第5話 ブルーインパルスのエース

 明るくなった東の空から冬の朝陽が降り注ぎ、空と海と松島基地を赤みがかった黄金色に染めていく。時刻は午前6時過ぎ。朝食を済ませた小鳥は、第11飛行隊隊舎のブリーフィングルームの掃除をしていた。もちろん鷲尾2佐たちはまだ来ていない。いの一番に部屋にきて、ブリーフィングの準備を整えたりお茶出しをするのは、部隊に入ってきたばかりの、新人隊員の役目だと決まっているからだ。


 窓を覆うブラインドを引き上げて、朝の日差しを部屋に入れ、パソコンの電源を入れて起動する。ゴミや埃が落ちていないか指差し点検をしていると、パイロットスーツを着た男性隊員が入ってきた。


 一番乗りの小鳥に気づいた隊員は、ぎょっとしたように立ち止まった。失礼な反応だけれど、ぎょっとしたのは小鳥も同じである。なぜなら小鳥の次にやってきたのは、5番機パイロットの天羽流星1等空尉だったのだ。


「おっ、おはようございます! 天羽1尉!」


「……ああ」


 小鳥は頑張って元気に挨拶をしたが、流星は短く返すと窓際の席に座り、すらりと伸びた長い腕と脚を組んで、すぐに目を閉じてしまった。昨日と同じ素っ気ない態度に小鳥はがっかりしたが、気を取り直して流星の斜め向かい側の席に座った。ややあって鷲尾2佐たちがブリーフィングルームにやってくる。そして最後に、総括班と松島気象隊の隊員が入ってきて、午前6時半過ぎに飛行班が行うモーニングレポートが始まった。


 まずは気象隊による基地周辺の天気予報にはじまり、その日の留意事項を確認する。ホワイトボードに飛行計画を書いたり、他部隊と連絡を取ったりと、忙しく動き回っているのは総括班の隊員だ。モーニングレポートが終わると、次は飛行班のプリブリーフィングが開かれた。


 この日のファーストフライトは、基地上空で行う飛行場訓練フィールドアクロ、午後からのセカンドフライトとサードフライトは、金華山半島東岸沖の空域で行う、洋上アクロ訓練に決まる。今日は訓練初日ということなので、小鳥は隊舎の屋上にある観覧席で、飛行班長の朝倉友哉2等空佐と一緒に、飛行訓練を見学することになった。


「隊長! 今日は可愛い弟子のために気合いを入れて飛びますよ!」


「そうだな。しかし気合いを入れて飛んでくれるのは嬉しいが、サンライズのときに、一人だけ違った方向に飛ぶんじゃないぞ」


 赤峰1尉に鷲尾2佐が軽口で返すと、晴れやかな笑い声が起こった。鷲尾2佐が

「復唱、よろしく」と言うと、笑っていた朝倉2佐たちは、一様に表情をきりっと引き締めた。


 続いて全員がミーティングテーブルの上に右手を置く。航空自衛隊に密着取材したテレビ番組で見たことがある。あれは六機の一斉横転課目、ボントンロールのスティック操作といい、飛行隊長の最後のコールに合わせて、全員が一斉に右手首を倒し、全員の呼吸と気持ちを合わせるのだ。藤森2尉に手順を教えてもらった小鳥も、やや緊張しながら右手をテーブルに置いた。


「ワン、スモーク! スモーク、ボントン・ロール! ワン、スモーク! ボントン・ロール! スモーク、ナウ! (スモークをオン! スモークをオフ! ボントン・ロールの隊形に開け! スモークをオン! ボントン・ロール用意! スモークをオフ! ロールせよ!)」


「スモーク、ナウ!」


 ボントン・ロールのコールを復唱した小鳥たちは、「ナウ!」に合わせて一斉に右手を倒した。すると真冬の滝に打たれたように、小鳥は心身が引き締まるのを感じた。


「桜木、ちょっとだけいいか?」


 プリブリーフィングが終わったあと、師匠の赤峰1尉が小鳥に声をかけてきた。小鳥が「はい」と返すと、側にやって来た赤峰1尉は、内緒話をするように声を潜めた。


「余裕があったら、天羽のアクロバットを見ておけよ。あいつはブルーインパルスのエースって言われてるからな。おまえはいずれ、天羽とデュアルソロを飛ぶことになるんだから、早いうちからあいつの飛行をよく見て、覚えておいたほうがいいぞ」


「ブルーインパルスのエース――」


 まるで流星にライバル意識を抱いているかのように、赤峰1尉の表情と声には、どことなくだが力が入っているような気がした。誰かに見られているという、微妙な感覚を背中に覚えた小鳥は後ろを振り返る。すると流星が小鳥を見つめていた。静かではあるが、奥深くに複雑な感情を宿した目だ。気づいた小鳥と視線がぶつかると、流星は素早く視線を外し、ブリーフィングルームを出て行った。


