました。
そんな幕府の財政危機への対応にあたったのが荻原重秀でした。重秀は不正を行った代官の粛清や佐渡金山の立て直し、長崎貿易の改革などで頭角を現し、貨幣改鋳を主導します。
重秀はそれまで慶長金銀貨を鋳潰して新たに質の劣る元禄金銀貨を鋳造し、それを流通させることで、出目と呼ばれる改鋳益金を幕府にもたらし、同時に、貨幣需要の増大に応えるという側面もありました。
もちろん貨幣量が増大したことで物価は上昇しましたが、村井淳志『勘定奉行荻原重秀の生涯』(集英社新書)によると改鋳後11年で名目米価の上昇が33%であることから、それほどのものではなかったといいます(62p)。
ただし、この本ではその後の南関東大地震や宝永四年の富士山噴火、将軍代替わりの経費などに対応するために宝永丁銀・豆板銀の発行が物価の高騰を招いたと指摘しています(62-63p)。
家宣が将軍に就任した頃には幕府の財政は完全に重秀に任されており、新井白石が重秀の排斥を強硬に唱えても、家宣はすぐには重秀を更迭しませんでした。
しかし、新井白石は重秀のやり方を幕府政治そのものを破綻させるものとして厳しく批判し、ついには重秀の解任に成功、貨幣改鋳を否定し、質をもとに戻した正徳金銀をつくります。
ここからしばらく、幕府は財政を倹約と増税の緊縮路線によって立て直そうとする時代がつづくのです。
8代将軍吉宗が就任する頃には幕府の財政は危機的状況でした。吉宗は徹底した倹約や、上げ米による諸大名からの緊急避難的な米の徴収によって当面の危機を乗り切るとともに、勘定所を再編成し、徴税の強化を行いました。
この時代に活躍した勘定奉行が前掲の神尾春央です。春央は享保の改革の後期に勘定奉行として活躍した人物であり、有毛検見法(ありげけみほう)と呼ばれる年貢の徴収方法を導入することで徴税率を引き上げました。
享保の改革というと定免法という年貢率を一定に保つ方法の導入が知られていますが、有毛検見法とは田畑の等級とは無関係に現実の収穫量に基づいて年貢を決める方法です。当時、畿内や中国地方では等級の低い田畑で綿や菜種などを栽培して多くの収入を得る農民が出現していましたが、春央はこれを狙い撃ちにしたのです。
田への綿栽培などを解禁する代わりに重い税を課した春央のやり方の効果は絶大で(6万石もの年貢増徴になった)、畿内では農民たちが天皇に直訴しようとした事件も起こっています(92-94p)。
享保の改革は幕府の財政を好転させ、享保15年ころには幕府は100万両の金を蓄えたといいます。これは春央の増徴策や新田開発が功を奏したからですが、一方で幕府は「米価安の諸色高」という米の値下がりとそれ以外のものの物価上昇に悩まされることになります。財政再建のための米の増産は米価下落の要因となったのです。
こうした行き詰まりを打破しようとしたのが田沼意次でした。田沼の時代は、従来の倹約政策とともに、新たな増収策が求められた時代で、筋の良いものから悪いものまでさまざまな政策が行われました。
田沼時代の税というと「運上・冥加」が有名です。株仲間の結成も奨励されたことから特権的な商人に対する税と思われがちですが、この時の勘定所はあらゆる農村部の零細な商業活動からも冥加金を取ろうとしています。この本では信濃県の木曽地方の村の櫛の生産にたいして永100文(金0.1両)を課した例が紹介されていますが(119-120p)、まさに大衆課税路線というべきものです。
一方で、「山師」のような人びとが目立ったのもこの時代でした。田沼時代は幕府の収入を増やすことが下級役人の出世につながったため、さまざまなアイディアが献策され、その中には印旛沼の干拓工事や蝦夷地開発計画のように、大々的に進められながら失敗したものもあります。
このあたりは、それまで財務省的だった勘定所が経済産業省のようになった感じですかね。
田沼意次に替わった松平定信は徹底した緊縮策で幕府の財政をやりくりしましたが、定信が失脚し、将軍家斉が華美な生活をおくるようになると再び財政は悪化します。
そこで老中の水野忠成がとった策は貨幣改鋳による積極策への転換でした。幕府は銀座役人を粛清して銀座の直轄化を進め、貨幣改鋳へと乗り出すのです。
