約450年前、厳しい下克上の戦国時代に、茶の湯は武士の間で大流行した。何が、彼らを引きつけたのか。また、2大天下人、織田信長と豊臣秀吉は、茶の湯とどのように付き合ったのか、その歴史に注目する。
「高校の歴史の教科書で、茶の湯に触れているのは、たった数行。村田珠光(むらたじゅこう)が侘(わ)び茶を始めて、武野紹鴎(たけのじょうおう)が発展させ、千利休(せんのりきゅう)が大成させたという文章だけです。しかし、茶の湯は安土桃山時代で一番重要な文化。戦国時代を理解するためには茶の湯を理解する必要があります」と言うのは、文教大学教授の中村修也さん。
中国から茶がもたらされたのは平安時代。鎌倉時代には茶が禅と結びつき、武士の間で、喫茶の習慣が流行し始めた。室町時代には、中国から入る「唐物(からもの)」を座敷飾りや茶道具に用いるようになり、「茶の湯」の形が出来上がる。
室町時代後期以降、それまで将軍や守護大名など一部の上流階級のものだった「唐物荘厳」の茶の湯に対し、山口(山口県)などで草庵の茶の湯が流行、茶の湯のあり方もバラエティーを見せ始めた。一方、堺(大阪府)などの富裕な商人は、売りに出された東山殿御物(ひがしやまどのごもつ。足利義政によって収集された茶道具など)を入手し、町衆の世界に「唐物名物」の世界を現出させた。その代表的存在が武野紹鴎。利休が茶人として立つ安土桃山時代には、茶の湯は、武将はもちろん町衆にも及んで、爆発的に流行した文化となった。
■戦場に身を置く武将がまともな精神を保つための手段
なぜ、茶の湯は戦国武将に愛されたのだろうか。それには戦国時代という時代の特性を考える必要があると、中村さんは言う。
「戦国時代は、人と人とが殺し合うのが日常です。応仁の乱以降、100年以上も続いた戦乱の時代、武将たちは、来る日も来る日も人を殺し、死体が転がり、死臭が漂う殺伐(さつばつ)とした戦場に身を置いている。彼らが、気が狂わないでいられたのは、何か癒やしがあったからだと考えざるを得ない。それが茶の湯だったのです。茶葉を碾(ひ)き、湯を沸かし、茶を点たてて静かに喫する行為は禅にも通じる、平常心を取り戻す手段でした」(中村さん)
戦場という極端な非日常から、家族と暮らす日常に戻る。そのときにいったん身を置き、心を整えるために不可欠だった一つの「変換装置」。それが「茶室」だった。
「茶室が空間として独立してくるのも、癒やしの特殊性を際立たせるためのものだったと思います」(中村さん)
■信長と秀吉の登場により、茶の湯が政治と結びつく
織田信長、豊臣秀吉という2大天下人により、茶の湯はますます発展する。信長は、後に秀吉に「御茶湯御政道(おんちゃのゆごせいどう)」と評されるように、茶の湯を政治に利用した。
「織田家は蹴鞠(けまり)や和歌に親しんでおり、信長も茶の湯を好んだのでしょう。お茶を好きになると、良い道具を使いたくなる。それが高じて信長は名物道具を集めました。多くはかつて足利義政が所有していたもの。信長は、義政の茶道具を茶会の席で使うことで、自分が足利幕府の後継者であることを武将たちや有力な町衆にアピールする、政治的効果を狙っていたのです。その上信長は名物を手に入れたら、家臣や町人に褒賞として譲ります。もらった相手は感激する。こうして茶の湯が、武将の心をさらにつかんでいったのです」(中村さん)
一方、秀吉は茶の湯とどう関わったのか。茶の湯をたしなむ武士たちの間では、良い道具を持つことが「ステイタス」を示す手段でもあった。武士の出ではない秀吉は特に、そこにこだわったはずである。
そこで登場するのが、堺の商人であり、天才茶人である利休。2人は、信長が天下人であった頃から、茶道具を貸し借りする間柄で、次第に親密さを増していく。
「茶の湯人口が増えれば、道具の数が必要になり、唐物の道具が手に入らないなら、良い道具を作るプロのものが欲しくなる。そこに目をつけたのが利休で、利休ブランドの国産の茶杓(ちゃしゃく)や茶碗(わん)をプロデュースし、人気を博します。秀吉が利休を重用したのは、茶の湯の才能もさることながら、商人として目端が利くところを買っていたからでしょう」(中村さん)
