第8話 いま自分にできること
冬の冷たい空気に洗われた夜空は、とても澄みきっていて、瞬く星の一つ一つが明瞭に見える。まるでプラネタリウムのように壮大な夜空だ。長い一日を終えた小鳥は宿舎の屋上にいた。あのあと鷲尾2佐たちは、わざわざ小鳥の様子を見に来てくれて、「もう大丈夫なのか」や「あまり無理はするなよ」など、一様に優しい言葉をかけてくれた。
だけれど小鳥は彼らの優しさがひどく辛かった。慰めの言葉をかけられるたびに、小鳥は自分の不甲斐なさを思い知らされてしまうのだ。嘆息した小鳥はポケットからスマートフォンを取り出した。星を見ながら小鳥はスマートフォンを耳に当てて待つ。数回のコール音のあと回線が繋がった。
『はい、桜木です』
「もしもし、母さん? わたし、小鳥よ」
小鳥が名前を言うと、電話口の相手はやや驚いたようだった。小鳥が電話をかけたのは母親の咲織だ。小鳥が航空自衛隊に入隊した今は、遠く離れた東京で静かに暮らしている。
『小鳥? 電話なんて珍しいわね。どうしたの?』
「うん……ちょっと母さんの声が聞きたくなって」
『それは嘘。なにか話したいことがあって、電話したんでしょう?』
小鳥は言葉を失った。咲織に見事に言い当てられたからである。確かにそのとおりだった。心に溜まった暗い気持ちを吐き出したかった、誰でもいいから話を聞いてほしかった。だけれど松島基地には友人も家族もいない。だから小鳥は咲織に電話をかけたのだ。深呼吸をした小鳥は胸の内を話し始めた。
「部隊に、ブルーインパルスのエースって呼ばれてる、天羽さんっていう人がいるんだけど、わたしね、天羽さんと一緒に5番機に乗っているとき、後ろで吐いちゃったんだ。わたしの代わりなんて、探せばいくらでもいる。熱意や憧れだけで飛べるほど、ブルーの空は甘くないんだって、そのあと天羽さんに言われたの。……天羽さんが言ったとおりだわ。わたしみたいな未熟なパイロットは、ドルフィンライダーにはなれないんだわ」
電話の向こうの咲織は、ときどき相槌を打ちながら、小鳥の話を聞いている。果たして咲織はどういうふうに思っているのだろう。話し終えた小鳥は咲織の言葉を待った。
『ねえ、小鳥。はじめから上手に飛べる人なんていないわ。無理をしないで、いま自分にできることを、少しずつやっていけばいいの。天羽さんは小鳥を心配して言ってくれたのよ。彼は不器用な人だから、思わず言葉がきつくなったんじゃないかって思うの。小鳥は立派なドルフィンライダーになれるって、父さんも言っていたじゃない。もちろん私だってそう思っているわ。だからあきらめないで、自分を信じて頑張りなさい』
力強くて優しい咲織の言葉が小鳥の心に沁みていく。朝の光をいっぱいに浴びたときのように、心が晴れやかになっていくのを小鳥は感じた。
「……ありがとう、母さん」
『ふふ。お礼なんていいのよ。久しぶりにあなたの声が聞けて嬉しかったわ。いつでも電話してちょうだいね。待ってるから』
電話を切った小鳥は夜空を見上げた。小鳥はまだ最初の一歩を踏み出したばかり。あきらめるには早すぎる。青と白のドルフィンで空を飛ぶのをずっと夢見ていた。そしてついに夢の翼を得ることができた。それに同じ空を飛ぶと勇樹と約束したのだ。だからこんなところで挫けてなんかいられない。
明日を頑張ろうという活力が、軽くなった心に湧いてくる。そんな小鳥を応援するかのように、見上げる夜空に瞬く星の一つが、ひときわ強い輝きを放っていた。
★
東のほうからうっすらと、明るくなり始めた淡い瑠璃色の空には、まだ少し夜の気配が残っている。エプロンに並んでいるのは六機のT‐4だ。小鳥は作業服の袖を二の腕までまくり上げ、5番機の翼の上に乗って機体磨きをしていた。
主翼、胴体、垂直尾翼と水平尾翼、「平常心!」のステッカーが貼られたキャノピーなど、小鳥は5番機を隅々まで、徹底的かつ丹念に磨きあげていく。5番機の隣にある6番機も、担当の整備員が同じように機体を磨いていた。
「……なにをやっているんだ」
呆れたような声が聞こえたので、小鳥は首を捻って後ろを振り向いた。後ろに立っているのは、パイロットスーツを着た流星だ。機体磨きに熱中していたから、流星が来ていたことに全然気づかなかった。5番機から降りた小鳥はすぐに背筋を伸ばした。
