第7話 思わぬ失態
朝晩はまだ冷えるけれど、昼間の日射しや空気に、春の暖かさが感じられるようになった季節。小鳥が第11飛行隊に着隊してから、もうすぐ2ヶ月が経とうとしていた。小鳥は師匠の赤峰1尉から、6番機の基本的な曲技飛行の操縦操作と、細かなテクニックを教わりつつ、1番機から4番機の後席に搭乗して、各機と自機が担う役割を勉強していた。
だが小鳥はとんでもない失態をしてしまう。それは流星が操縦する5番機の後席に初めて乗ったときだった。
背面飛行。背面からの連続横転機動。時速800キロの速度で、一気に9000フィートまで翔け上がるときの、強烈な重力加速度。初めて体験するそれらに、腹部を激しく絞り上げられた小鳥は気持ち悪くなり、あろうことか5番機の後席コクピットの中で、盛大に吐いてしまったのだ。どうやら小鳥の吐いた嘔吐物の悪臭が届いたらしい。前席の流星が肩越しにこちらを振り向いた。
『なっ――!? おまえ、なにやってるんだよ!』
『ごめんなさい……気分が悪くなって……』
謝った直後に小鳥はまた吐いてしまう。おまけにタック・クロスのロール機動の最中だったので、小鳥の口から飛び出した濁った黄色の液体は、キャノピーの四方に飛び散った。
小鳥の意識は明瞭さを失い混濁していく。それからのことは、細切れのフィルムのように、よく覚えていない。気づけば浮揚感が消えて、重力が身体を包んでいた。青い空が遠く離れて見える。小鳥は空から地上に連れ戻されたのだ。
急いで走ってきた整備員が、5番機の左側に梯子を固定する。小鳥は小刻みに痙攣を繰り返す己の身体に鞭を打ち、心配そうに見守る整備員の手を借りて、なんとか後席から這い出すことができた。だが地面に立ったその瞬間、酷い目眩と吐き気が小鳥の頭蓋と胸を殴りつけた。
頭の上の青空がぐるぐると回り始める。それと同時に、小鳥の身体を支えている両足が、笑いを堪えているかのように震えはじめた。これは意識を失う前兆だ。小鳥は目眩と吐き気と戦っていたけれど、奮闘も虚しく身体を支えていた両足が折れてしまい、彼女の身体は地面に吸い寄せられるように傾いた。
しかし小鳥は地面に倒れなかった。誰かが地面に倒れる寸前だった、小鳥の身体を腕に抱き留めたのだ。小鳥はそのまま横抱きに抱き上げられ、彼女を抱き上げた人物が早足で歩き出す。いったい誰が自分を運んでいるのだろう。小鳥は無理をして上を見やる。ぐるぐると回り続ける視界に映ったのは、流星の端正な横顔だった。まさか流星に運ばれているなんて――! 焦った小鳥は身を起こそうと動いた。
「天羽1尉……わたしは、大丈夫です……早く座席の掃除をしないと……。それに天羽1尉の服が汚れちゃいます……」
「真っ白な顔をしてどこが大丈夫なんだよ。汚れた服は洗えばいい。いいから黙っておとなしくしてろ、馬鹿」
流星は飛行隊隊舎に入ると廊下を進み、テレビと雑誌棚、流し台と食器棚が置かれた部屋のソファーに、抱いている小鳥を横たえた。次に流星はタオルを水で湿らせると、嘔吐物で汚れた小鳥の口元と襟元を拭いてくれた。まるで小鳥は、母親の胎内から生まれ出てきたばかりの赤子のようだ。小鳥は恥ずかしさで頭がいっぱいになり、穴があったら入りたいと思った。
「隊長には俺が話しておく。今日の訓練はやめて、宿舎に戻って休んでろ」
突然の戦力外通知に小鳥は愕然とした。だが流星が下した判断は正しい。航空機の操縦には強靭な体力と精神力が必要となる。パイロットは2000メートル以上の高空を飛び、身体も脳髄も激しい機動で生じるGに耐えねばならないので、体力の維持は絶対条件だ。だから体調を崩せば、すぐさま飛行機から降ろされてしまうのである。
「待ってください! わたしは大丈夫です! ちゃんと飛べます!」
ソファーから立ち上がった直後、小鳥は再び強烈な目眩に頭蓋を殴られてしまった。ぐらりとよろめいた小鳥を支えたのは、素早く前に踏み出した流星の手だ。
「そんな身体のまま訓練に参加したって、俺たちの足を引っ張るだけだし、迷惑をかけるだけだ。それにおまえの代わりなんて、探せばいくらでもいる。ドルフィンライダーになりたいパイロットはたくさんいるからな。熱意や憧れだけで飛べるほど、ブルーの空は甘くないんだよ」
なんとか食い下がろうとする小鳥に、峻烈な言葉を放った流星は、ドアを開けて部屋から出て行った。
目眩が治まると、小鳥は飛行隊隊舎から出てエプロンを見やった。ブルーインパルスの整備員たちが、次のセカンド・フライトに備えて、機体の飛行後点検を行っている。
5番機の代わりに引き出されているのは予備機の7番機だ。小鳥に5番機を使用不能にされた流星が搭乗するのだろう。デブリーフィングにいったのか、鷲尾2佐たちの姿は見当たらない。小鳥は安堵した。惨めで情けない自分の姿を、これ以上みんなに見られたくなかったからだ。
例えそこに小鳥がいてもいなくても、飛行訓練は続けられて、世界は明日に向かって進んでいく。苛立ち。劣等感。己の不甲斐なさ。心に痛みを覚えた小鳥は視線を空に向けた。
子供の頃に空を飛ぶことを強く夢見て、心の底から飛びたいと願った青空が広がっている。それなのにその青空が、どんなに手を伸ばしても届かない場所にある、とても遠い存在のように思えたのだった。
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