重大事件のニュースを見ると、なぜ、そんな愚かなことをしたのかと思うことがあります。事件を起こした当人も、もしかしたら逮捕された時にそう思ったかもしれません。
「あの時、思いとどまることができたのに」
事件を起こす前に何度も葛藤があったと思いますが、最終的に犯罪を犯す決断をするのは、何かそうしなければならない気持ちが、その時にはあったはずです。
集団犯罪は実行までのハードルが低くなるのか
遠藤周作さんの小説「海と毒薬」では、第2次大戦中に日本軍の要請で医師が米兵の捕虜を人体実験します。
実験に関わった医師と看護婦は数名いたのですが、人体実験の話を聞いた時、誰も断ることはありませんでした。一人くらいは断っても良さそうなのですが、話を聞いた全員が人体実験に参加しています。まるで、いつもしている手術と変わらないような感じで。
集団の中にいると、それが非日常的なことだと気付かなくさせるのか、それとも断りたいけども何か不思議な力によって犯罪に参加しなければならないと思い込んでしまうのか。もしも、自分一人だけで人体実験をするように依頼されていたとしても、同じように承諾していたのか。
いろいろと考えられることはありますが、一人よりも複数人での犯罪の方が、決断のハードルは下がるような気がします。
生い立ちが将来を決めるのか
小説の中では、戸田という医師が登場します。
彼は、幼少期から優秀で、学校で先生によく褒められる優等生でした。でも、本当の優等生ではなく、大人が喜ぶことをよく理解している少年で、要領が良かったという方が適しています。
大人から褒められる少年には、彼と同じように大人が求めていることを理解するのが得意なところがあるのでしょう。そして、大人が喜びそうな行動をすることで、周囲から優等生と見られるようになっていきます。
しかし、戸田も子供の時に悪いことをしたことはあります。多くの子供は、悪いことをした後に良心の呵責にさいなまれますが、彼にはそのような感情は湧き上がってきませんでした。ただ、醜態だったと思うだけです。
相手に対して悪かったと思うのではなく、自分の行為がスマートでなかったことに後悔しているように見えます。
それならば、なぜこんな手記を今日、ぼくは書いたのだろう。不気味だからだ。他人の眼や社会の罰だけにしか恐れを感ぜず、それが除かれれば恐れも消える自分が不気味になってきたからだ。
不気味といえば誇張がある。ふしぎのほうがまだピッタリとする。ぼくはあなた達にもききたい、あなた達もやはり、ぼくと同じように一皮むけば、他人の死、他人の苦しみに無感動なのだろうか。多少の悪ならば社会から罰せられない以上はそれほどの後ろめたさ、恥ずかしさもなく今日まで通してきたのだろうか。そしてある日、そんな自分が不思議だと感じたことがあるだろうか。
(120~121ページ)
罪の意識は、人によって違うと思います。
道端に落ちている硬貨を拾うだけで悪だと思う人もいれば、それくらいなら許されると思う人もいます。
その考え方の違いはどこにあるのか。生い立ちによって罪の重さの感じ方が異なるのか。
よくわかりません。
しかし、罪の意識の違いは、集団の中にいるとなくなってくるのかもしれません。道端に落ちている硬貨を拾うことは悪いことだと思っていても、自分が属する集団の他の構成員が当たり前のように落ちている硬貨をポケットに入れる仕草を見ているうちにそれを悪いことだと感じなくなってくることはあるでしょう。
人が持つ善悪の感情は、あっけなく変わるものなのかもしれません。
- 作者: 遠藤周作
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