映画を書くと頭が疲れる

観るものです。

ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾における、渋革まろん氏の評論文盗用疑惑について

今回は映画の記事ではありません。
ネット上に、私のブログ記事からの盗用だと思われる文章を見つけたので、掲載元に問い合わせをした顛末についての報告記事です。

前回の記事を書いている時に、震災と黒沢清映画について書いている文章を検索していて批評再生塾のサイトに行き着き、そこに掲載されているいくつかの評論文を読んでいて問題の評論文を見つけました。

具体的に盗用だと疑われる点は以下です。


【冒頭の『青髭』から高部の妻に対する殺意を導く】

はどのブログ
「『CURE』は、ある男が妻に対して殺意を抱き、その殺意と相対する物語だ。
「『CURE』の冒頭で文江の持つ『青髭―愛する女性(ひと)を殺すとは?』(新曜社 1992年)の提示によって示された、高部の文江に対する殺意。高部の殺意は、この映画の一番初めにあった。」

渋革氏評論文
「『CURE』とは、夫の殺意に全編を貫かれた「殺意の映画」なのである。
「なぜなら彼女が朗読していたのはまさに「愛する女性を殺すとは?」である。表面上は穏やかに見える夫が実は殺意を持っていることを彼女は知っていた。」


【この殺意を全人類のものとする】

はどのブログ
「死や殺意といった普遍的な事象は誰のものでもある。目の前に現れたその時に、それと対峙した人に事象として現れる、そういう類いのものだろう。それが誰の殺意であろうと、それは誰の殺意にもなる。

渋革氏評論文
「ここで大胆な仮説を立てる。高部の「殺意」は単に高部ひとりのものではない。いや、たしかに高部の殺意なのだが、と同時に全人類の殺意である。


【物語終盤に高部が訪れる廃墟を病院とし、写真→蓄音機を映画史になぞる】

はどのブログ
「『CURE』では、半透明のビニールカーテンを開けると写真があった。蓄音機は別の部屋、空飛ぶバスでしか行けないと思われる廃墟となった病院のシークエンスの最後に登場する。」
「廃墟となった病院で、最後に高部が辿り着いた部屋で聞く蓄音機から鳴る音である。-このことを単純に解釈するなら、写真と蓄音機は映画という複製物の隠喩として用いられていると考えられるだろう。映画は、光から音の順に成り立ってきた歴史を持つ。

渋革氏評論文
「終盤、高部はまたしても「空を飛ぶバス」に乗って、今度は一人きりで廃墟の病院へと向かう。そこで彼はまず田宮が使う催眠術の始祖である伯楽陶二郎の写真を見る。それから、エジソン蓄音機で音を聞く。つまり、彼はサイレントからトーキーへの映画史を高速で反復している。」


【最後のファミレス場面の最終ショットを高部の視点ショットとする】

はどのブログ
「ファミレスで食事を終えた高部の様子は、それまでとは打って変わって旺盛で快活で落着いている。」
「その後カメラは、高部の左側から画面右側にある高部の頭部越しにファミレスの内部を捉えるが、そのまま固定されることなく動き続け、やがて高部はフレームアウトする。このフレームアウト後も、高部が吸っている煙草の煙が画面に干渉していることから、高部が映っていない最終ショットは、限りなく高部の視点に近いものだと思われる。
この最終ショットは、高部の視点と観客の視点を重ねたものだ。観客と同じものを、観客と同じように高部は見ている。」

渋革氏評論文
「映画中盤のファミレスのカットでは一口も手を付けられなかったステーキを高部はきれいに平らげる。そして、タバコを吸う高部の横顔からカメラは高部の視線をそっくりなぞるようにウェイトレスにズームインする。注意深く見ると、映像にはタバコの煙が映り込んでおり、このカメラの視点が高部の視点であることがわかる。客観的世界に同一化したPOV(主観ショット)だ。つまり、ここで高部はカメラそのものになった。高部の内宇宙はカメラの外宇宙と同化した。彼が映画史を反復して掴んだ「秘密」とは、映画的システムによって駆動するこの世界を受肉した人間こそ「私=高部」であった、ということなのだ。」


