IMPULSE BLUE -大空の軌跡-
蒼井青空
プロローグ Dolphin In The Sky
第1話 はじまりの航空祭
遠く彼方まで広がる空は青く澄みわたり、空に真っ白な入道雲が浮かんだ夏の日。爽やかな快晴に恵まれた、宮城県の航空自衛隊松島基地は、大勢の人たちで埋め尽くされていた。まるで休日のディズニーランドのような、あるいは早朝の満員電車のような大混雑ぶりである。
おまけに自衛隊の基地とは思えない明るく開放的な雰囲気だ。それにしたって、どうしてこんなに明るく開放的で、大混雑しているのだろうか? それは春から秋にかけて、1年に1日程度開催される、航空自衛隊の広報活動の一環である航空祭が、松島基地で開かれているからなのだ。
(どうしよう……お父さんとお母さんとはぐれちゃった……)
混雑する松島基地の一角で、見た目は小学生くらいの女の子が、落ち着きなく周囲を見回していた。少女の名前は桜木小鳥。今日は両親と一緒に、遠路はるばる航空祭に来たのだけれど、地上展示機やグッズ販売の店を見て回っているうちに、小鳥は両親とはぐれてしまったのである。
しかし周りの人たちは、小鳥が迷子だということに、まったく気づいていない様子だ。人混みの中を右往左往しながら、小鳥は必死になって両親の姿を捜すが見つからない。海岸に打ち上げられた鯨のような、恐怖と孤独感に小鳥が襲われかけたそのときだった。
「きゃっ!」
「うわっ!?」
二人ぶんの悲鳴が上がる。両親を捜すことだけに気を取られていた小鳥は、少し前方を歩いていた人の背中に、思いきりぶつかってしまったのだ。背中に一撃を食らった人物がゆっくりと振り向いた。
小鳥がぶつかったのは、端正な容姿をした中学生くらいの少年で、彼は振り返るなり小鳥を睨みつけてきた。少年に睨まれた小鳥は、緊張と恐怖でその身を強張らせる。言葉よりも先に暴力を振るわれるのではないかと思ったからだ。
「おい! ちゃんと前を見て歩けよ!」
「ごっ……ごめんなさっ……ふっ……ふえええぇぇんっ!!」
少年の怒鳴り声が耳朶を打ったその瞬間、両親とはぐれた焦りと恐怖と孤独感が、渾然一体となって押し寄せてきて、小鳥は泣き出してしまった。周りの人々は気にも留めていない様子で通り過ぎていく。きっと兄妹喧嘩の末に泣き出したと思っているのだろう。大泣きする小鳥を前にした少年は、それこそ石像のように硬直していたが、ややあって小鳥の手を掴むと、人が少ない場所まで彼女を連れ出した。
「いっ、いきなり泣くなよ! 俺が泣かせたみたいじゃないか――って、俺が泣かせちまったんだよな。……怒鳴ってごめんな」
「ううん、ぶつかったわたしが悪いの。……ごめんなさい」
「おまえ、もしかして迷子か? まさか一人で来たわけじゃないよな」
少年の問いかけに小鳥は素直に頷いた。
「お父さんとお母さんとはぐれちゃって……ずっと捜しているけど、見つからないの」
唇を結んだ小鳥は項垂れる。まさかこのまま両親と永遠に会えないのだろうか――。不意に優しく肩を叩かれる。父親のように大きくて、だけれど華奢なその手は、小鳥がぶつかった少年の手だった。
「そんな顔をするなよ。俺が一緒に捜してやるから。な?」
「えっ? でも……いいの?」
「困った人を見かけたら助けるのが当たり前だろ。ほら、早く捜しに行くぞ」
と言った少年は小鳥の手を取ると歩き出した。ピクニックエリア、売店エリア、シャトルバスの乗降場、格納庫の中など、小鳥は少年と一緒に訪れたけれど、両親の姿はどこにも見当たらなかった。これだけ探し回っても見つからないなんて、まるで神様が意地悪しているみたいだ。エプロンに来たところで二人は足を止めた。
「おまえの両親、見つからないな」
「……うん」
「やっぱり総合案内所に行ったほうがいいか――」
