タイトルはキャッチーですが、真面目にぼくが「アーティストとしてどう在りたいか」について書きたい思います。
ぼくは自分の絵が上手いとか、才能あるなんてこれっぽっちも思っていません。
しかし、ぼくのように絵が上手くない人間が画家を目指しちゃいけない訳ではありません。
唄が音痴の人が歌手を目指しちゃいけない訳ではありません。
リズム感が無くてギターが上手くない人がギタリストを目指しちゃいけない訳ではありません。
世間はやれ技術だ、才能だと声高に言うけれど本当にそうでしょうか?
たしかに技術力がめっぽう高くて歌の上手い人が歌手にはたくさんいるけれど。
そうでない歌手だっていっぱいいるじゃないですか。
ぼくはパンクロックバンドの銀杏BOYSがとても好きで、ボーカルの峯田さんもとても好きです。
彼の唄や声はたしかに魅力的。
しかし、「唄がうまいか?」と言われると決してそうじゃないと思っています。
伝説のパンクバンドであるセックスピストルズのベーシスト シド・ビシャスはカリスマ的存在だったけれど肝心のベースは全然上手くなかったそうです。
ぼくの尊敬する画家であるバスキアも絵の学校も出ていなくて、すべて我流。
彼の作品を観てもお世辞にも絵が上手いとは言い難いです。
しかし、バスキアの絵にはどこか底知れぬ闇とすさまじい生命力を感じさせられて、ともて魅力的なのです。
バスキアの作品は今でも何十億円で取引されています。
このように決して唄が上手くなくとも、ベースが上手くなくとも、絵が上手くなくともカリスマ的な存在になった人がたくさんいるんですよ。
ぼくは生意気な言い方だと重々承知で、彼らをこう呼びます。
彼らは一流の「三流」アーティストだと。
たとえ技術や才能が三流であっても、その三流さを磨き上げればその中で一流になれるのです。
そして、その異質なアート性や奇妙な生き方に多くの人が魅了されてカリスマにだってなれるのです。
やれ技術だ、やれ才能だと批判する人たちは、アーティストになる人生を諦めてしまった人か、それすら選べなかった人です。
技術や才能が無いとアーティストとして生きていけないなんて真っ赤な嘘。
セックスピストルズやバスキアといった歴史上の人物がそれを証明しています。
だから、ぼく自身も突出した技術もなければ、アートの才能もない三流アーティストですが、一流の「三流アーティスト」を目指していきたいと思います。
そして、そんなぼくの生き方を見た人が「えっこんなヤツでもアーティストになれるなら、オレ(ワタシ)だって!」と思ってもらったりしたら、すごく嬉しいです。
ぼくが言いたいのは全員が一流を目指さなくてもいいということです。
三流でもいいじゃないかと。
三流には三流のやりたい表現があるし、生き方がある。
三流だからって惨めにならなくていいんです。
三流だからってアーティストとして生きていけないわけじゃないんです。
三流は三流の生き方でアーティストとして花を咲かしていきましょう。
そして、一流の三流を目指していきましょう。
おそらく、ぼくが今回言ったことはアーティストだけしか当てはまらない内容ではありません。
サラリーマンでも、専業主婦でも、美容師でも、学生でも何でも当てはまることだと思います。
みんながみんな、その職業や肩書きのピラミッドの頂点を目指す必要なんて無いんですよ。
これは生き方の問題です。自分独自の生き方があっていいんです。
あなたは、どのように生きたいですか?
それでは今日はこのへんで。
わっしょい!