【その他】

私はブログ記事の中で、夫婦がバス移動する場面を「空飛ぶバス」と勝手に命名しています。私のブログ記事『CURE』№2の中で、街に加わった異質なルートを行く異質な乗り物というニュアンスで書き、その記事からの流れで、№3・№4の記事では説明無しで「空飛ぶバス」とだけ書いています。
しかし渋革氏は、私が独断で書いていることを、何の補足も無くそのまま使用しています。

以上です。
言い回しや解釈などは変えられていますが、具体的な着想の重複が見られます。


全文は以下です。

2017年4月14日掲載の私のブログ記事です。
「『CURE』(1997年)を見直してみよう No.4 最後に高部はどうなったのか」
http://stevenspielberg.hatenablog.com/entry/2017/04/14/185240

2018年1月以降掲載、渋革まろん氏評論文
「《私映画》の運命―黒沢清『CURE』の問いかけ」
http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/shibukawa0213/2614/

以下は株式会社ゲンロンとのメールのやりとりです。

【3月14日 はどの送信メール】

批評再生塾
徳久様

はてなブログ「映画を書くと頭が疲れる」の著者、はどのと申します。

先日、批評再生塾様のHPを読んでいて、渋革まろん氏の評論文「《私映画》の運命―黒沢清『CURE』の問いかけ」に書かれている、具体的な着想部分が、私が2017年4月14日に公表した以下のブログの盗用ではないかと思い連絡致しました。

はてなブログ「映画を書くと頭が疲れる」
『CURE』(1997年)を見直してみよう No.4 最後に高部はどうなったのか
http://stevenspielberg.hatenablog.com/entry/2017/04/14/185240

具体的な指摘といたしましては、

1、冒頭の『青髭』から高部の妻に対する殺意を導く
2、この殺意を全人類のものとする
3、物語終盤に高部が訪れる廃墟を病院とし、写真→蓄音機を映画史になぞる
4、最後のファミレス場面の最終ショットを高部の視点ショットとする

上記以外にも、私が『CURE』に関するブログの流れで、夫婦のバス移動の描写を「空飛ぶバス」と表記しているのを、そのまま使用されています。

言い回しを変更しています。
解釈の変更も認められます。

CUREに関しては、いくつか記事を書いていますので、他記事からの盗用もあるかもしれません。以下に関連ブログ記事のURLを添付しておきますので、必要であればご確認下さい。
http://stevenspielberg.hatenablog.com/entry/2015/05/06/185401
http://stevenspielberg.hatenablog.com/entry/2015/05/16/192621
http://stevenspielberg.hatenablog.com/entry/2015/06/07/225516
http://stevenspielberg.hatenablog.com/entry/2015/07/05/025058

私は、約20年前の映画『CURE』について、当れるだけの先行する文章を読み、善し悪しは別にして、今まで誰も書かなかった独自の着眼点や解釈を文章にしています。また、『CURE』という映画の性質上、様々な観点で複数の文章を書いています。その中の一つのブログを公表した約半年後に、着想に関する重複箇所が複数ある評論文が偶然出てくるとは思えません。

この件に関する対応について、3月16日までにご回答下さい。
よろしくお願いします。

はどの

【3月14日 ゲンロン様より返信メール】

はどのさま

はじめまして、
株式会社ゲンロンの徳久と申します。

いただいたメール、拝読いたしました。
当人の投稿と、
はどのさまのご指摘の箇所を確認のうえ、
必要に応じて当人にもヒアリングをおこない、
あらためて、ご連絡させていただきます。

慎重に確認が必要な案件ですので、
上記対応を含めた結果については、
3月16日以降のお知らせになってしまうかもしれませんが、
極力早急に、運営としてのお返事を差し上げるようにいたします。

どうぞよろしくお願いいたします。

【3月16日 ゲンロン様より返信メール】

はどのさま
ゲンロンの徳久です。

先日お送りいただいたメールにつきまして、
事実関係の精査を行いました。
その結果のご報告です。

本件、渋革まろん氏本人に、心当たりを尋ねました。
その結果、以下のことがわかりました。

・当該論考の執筆にあたって、映画に詳しい友人から書籍を借りたり、議論を交わしたりした。
・その際、『CURE』についても話があり、
 友人から「高部がラストで世界システム=映画を学んだからだ」と聞き、
 この着想と自身の従来の関心事項である「感染」や「独我論」「私演劇」といった概念をつなげて論考を練り上げた。
・論考は1/1に提出した。