『ご来場の皆様、本日はようこそ松島基地航空祭においで下さいました! ただいまから、ブルーインパルスの展示飛行を開始いたします! これから約35分間、ダイナミックなアクロバット飛行と、美しい編隊飛行の妙技をお楽しみください!』
少年が嘆息したそのときだ。展示飛行の幕開けを告げるアナウンスが、スピーカーから流れてきた。あちこち捜し回っているうちに、どうやら展示飛行の時間がきてしまったらしい。アナウンスを聞いた人たちが、エプロンに集まってきたので、すぐに身動きが取れない状態になってしまった。
あまり動き回らないほうがいいかもしれないと少年が言ったので、小鳥はエプロンに留まることにした。はぐれたくない小鳥は隣に立つ少年にしがみつく。しがみつかれた少年は、石に躓いたような驚いた顔をしたけれど、小鳥の肩を優しく抱いてくれた。
『進入してまいりました。会場左手方向にご注目ください。それぞれのパイロットの優れたテクニックと、お互いの信頼がなければ、このような密集した隊形は組めません』
見習いパイロットのナレーションが響いてからすぐに、菱形のダイヤモンド隊形を組んだ、四機編隊の飛行機が飛んできた。青と白のツートンカラーに、鏡のように磨かれた飛行機は、航空祭の最後を飾るブルーインパルスの、T‐4中等練習機ドルフィンだ。
ファンブレイクで会場の中心を旋回する、四機編隊の距離はとても近く、翼と翼が今にもぶつかってしまいそうだ。迫力満点に頭上を飛んでいくT‐4を、観客たちは携帯やカメラで撮影したり、手を振ったりしている。
ブルーインパルスのT‐4は、ほとんどお腹を重ねるように駆け抜けていったり、横転しながら天高く駆け上がったり、雄大な宙返りを打ったりしながら、自由自在に群青の夏空を飛んでいく。
ブルーインパルスがアクロバット飛行を披露するたびに、観客たちは夢中になってT‐4を追いかけている。それは小鳥も同じだった。両親とはぐれたことも忘れた小鳥は、瞳を輝かせてブルーインパルスのT‐4を追いかけていたのだ。
「おまえって、ブルーインパルスが大好きなんだな」
「えっ? どうして分かったの?」
少年に言い当てられた小鳥は目を丸くした。
「だってさ、さっきまで泣きべそかいてたっていうのに、ブルーインパルスの展示飛行が始まったとたん、泣きやんだんだぞ? おまけに嬉しそうに笑いながら、ブルーインパルスを追いかけてるんだ。わざわざ訊かなくたって分かるさ」
少年に言われて小鳥は気づいた。両親とはぐれたときに感じた、恐怖と焦燥と孤独感は、ブルーインパルスが空を飛んだその瞬間、泡が弾けるように小鳥の中から消えていたのだ。
気持ちがどんなに暗く沈んでいても、青と白の飛行機を見ただけで、不思議と心はすっきりと爽快になる。きっとあの翼には、みんなを元気にさせる、特別な魔法がかかっているに違いない。不意に少年が空を指差した。少年が指差した先を見やると、編隊を率いた1番機が飛んでいくところだった。
「――俺の父さんは航空自衛隊のパイロットでさ、今はブルーインパルスの1番機に乗っているんだ」
「そうなの? わたしのお父さんも、航空自衛隊のパイロットで、ブルーインパルスのパイロットを目指しているのよ。それでね、わたしもパイロットになって、お父さんと一緒に空を飛ぶのが夢なの」
小鳥は嬉しそうに自らの夢を語った。小鳥の父親の桜木勇樹は、航空自衛隊のファイターパイロットで、F‐15イーグル戦闘機に乗って、日本の空を守っている。明朗快活で優しく誰からも慕われている自慢の父親だ。そんな勇樹の背中を見て育ってきた小鳥は、いつしか空に憧れるようになっていて、彼と同じ航空自衛隊のパイロットになりたいと、強く思うようになっていたのだ。
「……でもね、女の子はパイロットになれないの」
小鳥は華奢な肩を落とした。現在の航空自衛隊では、女性が戦闘機パイロットになることはできない。しかしブルーインパルスのパイロット、ドルフィンライダーを目指すには、まず第一に航空自衛隊の戦闘機パイロットにならなければいけないのだ。少年は滑らかな顎に手を当てて、なにやら考え込んでいたが、ややあって口を開いた。
