外国人監督が描くミズーリ州「スリー・ビルボード」予想外のドラマ

Forbes JAPAN / 2018年2月11日 12時30分

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第90回アカデミー賞は3月4日(日本時間5日)に発表されるが、目下、ギレルモ・デル・トロ監督の「シェイプ・オブ・ウォーター」と並んで、栄誉ある作品賞の本命候補と呼ばれているのが、マーティン・マクドナー監督の「スリー・ビルボード」だ。

アカデミー賞の前哨戦とも言われるゴールデングローブ賞のドラマ部門(同賞はドラマ部門とコメディ部門に分かれている)では、「スリー・ビルボード」が作品賞に輝いたのだが、ほとんどの受賞者が同年のアカデミー賞監督賞にも名を連ねる全米監督協会賞には、「シェイプ・オブ・ウォーター」が選ばれ、ライバルとしての存在感を示した。

いまや、「スリー・ビルボード」対「シェイプ・オブ・ウォーター」の一騎打ちの様相を呈している今年のアカデミー賞。ノミネート作品のすべてを観ているわけではないが、筆者としては、作品賞と脚本賞と主演女優賞はこの「スリー・ビルボード」だと考えている。ちなみに拮抗する2作はともに、アメリカでの配給は20世紀フォックス傘下のフォックス・サーチライト・ピクチャーズだ。

「スリー・ビルボード」は、日本では2月1日に封切られたばかりだが、アメリカは昨年11月10日に公開された。9月の第74回ベネチア国際映画祭で脚本賞、トロント国際映画祭でも最高賞である観客賞を獲得していたこともあり、その時点で世評は高く、また12月に発表された第75回ゴールデングローブ賞でも作品賞の他、主演女優賞、助演男優賞、脚本賞と最多の4部門で受賞を果たしている。

受賞歴からも察せられると思うが、「スリー・ビルボード」の強みは、監督のマーティン・マクドナーが自ら担当する脚本力によるものだ。一説には、キャスリン・ビグロー監督の「デトロイト」が、ゴールデングローブ賞からもアカデミー賞からもノミネートから外れたのは、緻密なドラマで構成されている「スリー・ビルボード」の存在があったからだとも言われている。

作品の舞台は、アメリカの中西部、ミズーリ州の小さな町。原題は「Three Billboards Outside Ebbing, Missouri」(ミズーリ州エビング郊外の3つの広告看板)だが、まさに作品のビジュアルを決定づける看板に、地名が結びつけられている。さすがに邦題はそのままとはいかず、後半は省かれたのだろうが、このわざわざ付けられた地名にこそ、製作者側の意図は潜んでいるように感じた。

その3つの看板は、ダークな赤地に黒い文字だけが書かれたもので、「娘はレイプされて殺された」「犯人は捕まっていない」「ウィロビー警察署長は何をしている」という扇情的な言葉が並ぶ。町に入る道路沿いに建てられた看板の広告主は、ミルドレッド(フランシス・マクドーマンド)という中年女性。事件から7か月、いまだに捜査の進展しない状況に抗議して、大枚はたいて広告スペースを借り切ったのだ。

しかし、このドぎつい広告看板に町の住民は反発。名指しされたウィロビー警察署長(ウディ・ハレルソン)も、ミルドレッドの元を訪れて、捜査はきちんと継続されていると説得するのだが、彼女の怒りはおさまらない。次に住民代表として訪れた教会の神父にも、逆に罵詈雑言を浴びせ、ミルドレッドは町の人々すべてを敵に回してでも闘うという姿勢を貫いていく。

シンプルに書けば、このようなストーリー展開なのだが、これにウィロビー署長ののっぴきならない事情や、その部下のディクソン巡査(サム・ロックウェル)の粗暴な行動、ミルドレッドの別れた夫からの意外な抗議など、さまざまな人物の細やかなエピソードが絡み、物語は予想外の方向へと展開していく。このあたり脚本の巧みさは、見事というしかない。

単なるレイプ犯探しのミステリーは、この退屈な田舎町に暮らす人々の鮮やかな人間ドラマへと発展していくのだ。

自ら執筆した脚本だけに、マクドナー監督の演出もあいかわらずメリハリが効き、冴えている。前作の「セブン・サイコパス」(2012年)で見せたショッキングなカットや演技者の表情を的確に捉えるカメラワークなど、これが長編3作目とは思えない熟達の技も見せている。

作品の舞台となっている「エビング」という田舎町だが、どうやらこれは架空の町らしく、ミズーリ州の地図を探しても見つからない。また、ミズーリ州は、元来がミシシッピ川沿いに発展してきた州であり、かつては旧弊な南部とのつながりが強い時代もあった。その後、西部の開拓が進むにつれて、その玄関口としての位置も占めていた。

地図で見るとわかるが、アメリカ本土ではほぼ中心にある州で(やや東寄りではあるが、西は山間部や砂漠が多いので)、南部の影響と西部の玄関口として、いわばアメリカの歴史を象徴するような州でもあるのだ。

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作品のなかには、巧みに人種やマイノリティーの問題も盛り込まれており、明らかに現代アメリカの縮図として、架空の町であるミズーリ州エビングが描かれているのだが、この舞台を選んだ監督であり脚本家でもあるマクドナーが、イギリスとアイルランドの国籍を持つ”外国人”であることも、この作品を語るうえでは重要な意味を持つ。

マーティン・マクドナーは、両親はアイルランド人で、ロンドンで育ったためにイギリスとアイルランドのふたつの国籍を持っている。兄は、最近作では「バッドガイズ!!」などがある同じく映画監督のジョン・マイケル・マクドナーだ。

映画を手がける前は舞台を中心に活躍しており、イギリスやアイルランドでは重要な劇作家として評価を受けている。長編映画の1作目「ヒットマンズ・レクイエム」(2008年)は、英国アカデミー賞で脚本賞を受賞、本場のアカデミー賞でも脚本賞にノミネートされた。劇作家としてのキャリアと映画での実績で、いわばマーティン・マクドナーの「脚本力」は証明済なのだ。

その脚本の名手であり、”外国人”である彼がミズーリ州の架空の町を描いたのは、かなり意義深いものがある。ミズーリ州では、2014年には、白人警察官によってアフリカ系アメリカ人の青年が射殺されるという事件が起こり、その後暴動や略奪にも発展している。まだ耳新しい事件であり、マーティン・マクドナーの頭のなかにも、この事件の記憶があったことは想像にかたくない。

イギリス人でありアイルランド人でもあるマクドナーが描いた「スリー・ビルボード」の結末は、実はあまりハリウッド的ではない。どちらかというと観客に判断を委ねるようなそれで、ラストに「解答」は潜んではいない。むしろ、作中で展開される登場人物たちの心の動きが、監督であり脚本家でもあるマクドナーの意図したところのようにも思える。

一昨年の大統領選以来、国を二分するかのような様相で揺れ動いているアメリカだが、その国の人々に対して、”外国人”であるマーティン・マクドナーは、このミズーリ州の田舎町という舞台を借りて、「黒白つけるのは重要ではない」という彼なりのメッセージを発しているように思った。

しかし、これだけ世評が高い作品であるのに、マーティン・マクドナーはアカデミー賞の監督賞にはノミネートされなかった。やや不自然な感じもするのだが、これが彼の国籍に端を発するものではないことを信じている。

稲垣伸寿の「シネマ未来鏡」
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