・1/8、その友人から、「面白いブログがある」として「映画を書くと頭が疲れる」の黒沢論のURLを送ってもらった。
まろん氏は当該エントリをそのときはじめて読んだ。
・しかし友人は以前から当該ブログを読んでいたため、友人との議論を通して、間接的に影響を受けた可能性はある。

上記のような経緯があることから、
はどのさまがまろん氏の論考のなかから、
ご自分の着想に重なるところがあると思われたのは、
自然な流れです。

ただ、経緯と実際の投稿内容を踏まえると、
盗用にあたるものではないと考えます。
ですので、当該の論考については、
このままサイトへの掲載を継続いたします。

上記の内容、ご確認いただけますと幸いです。
どうぞよろしくお願いいたします。

【3月16日 はどの送信メール】

ゲンロン
徳久様

ご回答頂きありがとうございます。
調査結果を確認しました。
後出しのようで申し訳ありませんが、渋革氏は私のブログに読者登録しており、現時点で、読者登録日数が71日目となっているため、報告内容と日にちに齟齬がでます。
私は、ご報告頂いた渋革氏の証言は信用も納得もできません。
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今回の批評文とブログ記事について、盗用かどうか、渋革氏からの聞き取りではなく、ゲンロン様の判断を19日までにご回答下さい。

はどの

【3月19日 ゲンロン様より返信メール】

はどのさま

お返事ありがとうございます。
たしかに渋革まろん氏の証言と、
お送りいただいた読者登録の情報には齟齬がありました。

「聞き取りではなく」とのことですが、
弊社側の判断のために、渋革氏に再度、確認を行いました。

「信用できない」ということであれば読み飛ばしていただいてかまわないのですが、
ご参考のため、以下、その内容を掲載します。

・友達のNくんと12月24日・26日にネットでメッセージを交わした。

>『CURE』を初めて見て、僕から「印象を一言で言うと、振るえて殖える。勝手に増殖していく。……CUREを見た後だと、映画を見るということそのものが現代に可能なヤバイ呪術なのではないかと思える」と、また「鑑賞者の忘れられたそれがあることの記憶が、現実世界に新しいレイヤーとして重ねられてしまう……現実改変魔法」といった感想を送りました。

>それに即レスで、Nくんから「……映画史に触れるということが、世界のシステムを理解することでもあり、主人公はそのシステムの外に押し出されるような救済を得るわけです。」と、返答がありました。「世界システム=映画を学ぶ」ことで「外」に位置づけられる高部において、「観客も高部も全部同じ私になる=私映画」なのだと理解しました。

>それから、「世界システムを学ぶ、震える、催眠術(ゆれる・点滅する)」に注目して『CURE』を見続けました。

・1月8日にNくんから、「映画を書くと頭が疲れる」を教えてもらった。

・しかし、NくんにURLを送ってもらった日より前、(おそらく)1月4日に、「映画を書くと頭が疲れる」を見つけ、読者登録をした。

・前回の聞き取りでは時系列を捏造してしまった。どちらでもたいした違いはないだろうと軽率に考えてしまった。

渋革氏の「時系列の捏造」は大きな問題で、
はどのさまがより不信の念を深められたのはもっともです。
その点、いかようにも擁護のしようがありません。

友人とのメッセージ群についてはスクリーンショットを見せてもらいましたが、
友人とのやりとりが事実であることは、盗用を否定する根拠にはなりません。

もはや「渋革の言うことはすべて信用ならない」と言われても仕方のないところですが
(私自身、このようなごまかしにはたいへん困惑させられています)、
やはり盗用であるという確証がないことは、
前回のメールをお送りしたときと同様、変わっていません。
ですので当該記事については、掲載を継続する考えでおります。

以上、十分にご納得いただける内容ではないかもしれませんが、
ご確認いただければと思います。

どうぞよろしくお願いいたします。

【3月19日 はどの送信メール】

ゲンロン
徳久様

ご返信頂きありがとうございます。
私としては、盗用かどうかの判断は、個人の言い分ではなく、そう見なされ得るかどうかの組織側の判断が必要だと考えます。
ゲンロン様のその判断が、あくまで渋革氏の証言に寄るのであれば、それをゲンロン様の判断とし、これ以上のやり取りは差し控えさせて頂きます。