秀吉は利休を相談役として傍らに置き、茶の湯による政治を一歩進めた。利休は、秀吉が天皇を招いた禁中茶会にも同席し、小田原征伐にも同行するなど、茶人としてだけでなく政治においても秀吉の片腕となっていく。
九州の大名、大友宗麟(そうりん)が豊臣秀長(とよとみひでなが)を訪ねた折に、「公儀の儀は宰相(秀長)、内々の儀は宗易(利休)存じ候(公のことは秀長に、内々のことは利休に相談せよ)」と言われたという記録もある。それがなぜ切腹という結末に至ったかは次の項に譲る。
■新説、利休は切腹していなかった…
天下人・豊臣秀吉に仕え、茶人の頂点を極めた千利休だが、その最期は謎に包まれている。
秀吉の逆鱗(げきりん)に触れ、1591(天正19)年2月13日に堺に追放された後、再び京都に呼び戻され、28日に切腹。大徳寺の山門に置かれていた利休の木像が磔(はりつけ)にされ、首がその下に晒(さら)された……というのが通説だが、中村さんは、これに異を唱える。利休は実は切腹せずに、生き延びていたというのだ。
利休の切腹を記録する史料は少なく、北野天満宮の神職の日記「北野社家(きたのしゃけ)日記」に「宗易が茶器の売買で不当な利益を得たかどで成敗され、首が木像とともに晒された」との記述があるくらいだ。
しかし、公家の西洞院時慶(にしのとういんときよし)の日記「時慶記」には、2月25日に「利休が逐電(素早く逃げ、行方をくらますこと)した」と噂されているとあり、木像の磔についても「不思議」としている。また28日に利休処刑の記述もなく、別の強盗が処刑されたことが記されている。中村さんはこう説明する。
「切腹させられたのであれば、本人の死体を晒してこそ意味がある。木像にしたのは、それができなかったから。『北野社家日記』も別の処刑と混同した可能性がある」
とはいえ、利休はそれを機に表舞台から姿を消す。なぜなのか。
「信長も秀吉も、自分の欲望のままに天下を取っていったというイメージが先行していますが、彼らが希求していたのは、戦(いくさ)を終わらせて平和で安寧な世の中をつくること。秀吉の場合、それがはっきりするのは刀狩令です。そして、この理想に乗ってくるのが浅野長政、石田三成など、豊臣政権で実務を担った五奉行なのです。『戦争は御大将・秀吉が終わらせてくれる。次に必要なのは官僚政権だ』というわけです。秀吉もそれを理解して五奉行を育てていく。このときに、五奉行にとって、官僚機構のなかに入らない町人・利休の発言力が大きいというのは困るのです。これが1590(天正18)年頃からはっきりしてきます」(中村さん)
■死なずに隠遁生活を送った可能性も
利休と結びつきの強かった秀長の死も、利休の立場を不利にした可能性がある。秀吉としても収まりをつけるには、利休を「亡き者」にするよりほかなかったのだろう。「逐電」したのも、石田三成たちににらまれたからだとの説も。では、利休はどうなったのか。
「利休七哲の一人でもあった細川三斎(忠興)にかくまわれて、隠遁(いんとん)生活を送ったのではないかと思います」(中村さん)。というのも、堺を追放になったとき、夜中の突然の追放にもかかわらず、三斎は淀の船着き場まで見送りに来たのだ。
「あの時刻に利休よりも先に淀に来て見送ることができたのは、秀吉が利休処分を決断する場にいて、いち早く行動できたからではないか。もっといえば、三斎の助命嘆願により、『処刑』を『表舞台からの引退』にとどめることができた。秀吉もこれまで一緒にいて、最高の癒やしを与えてくれた利休の命までを取りたいわけがない。そのときに、この三斎の提案はありがたいわけです。平和希求という世の中の流れと、茶の湯が生み出した武将たちの精神的なゆとりが、三斎のような行動を生み、利休の命を救ったのでしょう」(中村さん)