「おはようございます! 天羽1尉!」
「おはようございます! じゃねぇよ。……おまえ、こんな朝早くから、しかも俺の5番機に、いったいなにをやっているんだ」
「昨日、天羽1尉に迷惑をかけてしまったので、5番機の機体磨きをしているんです!」
流星に訊かれて小鳥は素直に答えた。5番機の座席を汚してしまい、流星に迷惑をかけてしまった小鳥は、自分になにができるかを考えた。小鳥は5番機の整備担当の整備員に無理を言って、早朝から機体磨きをさせてもらっているのだ。大きく嘆息した流星は、クレバスのような深い縦皺を眉間に刻んだ。どうやら自分は余計なことをしてしまったらしい。
「機体を整備点検して、綺麗にするのは整備員の仕事で、俺たちパイロットの仕事じゃない。名誉挽回したいのなら、機体磨きをするんじゃなくて、飛行訓練に励んで、1日でも早く6番機のORパイロットに昇格しろ」
「……はい。すみませんでした」
小鳥は肩を落として落ち込んだ。正論を叩きつけられてぐうの音も出ない。確かに流星の言うとおりである。機体の整備点検は、整備員の仕事であって、パイロットの仕事ではない。自分には6番機のORパイロットになるという、なによりも大事な使命があるではないか。もしも時間を遡ることができるのなら、過去の自分に物事の優先順位を間違えるなと、きつく忠告してやりたい思いだ。小鳥はさらに峻烈な言葉を浴びせられるのを覚悟した。
「……悪かったな」
「へっ!? 悪かったって――どうして天羽1尉がわたしに謝るんですか?」
いやいや謝りたいのはこちらのほうなのだが。目を丸くする小鳥の前で流星は続けた。
「昨日はきついことを言って悪かった。……その、なんだ、ブルーに女性パイロットがくるって聞いて、ガキみたいに戸惑って、どう接したらいいのか、全然分からなかったんだ。だから、あれは、おまえが嫌いだから言ったわけじゃない、無理をさせたくなかったんだよ。無理をするな、心配しているんだって、素直に言えばいいのに、これじゃあ嫌われても仕方がないな」
「嫌いじゃありません!」
早朝のエプロンに小鳥の声が響き渡る。いきなり大声をぶつけられた流星は驚いていた。
「天羽1尉のことは嫌いじゃありません! 天羽1尉はわたしの憧れの人なんですから、嫌いになるわけありません! でも、たんに憧れているだけで、恋をしているわけじゃないですよ!?」
いったい自分はなにを言っているのだ。まるで女子中学生の愛の告白みたいではないか。
「なんだよそれ。支離滅裂じゃねぇか。……つまり、おまえは、俺のことを怒っていないんだな?」
「はい。天羽1尉が、わたしのことを思って言ってくれたのは、分かっていますから」
「そうか」と呟いた流星は、安堵で胸を撫で下ろしたように、大きく息を吐いた。硬くなっていた表情も和らいでいて、胸につかえていたものが綺麗に取れたような、すっきりとした表情になっている。
もしかしたら流星は、小鳥に冷たく当たってしまったことを、今までずっと気に病んでいたのかもしれない。咲織が言っていたとおり、思っていることを、なかなか素直に伝えられない不器用な青年なのだ。流星は小鳥に向けて右手を差し出した。
「あのときはちゃんとした自己紹介をしていなかったよな。タックネームはシューティングスター、5番機パイロットの天羽流星1等空尉だ。言っておくが、おまえが女だからって、俺は手加減も容赦もしないからな。覚悟しておけよ」
「はい! タックネームはバードの桜木小鳥2等空尉です! これからよろしくお願いします!」
小鳥と握手を交わした流星は、隊舎の中に入っていった。流星と握手できた喜びを抑えられなくて、小鳥は満面の笑顔を浮かべた。
東の空が黄金色に輝き始め、朝陽が放った巨大な黄金の矢が、暗かった空を明るく照らしていく。きっと今日は快晴になり、絶好の飛行日和になるだろう。そして小鳥は、いまこの瞬間に、本当の意味での、新しい第一歩を踏み出したのだった。
IMPULSE BLUE -大空の軌跡- 蒼井青空 @TsukiUsagi
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