事前に読み比べをして頂いた方々や、ブログ読者の方へ今回の件をブログ記事でご報告したいと考えています。事実を正解にお伝えするために、メールのやり取りを掲載したいと考えているのですが、ご了承頂けますでしょうか?
ご返信下さい。

はどの

【3月22日 ゲンロン様より返信メール】

はどのさま

祝日を挟みまして、お返事が遅くなってしまいました。
申し訳ございません。

前便と同じ内容になってしまいますが、
わたくしどもといたしましては、

・渋革氏の説明には時系列の捏造があり、
・当該記事から間接的に影響を受けた可能性は高いが、
・それぞれの記事の内容を比較・検討し結果盗用とは判断しなかった

ということになります。

ブログ記事でご報告いただくことについては問題ありません
(渋革氏からも承諾を得ています)。
それにあわせて渋革氏の当該投稿のページにも、
はどのさまのブログにリンクを貼り、
このような指摘をいただいたことや経緯について、
説明を掲載させていただきたいと思います。

ですのでブログに記事をアップされた際に、
お手数ですが、当方までご一報いただけませんでしょうか。

ご面倒をおかけしますが、
なにとぞ、よろしくお願いいたします。

メールのやり取りは以上です。

指摘した具体的な着想部分について、明確な回答はいただけませんでした。
こちらが、盗用を疑っている人物からの証言を主とした回答でした。

以下は、メールのやり取りにおいて私が疑問に感じたことです。

・「はどのさまがまろん氏の論考のなかから、ご自分の着想に重なるところがあると思われたのは、自然な流れです。」とのことですが、1月8日に私のブログ記事を読まれた渋革氏も同じように私のブログを読んで、着想に重なるところがあると思うのが自然な流れになるかと思います。ご友人から着想を授かり、その着想元だと思われるブログを確認したにもかかわらず、それを公表するにあたり、批評再生塾の塾生として、講師に引用の必要性や盗用を疑われる可能性について相談されることはなかったのでしょうか。もしされなかったのなら、それはなぜでしょうか。

・「・1/8、その友人から、「面白いブログがある」として「映画を書くと頭が疲れる」の黒沢論のURLを送ってもらった。・まろん氏は当該エントリをそのときはじめて読んだ。」とのことですが、渋革氏は8日以前に私のブログに読者登録をされていたので、その旨を返信しました。
・再度お返事を頂いた際に、「・しかし、NくんにURLを送ってもらった日より前、(おそらく)1月4日に、「映画を書くと頭が疲れる」を見つけ、読者登録をした。」と嘘を認め、訂正されましたが、当ブログを見つけた経緯と読者登録をした理由はなんでしょうか。

・渋革氏が、一度目の聞き取りで時系列を捏造してしまった理由はなんでしょうか。どちらでもたいした違いはないと軽率に考えたとのことですが、疑われている立場の人は、どちらでも違いがないのなら事実を伝えるのが自然な思考の流れだと思われます。隠す必要のないことを、あえて隠した理由はなんなのでしょうか。

・もともと私のブログ読者であった渋革氏のご友人が、論考の執筆にあたって議論を交わしていた際にはブログのことに触れなかったが、なぜ8日になって、突然面白いブログがあるとして私のブログのURLを渋革氏に送られたのでしょうか。
※この件に関しましては、ご友人の聞き取りまではこちらから強要できませんが、1月8日のメッセージのやり取りのスクリーンショットを公開していただければ幸いです。

・「やはり盗用であるという確証がないことは、前回のメールをお送りしたときと同様、変わっていません。」とのことですが、株式会社ゲンロン様にとっての盗用の確証とは何なのでしょうか?
※今回程度の類似であれば、間接的に影響の可能性がある上に本人の証言に嘘があったとしても、盗用にあたるものではなく、引用の必要性も無いと判断されるのなら、今後それが批評再生塾における盗用の基準となることかと思います。
こちらにも盗用ではないという確証がないので納得できなかったのですが、渋革氏の投稿ページ上で、上記の質問にお答えいただき、こちらの疑問を解消していただければ幸いです。


今回の件では盗用の疑いがあるとし、掲載元に問い合わせをしましたが、引用箇所やその引用元を明記して下されば、無断で使用して頂いてもちろん構いません。


内容は上記に記載した通りですが、以下にメールのやり取りのスクリーンショットを載せておきます。

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