もう一つ、利休の存命を推察させる史料がある。秀吉が文禄の役で朝鮮出兵を行っている真っ最中に、実母付きの女性に送った直筆書状である。これまで秀吉が耄碌(もうろく)して書いたという説が有力だったが、諸状況からそれは考えにくいという。
「そこには『昨日、利休の茶を飲んで、愉(たの)しくて飯も進んだ』とあります。時期的に利休の『死後』です。実母ゆえに気を許して書いたのではないかと思われます」(中村さん)
いずれにしても、利休は死と同等の隠遁生活を余儀なくされた。これらの逸話は、その存在の大きさを物語っている。
■茶の湯に魅せられた武将たち
●石田三成
機転利かせた「三献の茶」 五奉行としては利休と対立
秀吉が長浜城主であった時代、鷹狩りの帰りに立ち寄った寺で茶を所望したところ、1杯目は大ぶりの茶碗にぬるめの湯を入れて出し、2杯目にはそれよりもやや小ぶりの茶碗に少し熱めの湯を、3杯目には小ぶりの茶碗に熱い湯を注いで出した。この心配りに感じ入った秀吉は、彼を小姓にしたという逸話がある。豊臣政権の組織化を目指していた三成は、秀吉のお気に入りであろうとも、商人の意見が採用される事態を憂えて、利休を邪魔に感じていた。
●細川三斎
利休の2大武将弟子の一人 師の助命を嘆願した説も
細川幽斎の嫡男で名は忠興。古田織部と並び、利休の2大武将弟子の一人といわれる。信長の評価も高く、信長に「床の花入れを直しておけ」と言いつけられた。後から信長が小姓衆に花入れの位置を測らせたところ、「四隅から寸分たがわず真ん中に置かれています」との報告を受けたという逸話が。秀吉から利休に蟄居(ちっきょ)が命じられた折には、いち早く淀の船着き場へ見送りに行った。秀吉に利休切腹を思いとどまらせ、その後、かくまったというのは中村さんの説。
●古田織部
利休とも関係の深い「へうげもの」クリエイター
美濃国の生まれの武将で、利休に師事した。「茶道四祖伝書」に利休、三斎、遠州と並ぶ茶人として評される。1599(慶長4)年の「宗湛(そうたん)日記」に「ウス茶ノ時ハ セト茶碗ヒツミ候也 ヘウケモノ也」とある。織部が茶会で「へうげもの」(面白いもの)、つまり形がゆがんだ茶碗を使ったということを語る逸話。禄高(ろくだか)は低く、武将としては恵まれない環境のなかで織部なりの美意識を生むに至ったという意味では、真の「侘わび茶人」といえる。
●三好実休
50種の道具を持つ数奇者 三日月茶壺は天下無双の名物
三好氏は、細川氏の家来。細川氏が和泉国の領主になるとともに、和泉国の支配に関係することになった一族。町の外周に堀を巡らして城塞化を進め、堺の自治都市的性格の基礎を築いた。実休は一族の長老的存在の三好政長の影響を強く受けて、茶の湯に傾倒。50種ほども道具を所持する数奇者であった。特に著名なのは、「天下無双の名物」として「山上宗二記」に記される三日月茶壺(つぼ)。戦乱で割れた後、利休が継いで直すと、逆に値が跳ね上がったという。
●豊臣秀長
秀吉の政務上の右腕 利休との絆も強かった
豊臣秀吉の異父弟。秀吉の信頼厚く、豊臣政権下では内外の政務や軍事を担当して秀吉の天下統一に貢献した。大友宗麟(そうりん)の手紙に、秀長に会ったときに「『公儀のことは自分に、内々のことは宗易(利休)に』と言われた」という記述が残っていることや、彼の死の直後に利休が切腹を命じられていることなどからも、利休との結びつきが非常に強かったことがうかがわれる。北野大茶湯では、遅れて間に合わなかった奈良衆に気遣いしてもてなしたという記録も。
この人に聞きました
中村修也さん
文教大学教育学部教授。1959年、和歌山県生まれ。筑波大学大学院博士課程単位取得修了。専門は日本茶道史・古代史。史料に基づく新たな歴史観を提示する。『戦国茶の湯倶楽部』(大修館書店)など著書多数。
(ライター 志賀佳織)
[日経おとなのOFF 2013年12月号の記事を基に再構成]
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