はぁ、観ましたわ。
写真はその後食ったラーメン。
岡田麿里が世界に向けて「私は自由よぉぉぉぉぉぉぉ!!!!(CV:大泉洋)」と、叫んだ作品。
彼女の最大の特徴は、「小さい衝動を描くのが上手くて大きな動機が全然書けない」ということだと、はっきり確認できた。
彼女は時にキャラを「衝動的」に動かし、そのトリックプレーで独自のリアリティを創り上げてきた。
特に初期の作品では非常に独特の効果を上げた。
しかし、「動機」が書けない。あるいは忘れてしまう。
キャラがなぜ、どんな想いでその行動に至ったのか、それをほとんど説明しない。
演出するこちらも解らない(笑)。
僕が先日、散々ポタクに「動機は?」と尋ねたのも、そういう理由だ。
どういう「動機」でヤマカンを憎むようになったのか、まだそれが解ればポタクの人間像が見えてきて、対応もしやすい。
しかし「動機」が不明だと、ただただ不気味で、恐ろしいだけだ。
サイコパスに見えてしまう。
ここで言っておきたいのだが、「動機」を描き忘れても作劇は何とかなると僕は思っている。宮﨑駿も同様に「動機」をしょっちゅう忘れる。
しかし宮﨑さんの場合、「ハッピーエンド」という、単純で大きな目標に向かって必ずキャラが動く。だから観客は部分部分では「?」となりながらも、何とかついて行けるのだ。
しかし、本作は特にそれが仇となった。
まるで『北の国から』の20年を一気に2時間で見せられたような、その長大すぎる時間経過である。
僕らはシーンごとに代わる数年単位の時間経過を、キャラの「その後の」姿を確認し、人物の相関図を逐一整理しながら観るしかない。
「こいつ誰だっけ?」から始めるしかない。
だから感情を追うまでに時間がかかるのだ。
更にそこで「動機」が読めなければ、ただ混乱するばかりで、感情移入まで行かない。
そしてまた次のシーンで数年経過する。またリセット。この繰り返し。
和田さんが『薄暮』を「世界に入り込める!」とえらく言ってたのも無理はない。
これを観た後じゃあそう見えるだろう。
でもクライマックスで感動を煽ればまだ何とか、まだ何とかなったかも知れない(何回「何とかなる」と言ってるのやら)。
しかしその肝心なクライマックスで、幼馴染のクリムを殺してでも娘と会いたい、抱きしめたいと言っていたレイリアが、ようやく娘と再会!とその瞬間、
「私は自由よぉぉぉぉぉぉぉ!!!!」
とばかり、お得意の「衝動的」なダイビング。
あーあ、やってしもた。
レイリアはマキアと竜に乗り、子供達を置いてなぜか逃げてしまったとさ、チャンチャン。
岡田麿里らしいなぁ・・・。
さすがにこの瞬間は、「おいどこ行くねん!!」とツッコんでしまった。
彼女は「衝動」を何より大事にする。だからこそ、観客をほったらかしにしてでも、「自由」を求めて飛んで行ってしまったようだ。
と、思ったら息子が死にかけになってから、あ、帰ってくるんかい!
ていうか、これジジイになるまで帰ってこなかったってことでいいの?
逃げたんか帰ったんかはっきりせい!
何からも自由でいたかったんやろなぁ。
でも、初監督なんだし、もうこれでいんじゃね?
そういうことにしておきます。絵は素晴らしかったし。