ここから幕府の財政は完全に貨幣改鋳の差益=出目に頼っていくことになります。
天保8年から13年までの間、幕府の財政収入の35%近くが貨幣改鋳の益金だったといいます(181p)。貨幣改鋳なくして幕府の財政は成り立たない状況になっていくのです。
文政~天保期になると、勘定奉行は外交政策にも影響を与えています。文政期に勘定奉行となった遠山景晋(遠山景元(遠山の金さん)の父)は、もともとレザノフとの交渉などを担当した外交経験のある人物ですが、文政8年(1825)の異国船打払令の発令を主導した人物でもありました。
異国船打払令は強硬策ながらも、打ち払い自体は沿岸の住民や大名に任せるやり方で金のかからないものでした。目付けなどは本格的な海防策を主張しましたが、勘定奉行からすると多額の財政出動が必要な政策は認められなかったのです(189-192p)。
その後、開国後の金貨流出に対しては貨幣改鋳で対応しますが、ここでも幕府は出目を狙い、文久元年(1861)には幕府の収入の42%を占めました(201p)。
しかし、それでも海軍の建設、将軍家茂の上洛、長州藩との戦争などの莫大な支出を賄うことはできず、慶応3年(1867)にはついに金札の発行に踏み切ります。荻原重秀は「なお紙抄に勝る」との言葉を残しましたが、ついに幕府は紙抄の発行に追い込まれたのです。
このように、この本は勘定奉行と勘定所を通じて江戸時代の財政と経済政策を紐解いています(江戸時代の貨幣政策については高木久史『通貨の日本史』(中公新書)を読むとさらによくわかる)。最初にも書いたようにこの本を読むと田沼意次の位置づけなどもわかりやすくなるでしょう。
また、同時に人事の本として面白さもあります。ここでは紹介しきれませんでしたが叩き上げの勘定奉行については経歴などを詳しく紹介しており、江戸時代の人事制度を見るという面白さもあります。
まさに「碩学」の書いた本という印象で多様な楽しみ方ができます。
勘定奉行の江戸時代 (ちくま新書)
藤田 覚

幕末に勘定奉行を務め外交交渉などでも活躍した川路聖謨は、豊後日田の代官の手代の子であり、もとは幕臣ですらなかったのですが、無役の御家人の家に養子に入り、そこから勘定所に採用され勘定奉行まで上り詰めます(35-36p)。また、「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出る」との言葉を残したとされる神尾春央は伊豆の百姓の出身と噂されました(本書でも指摘されているようにこれは誤り)。
このように幕府の中でも珍しく実力主義をとっていた勘定所は、たんに幕府の財政を預かるだけではなく、道中奉行を兼任し、幕府の司法機能を担う評定所の実務を担当しました。勘定所は幕府の財政・農政・交通・そして司法を担う中枢的な役所だったのです。
このような勘定所と勘定奉行について近世史の大家とも言っていい著者がまとめたのがこの本。
エピソード的な面白さはもちろんありますが、それと同時にこの本を読むことで江戸時代の経済政策の大きな流れとポイントが分かるようになっています。特に未だに評価の分かれる田沼意次の経済政策については、積極策VS緊縮策の二元的対立にとどまらない見方を提示していて興味深いです。
目次は以下の通り。
第一章 勘定奉行は幕府の最重要役人
第二章 御家人でも勘定奉行になれる――競争的な昇進制度
第三章 財政危機の始まり――貨幣改鋳をめぐる荻原重秀と新井白石の確執
第四章 行財政改革の取組み――享保期勘定所機構の充実と年貢増徴
第五章 新たな経済財政策の模索――田沼時代の御益追求と山師
第六章 深まる財政危機――文政・天保期の際限なき貨幣改鋳
第七章 財政破綻――開港・外圧・内戦
勘定奉行は江戸時代のはじめからあった役職ではなく、勘定奉行という名前になったのは元禄年間(1688~1704)になります。幕府の財政と幕府領の支配行政を行う勘定頭が寛永年間(1624~44)に確立し、万治・寛文期(1658~73)に勘定所の職制が確立し、元禄期に勘定奉行という役職が確立したのです(12p)。
勘定奉行になる者には、目付けなどから転任する「目付コース」と、勘定所の末端職員から奉行にまで上り詰める「叩き上げコース」がありました(13p)。