「いまはそうだけれど、おまえが大人になる頃には、女の人が乗った戦闘機が、びゅんびゅん空を飛んでるかもしれないぞ?」
小鳥が「本当?」と尋ねると、肯定するように力強く頷いた少年は、向日葵のような明るい笑顔を浮かべて見せた。すると未来に垂れ込めた暗雲が、一気に晴れたように思えた。
「小鳥!」
名前を呼ばわれた小鳥は後ろを振り向いた。慌てた様子の一人の男性が、人混みを掻き分けながら、こちらに走ってくるのが見える。間違いない。小鳥が必死に捜していた父親の勇樹だ。隣の少年にそっと背中を押された小鳥は、勇樹のほうに向かって駆け出した。
「そこらじゅう探し回ったんだぞ! 父さんの側から離れるなって、あれほど言ったじゃないか! もしかしたら悪い人に誘拐されたんじゃないかって、父さんも母さんも心配したんだからな!」
「……ごめんなさい」
「まったく」と嘆息した勇樹は、叱られて落ち込んでいる小鳥の髪を、大きな手でくしゃくしゃに掻き回した。驚いた小鳥が顔を上げてみると、勇樹は呆れた顔をしていたけれど、見下ろす眼差しは春の日射しのように温かった。
「それにしても一人でよく頑張ったな。心細かっただろう?」
「ううん! あのお兄ちゃんが一緒だったから、大丈夫だったよ!」
小鳥は少し離れた所に立つ少年に目を向けた。視線を少年のほうに動かした勇樹は、彼のところに向かった。
「娘が迷惑をかけてしまったようで申し訳ない。側についていてくれてありがとう」
「いえ、気にしないでください。そろそろ戻らないと叱られますので、これで失礼します」
少年は二人に一礼すると、足早に人混みの中へ消えていった。あの少年がいなかったら、自分は勇樹と巡り会えていなかっただろう。勇樹に話したいことがある。小鳥は勇樹の服を引っ張った。
「お父さん。わたし、決めたよ。小鳥もブルーインパルスのパイロットになって、お父さんと一緒に空を飛ぶ」
「小鳥――」
小鳥の決意を聞いた勇樹は目を丸くした。10歳の女の子、それも自分の愛娘が、航空自衛隊のパイロットになると言ったのだから、勇樹が目を丸くして仰天するのも無理はないだろう。
「心に翼があれば誰だって空を飛べるって、お父さんは教えてくれたわ。だから、わたしは心の翼を広げて、ドルフィンライダーを目指して頑張りたいの」
――心に翼があれば誰だって空を飛べる。その言葉は勇樹が日頃から口癖にしているもので、小鳥にとっては神の御言葉よりも、神聖で尊いものだった。
「それを聞いたら、母さんは卒倒するだろうなぁ」
と勇樹は苦笑したけれど、溢れ出る喜びを、抑えきれないといった表情になっていた。
「そうだよ、小鳥。鳥みたいに翼がなくても、心に翼があれば誰だって空を飛べるんだ。心に大きな翼を持つ小鳥なら、きっと立派なドルフィンライダーになれるよ。父さんも全力で頑張るから、小鳥もドルフィンライダーを目指して頑張るんだぞ」
「うん!」
ジェットエンジンの音を響かせながら、六機のT‐4が小鳥たちのほうに飛んでくる。飛んできたT‐4は、それぞれ違う高度で旋回を始めた。旋回するT‐4の白い航跡雲が描くのは巨大な円。六つの大きな円が重なったあと、厳しい冬を乗り切った春の花が咲くように、空にはブルーインパルスが描いたサクラが咲き誇っていた。
(待っていてね、ブルーインパルス。いつかきっと、わたしもみんなのところにいくから――)
小鳥の純粋な夢を乗せたT‐4が、湖のように透きとおった青空の彼方に飛び去っていく。勇樹と手をつないだ小鳥は、夢が叶う予感を胸に感じながら、サクラが咲いた青空を、いつまでも見上げていた。
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