というわけで、レ・ミゼラブルの訳詞について。
ざっと調べただけでは、いつから訳詞が変わったのか分からない。レコードに"SHISEIDOミュージカル"とあったから、
資生堂ミュージカルが"東宝ミュージカル"に変わったのかと思ったが、資生堂は協賛として87年から91年までスポンサーに
なっていただけらしい。バブル期で企業のメセナが話題になっていた頃だ(今もやってますが)。
東宝の方は一貫して主催しているのだから、スポンサー交代はおそらく関係ないのだろう。演出家の交替とか、あったのだろうか。
でも、途中で変わったのなら、誰かがそれについて言及していてもおかしくないのに、ネット上にまるでその痕跡がないのは何故だろう。
と、ここまで書いていて思い出したのだけど、そもそも舞台で聴いた歌詞とレコードの歌詞が完全に一致していなかった可能性もある。
家に帰ってから、「あれ?」と思った記憶が、あるようなないような……。うー。根本的なところで問題があるなぁ。
もしかしたら上演後に変わったのではなく、EPの歌詞はプロトタイプだったのかも知れない。
まぁ自己満足で書いているので、正確性はご勘弁下さい。(でも、当時の「民衆の歌」のサビは、間違いなく「怒れる者の~」だった、…と思う(弱)。)
♦ 民衆の歌 ~ピープルズ・ソング~
主題歌と言っても良い、最もキーとなる曲(だった、と思う。87年当時)。革命時(?)に学生達がバリケードの所で歌ったり、エンディングで大合唱したりする(2005年公演ではEDでは歌われなかった)。
「民衆の歌」と表記されていたり、「ピープルズ・ソング」とされていたり。手元のレコードでは「ピープル
ソング」なのだが、まあ文法的には「ピープルズ・ソング」だろう。
原題は "Do you hear the people sing?"(民衆の歌っているのが聞こえるか?)。
4拍子の力強いリズムで、十数年を経て私の耳に残っている景気の良い曲。まあ、アジテートの歌ですからね。
さて。肝心の歌詞である。
比較したのは、パンフレット(2005)とEP(1987)、それから原詩(以下、現行型、初期型、原詩とする)。(実は現行型と原詩の歌詞は拾いもの。) 実は便宜上、比較表を作ってみたのだけど、これって著作権(公衆送信権)に
抵触しますかね、やはり。「引用」とは解釈してくれないだろうなぁ……御免なさい。
一応、こんなところで試聴もできるようです(英詞その1、その2)
冒頭、サビの歌詞からして大幅に変わっている。当初「怒れる者の歌が聞こえるか」
だったのが、現行型では「戦う者の歌が聞こえるか」。
原詩がDo you hear the people sing? / Singing a
song of angry men? だから、原詩に忠実という意味では初期型である。
ならば、何故変更されたか。
制作者に聞くしかない。――という結論はあんまりなので、一応考察すると、原詩ではIt is
the music of a people / Who will not be slaves again! と続くのだが、こ
れが音節数の関係で、日本語にする時には省略せざるを得ない。
この部分が削られるために、何故"angry men"なのか、その根元的なモチベーションが、曖昧になってしまう。
で、おそらく、原詩の持つ"魂の叫び"を「怒れる」という感情に凝縮させて表現しようとしたのが初期型で、
それをきっぱりと切り捨て、「戦う」という形態を表現することによって作品としての流れを重視した結果が、現行型なのではないか。
何に対して怒っているのか示せない以上、分かりやすさを選択したのかも知れない。
まさかとは思うが、変更理由が「怒れるだと“イカれる”と間違う人がいるかも知れないから」なんていう下らない理由だったら、本気で蹴飛ばしちゃる…。
次。現行型「列にはいれよ 我らの味方に/砦の向こうに 世界がある」、
初期型
「俺の世界がいつか見えるはず/砦の向こうにそれがあるの」、原詩「Will you join in our crusade? / Who will be strong and
stand with me? / Beyond the barricade / Is there a world you long to
see?」。
初期型はアジテーションを完全に切り捨てている。短くしすぎて、逆に「それがあるの」なんて、少し冗長気味だ。
現行型は逆に詰め込んで、「砦の向こうに世界がある」と、ちょっと観念的。行間を読んでくれということか。
この部分については、やや現行型の方に軍配が上がるかな? 「列に入れよ」が効いている。アジテートとしても、学生達が抱いている希望を感じさせるという点でも。
ところで、原詩を読んだ時から気になっていたのだが、このBeyond
the barricade / Is there a world you long to see?