旗本らの幕臣にとって、格式の点では駿府城代、留守居、大目付が頂点でしたが、町奉行と勘定奉行は、大名が就任する寺社奉行とともに三奉行と称せられ、またさまざまな重要政策の諮問も受けたことから、勘定奉行は幕臣にとっても実質的な頂点ともいうべき役職でした(ただし、格式では勘定奉行よりも町奉行が上(28-29p))。
勘定所には「筆算吟味」と呼ばれる採用試験がありました。幕府の試験制度としては「学問吟味」もありましたが、こちらがたとえ優秀な成績をとっても役職への登用が約束されたものではなかったのに対して、筆算吟味は採用試験であり、合格すれば採用されました(35p)。
勘定奉行就任者213名のうち、目付から長崎奉行を経て勘定奉行になった「目付コース」を通った者が108名と過半数を占め、これは標準的な出世コースであったことがわかります。一方、勘定組頭→勘定吟味役→勘定奉行と叩き上げで奉行になった者は23名、全体の10%ちょっとにすぎませんが、これが勘定所の特異なところでありました(37-38p)。
町奉行において、与力や同心から町奉行に上り詰めたものは一人もいませんが、勘定所では末端職員からトップへの出世が可能でした。幕臣において立身出世するのは将軍の側近か、勘定所にいたのです(40p)。
江戸時代の勘定奉行として、まずとり上げられるべき人物が元禄期に貨幣改鋳を主導した荻原重秀です。
江戸時代初期の幕府財政は非常に豊かでしたが、主要な輸出品だった銀の産出の激減、明暦の大火からの復興費用などで赤字に転落します。さらに綱吉の時代になると、寺社造営のための作事方と呼ばれる費用や、将軍の衣服や大奥などの費用にあたる納戸入用が膨張し、巨額の財政赤字となりました。
そんな幕府の財政危機への対応にあたったのが荻原重秀でした。重秀は不正を行った代官の粛清や佐渡金山の立て直し、長崎貿易の改革などで頭角を現し、貨幣改鋳を主導します。
重秀はそれまで慶長金銀貨を鋳潰して新たに質の劣る元禄金銀貨を鋳造し、それを流通させることで、出目と呼ばれる改鋳益金を幕府にもたらし、同時に、貨幣需要の増大に応えるという側面もありました。
もちろん貨幣量が増大したことで物価は上昇しましたが、村井淳志『勘定奉行荻原重秀の生涯』(集英社新書)によると改鋳後11年で名目米価の上昇が33%であることから、それほどのものではなかったといいます(62p)。
ただし、この本ではその後の南関東大地震や宝永四年の富士山噴火、将軍代替わりの経費などに対応するために宝永丁銀・豆板銀の発行が物価の高騰を招いたと指摘しています(62-63p)。
貨幣は国家が造る所、瓦礫をもってこれに代えるといえども、まさに行うべし、今、鋳するところの銅銭、悪薄といえども、なお紙抄に勝る、これ遂行すべし(64p)これは荻原重秀の語ったとされる言葉ですが(出典の『三王外記』には信憑性も薄い風聞も混じっていると著者は指摘している)、これはある意味で非常に先進的な考えです(前掲の『勘定奉行荻原重秀の生涯』ではケインズの名目通貨の考えを先取りしていると指摘している)。
家宣が将軍に就任した頃には幕府の財政は完全に重秀に任されており、新井白石が重秀の排斥を強硬に唱えても、家宣はすぐには重秀を更迭しませんでした。
しかし、新井白石は重秀のやり方を幕府政治そのものを破綻させるものとして厳しく批判し、ついには重秀の解任に成功、貨幣改鋳を否定し、質をもとに戻した正徳金銀をつくります。
ここからしばらく、幕府は財政を倹約と増税の緊縮路線によって立て直そうとする時代がつづくのです。
8代将軍吉宗が就任する頃には幕府の財政は危機的状況でした。吉宗は徹底した倹約や、上げ米による諸大名からの緊急避難的な米の徴収によって当面の危機を乗り切るとともに、勘定所を再編成し、徴税の強化を行いました。
この時代に活躍した勘定奉行が前掲の神尾春央です。春央は享保の改革の後期に勘定奉行として活躍した人物であり、有毛検見法(ありげけみほう)と呼ばれる年貢の徴収方法を導入することで徴税率を引き上げました。
