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60年安保から始まった反米ナショナリズムは、反安保・反基地・ベトナム反戦を唱えていた。
反戦運動に参加した日本人からは、北ベトナムの「抗米救国」のスローガンを我がことのように叫んでいた。

「ベ平連」は、1969年6月15日には、全共闘などと連携して七万人を集める反戦集会を行った。

元々、党派性の無いこの団体は、小田実、開高健・・などを発起人に生まれたが、北ベトナム側の宣伝を信じ込み、米国をターゲットにした反戦運動を繰り広げた。決して、共産主義者の集団ではなかったが、「容共的」であったし、北ベトナムとその背後のソ連が世界支配の野望をもってアジアに進出している事にはまったく無知であった。
一方で、日本のメディアもまた同様に盲目であった。

例えば、1965年、2月9日の読売新聞社説は、「ベトナム不拡大望む」の見出しで、「ベトコン勢力の源泉はベトナム民族主義だ」と盲目的な意見を述べ、毎日、朝日、産経・・・などの各新聞社はこぞってルポルタージュを掲載していた。毎日の「病院爆破」記事に、ライシャワー大使が抗議した一幕もあった。
1970年、「ソンミ虐殺」は米国でも日本でも「600名の虐殺」と報道されていたが、実は160名が確認されただけだった。一方では、解放戦線側と北軍が南ベトナム政府の支持者1000余人を虐殺した(テト攻勢フエ事件)は、まったく報道されなかった。(三野正洋『分かりやすいベトナム戦争』P101)

徳岡孝夫は『ベトナム戦争忘れていいのか』の”まえがき”で、「日本の知識人も新聞人もこぞってベトナムに熱烈な拍手を送っている」と書いている。
一般民衆は戦火に逃げ惑うベトナム人に自らを重ねていた。こうして「べ平連」が活躍する下地ができていた訳だが、彼ら自身も「反米思潮」に身をおいていたので、『ニューヨクタイムズ』や『ワシントンポスト』に意見広告を出している。米軍の撤退を持って解散したという事実は、この団体が結局は、「反戦」を「反米」と混同していた事を示している。
米国の行動に反発する事を「反戦」と述べていたのである。

そしてこうした人々は、自分でも知らない内に「米国は、帝国主義であり侵略者」というイデオロギーな思想に洗脳されていた。その構図の中では、南ベトナム政府、米、韓が悪であり、北ベトナムや民族解放戦線が善であるという事になっている。もちろんそれは、北ベトナム側の徹底した隠ぺい工作と宣伝があったからだが。

私がこれを書いているのは、今日もまた「反米、反韓のナショナリズム」が勃興しているからである。ネトウヨたちは、自分たちは「左翼ではない」というだろうが、同じ「反米、反韓のナショナリズム」の流れの中の住民だからである。












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