というのは、YESを期待しているのかNOを期待しているのか。
普通に読むと、反語に読めませんか?バリケードの向こう側に、君が見たがっていた世界があるのか?(いや、ない)。
だから戦おう(Then join in the fight,)と。
バリケードの向こう側に広がっているのは、一握りの特権階級が栄華を貪っている世界。民衆が虐げられる現実。そこから
身を守り、抵抗するためにバリケードを築いた。その向こう側に見ているのは――「希望」なのだろう。
「世界がある」という言い方は解釈の幅が広くて、砦の向こうの「貴族達の世界」を手に入れよう、と言っているように
読めなくもない。彼らが目指す「世界」は砦の向こうにあるのではなく、彼らの内側にあって、それを広げたいのではないか。(貴族が甘受している利益を自分た
ちも得たいという意味では、どっちに解釈しても大差ないのだが)。
訳者は全て承知で「(俺たちの)世界がある(これから生まれる)」と時系列を逆転させたのだろうけど、
些末なことながら、ちょっと気になった。
最後。現行型 「悔いはしないな たとえ倒れても/流す血潮が 潤す祖国を/屍超えて
拓け明日のフランス」、初期型「 賭けてみよう俺たちの未来に/倒れ死のうと したたる血
潮が/祖国の大地潤すだろう」、
原詩「 Will you give all you can give / So that
our banner may advance / Some will fall and some will live / Will you
stand up and take your chance? / The blood of the martyrs / Will water
the meadows of France!」。
本当に訳者は大変だと思う。英語の情報量が段違いだ。この最後に来て、現行型の詞は完全に「革命の歌」になっている。
意訳も極まれり、という感じだが、まあ間違ってはいないだろう。
初期型は原詩に忠実であろうとしているけど、流石に「したたる血潮が大地を潤す」はどうかと思う。牧草地を潤して
大地の糧となる、というニュアンスを含めることができないと、血だらけで大地が泣くんじゃないかと思ってしまう。
単に「我らの血潮は」にするか、「祖国の大地に生きていくだろう」とするだけで多少ましになるんじゃないかと。
素人考えで申し訳ないが。
結論。
原詩を忠実になぞった上で、日本語詞としての美しさを意識したのが初期型の訳詞だったのだろう。「鼓動があのドラムとこだまする時」とかさ。
先に、何に対して怒っているのか分からない、と書いたのだけど、実のところそれは大した問題ではないのかも知れない。
そんなものは話の展開の中で自ずから見えてくるものだし、それでミュージカルやオペラの歌詞としては十分なんじゃないだろうか。
(「戦う者」だって「何故」戦うのかは分からないのだし)。
劇中歌として何か欠けているものがあるとしたら、初期型の歌詞がやや情緒的で、アジテーションに欠ける点だろう。
だから、現行型では、人々を戦いに導く歌として「戦い」を前面に打ち出し、それによって、劇中歌としてのまとまりを優先させたのではないか。
ただ、個人的には初期型の方が体に染みついているし、こちらの方が好きだ。聞いたことがない段階でこんなものを
書いて申し訳ないが、「戦う者の~」ってどうも馴染めないし、軽い気がしてしまう。「怒れる」であっても十分“戦い”につながっていたと思うし、その後に続く“鼓動”と“ドラム”を生かすには“怒り”という感情を出した方が良かったのではないか。
何より、ここは止むに止まれぬ情動に突き動かされる場面だと思うのだけど。まぁ、平たく言えば「怒れる」の方が好きなのだ、日本語として。
と言う訳で、先日来脳内で英語versionが鳴り響いている(……それが結論かい!)。
041005
♦ 追記(050320)
2005年バージョンを見終えての感想としては、思いの外「戦う者の」でも違和感がなかった。ただ、上でさんざんアジテーションが目的だったのでは、と
書いたにも関わらず、全然アジテートしていない……というか、非常にあっさりと流された気がしてしまうのが残念。もっと民衆に訴えかけて、訴えかけて、それで挫折しようよ(笑)。
ちなみに、現在は岩谷時子さんが全ての訳詞を担当していらっしゃいます。岩谷さんは「恋のバカンス」とか「恋の季節」、「君といつまでも」とかの人。
対して、当初の訳詞をした吉岡浩さんは、「天城越え」とか「命くれない」とか。どっちがいいとかではなく、詞って面白いなぁ、と思いました。
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