享保の改革というと定免法という年貢率を一定に保つ方法の導入が知られていますが、有毛検見法とは田畑の等級とは無関係に現実の収穫量に基づいて年貢を決める方法です。当時、畿内や中国地方では等級の低い田畑で綿や菜種などを栽培して多くの収入を得る農民が出現していましたが、春央はこれを狙い撃ちにしたのです。
田への綿栽培などを解禁する代わりに重い税を課した春央のやり方の効果は絶大で(6万石もの年貢増徴になった)、畿内では農民たちが天皇に直訴しようとした事件も起こっています(92-94p)。
享保の改革は幕府の財政を好転させ、享保15年ころには幕府は100万両の金を蓄えたといいます。これは春央の増徴策や新田開発が功を奏したからですが、一方で幕府は「米価安の諸色高」という米の値下がりとそれ以外のものの物価上昇に悩まされることになります。財政再建のための米の増産は米価下落の要因となったのです。
こうした行き詰まりを打破しようとしたのが田沼意次でした。田沼の時代は、従来の倹約政策とともに、新たな増収策が求められた時代で、筋の良いものから悪いものまでさまざまな政策が行われました。
田沼時代の税というと「運上・冥加」が有名です。株仲間の結成も奨励されたことから特権的な商人に対する税と思われがちですが、この時の勘定所はあらゆる農村部の零細な商業活動からも冥加金を取ろうとしています。この本では信濃県の木曽地方の村の櫛の生産にたいして永100文(金0.1両)を課した例が紹介されていますが(119-120p)、まさに大衆課税路線というべきものです。
一方で、「山師」のような人びとが目立ったのもこの時代でした。田沼時代は幕府の収入を増やすことが下級役人の出世につながったため、さまざまなアイディアが献策され、その中には印旛沼の干拓工事や蝦夷地開発計画のように、大々的に進められながら失敗したものもあります。
このあたりは、それまで財務省的だった勘定所が経済産業省のようになった感じですかね。
田沼意次に替わった松平定信は徹底した緊縮策で幕府の財政をやりくりしましたが、定信が失脚し、将軍家斉が華美な生活をおくるようになると再び財政は悪化します。
そこで老中の水野忠成がとった策は貨幣改鋳による積極策への転換でした。幕府は銀座役人を粛清して銀座の直轄化を進め、貨幣改鋳へと乗り出すのです。
ここから幕府の財政は完全に貨幣改鋳の差益=出目に頼っていくことになります。
天保8年から13年までの間、幕府の財政収入の35%近くが貨幣改鋳の益金だったといいます(181p)。貨幣改鋳なくして幕府の財政は成り立たない状況になっていくのです。
文政~天保期になると、勘定奉行は外交政策にも影響を与えています。文政期に勘定奉行となった遠山景晋(遠山景元(遠山の金さん)の父)は、もともとレザノフとの交渉などを担当した外交経験のある人物ですが、文政8年(1825)の異国船打払令の発令を主導した人物でもありました。
異国船打払令は強硬策ながらも、打ち払い自体は沿岸の住民や大名に任せるやり方で金のかからないものでした。目付けなどは本格的な海防策を主張しましたが、勘定奉行からすると多額の財政出動が必要な政策は認められなかったのです(189-192p)。
その後、開国後の金貨流出に対しては貨幣改鋳で対応しますが、ここでも幕府は出目を狙い、文久元年(1861)には幕府の収入の42%を占めました(201p)。
しかし、それでも海軍の建設、将軍家茂の上洛、長州藩との戦争などの莫大な支出を賄うことはできず、慶応3年(1867)にはついに金札の発行に踏み切ります。荻原重秀は「なお紙抄に勝る」との言葉を残しましたが、ついに幕府は紙抄の発行に追い込まれたのです。
このように、この本は勘定奉行と勘定所を通じて江戸時代の財政と経済政策を紐解いています(江戸時代の貨幣政策については高木久史『通貨の日本史』(中公新書)を読むとさらによくわかる)。最初にも書いたようにこの本を読むと田沼意次の位置づけなどもわかりやすくなるでしょう。
また、同時に人事の本として面白さもあります。ここでは紹介しきれませんでしたが叩き上げの勘定奉行については経歴などを詳しく紹介しており、江戸時代の人事制度を見るという面白さもあります。
まさに「碩学」の書いた本という印象で多様な楽しみ方ができます。
勘定奉行の江戸時代 (ちくま新書)
藤田 覚