 鷲尾2佐たちと別れた小鳥は、朝倉2佐と一緒に隊舎屋上の観覧席に向かった。訓練が始まると、エプロンの端に一列に並んだ鷲尾2佐たちは、ウォークダウンと呼ばれる行進で、それぞれが乗る機体を目指して歩いていく。飛行場訓練のときは、ウォークダウンやナレーションなど、本番さながらの一連の流れが、併せて演練されることがあるのだ。順番に解散していった鷲尾2佐たちは、機付き整備員と敬礼を交わして、梯子に掛けられている装備を、手際よく身に着けていった。


 青と白のT‐4に搭乗した鷲尾2佐たちは、それぞれ整備員とハンドシグナルで連携して、双発のエンジンを目覚めさせた。「ヒィィーン」と高い音が鳴り響き、ポジションナンバーの描かれた、垂直尾翼のストロボライトが、星のように点灯する。同時にジェット噴流に押し出されたスモークが空に昇っていった。敬礼する整備員が見送るなか、縦一列に並んだT‐4は、1番機から順番にタクシーアウトしていった。


 最初に離陸するのは1番機から4番機だ。人差し指から小指までが並んだような、フィンガーチップ隊形を組んだ、1・2・3・4番機が、スモークの白煙を曳きながら、フィンガーチップ隊形を菱形のダイヤモンドに変える。そして四機はギアとフラップを下ろしたままの、ダイヤモンド・テイクオフ&ダーティーターンで、青空へ離陸していった。


『ファイブ、スモーク・オン。ローアングル・キューバン・テイクオフ、レッツゴー』


『シックス、スモーク・オン! ロールオン・テイクオフ、レッツゴー!』


 冷静な流星の声と、意気軒昂な赤峰1尉の声が、朝倉2佐が持つエアバンドレシーバーから聞こえた。滑走路を走り出した5番機と6番機が、デュアルテイクオフの、ローアングル・キューバン・テイクオフと、ロールオン・テイクオフで離陸する。上空でジョインナップした六機のT‐4は、快晴の松島の空に次々とアクロバットの軌跡を描いていく。そして観覧席に座る小鳥は、空の芸術から1秒たりとも目が離せなかった。


「長時間のマイナスGにさらされているはずのに、正確なロールを打つなんてすごい――」


 5番機が繰り出した、背面からの連続横転機動に圧倒された小鳥は、思わず感嘆の言葉を呟いていた。そんな小鳥の言葉に答えたのは、隣に立っている朝倉2佐だ。


「インバーテッド・ロール。宙吊りとなる背面飛行から、連続横転を行ったあと、再度背面に戻るという過酷な課目だ。それでも天羽が繰り出す連続横転機動は絶対に狂わない。いつ見ても舌を巻く思いだよ。さすがブルーインパルスのエースと言われるだけはある」


「赤峰1尉も天羽1尉はブルーインパルスのエースだと言っていました。……本当にそのとおりだと思います」


 拳を握り締めた小鳥の胸に湧き上がったのは、不安という感情だった。部隊に配属されてから、まだ1日しか経っていないというのに、小鳥はもう高い壁にぶち当たったような気持ちになっていた。なにせ圧倒的な技術を目の前で見せつけられたのだ。小鳥が意気消沈するのも無理はないと言えよう。


「不安に思っているようだね」


「えっ?」


「天羽と飛ぶことができるのか。いまそう思っているだろう?」


 朝倉2佐に心の内を見透かされた小鳥は彼の方を向いた。


「桜木が天羽の飛行技術に追いつくには時間がかかるだろう。でも君はブルーインパルスのパイロットに抜擢された。それは相応の力が君にあるということだ。だからもっと自分に自信を持ちなさい。心配しなくていい、私たちは最後まで君をサポートするよ。私たちはチームなんだから、桜木を一人で飛ばせたりなんかしないさ。だから一緒に頑張ろう」


「――はい!」


 力強く返した小鳥は再び空を仰ぎ見た。甲高い音を轟かせながら、青空の彼方から5番機と6番機が、それぞれ左右から高速で飛んでくる。二機は同時に右ロールを打つと、連続横転しながら、あたかも稲妻のように鋭く交差した。交差した二機の軌跡が放った青い衝撃は、小鳥の心を強く揺さぶった。


(天羽1尉。わたしは絶対あなたに追いついてみせます。あなたとデュアルソロを飛ぶのが、わたしの夢だから――)


 届かないと分かっていたけれど、交差したスモークが浮かぶ青天に向けて、小鳥は心の声を飛ばした。

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