第2回 序・COLD BRAIN STUDIOができるまで(2)
2016.05.19更新
地下室は個人経営の店舗が並んだ、商店街と呼ぶには小さいけれども、他人に説明する場合は面倒なので商店街と称してしまいそうな、四捨五入したらギリギリ商店街と呼べる施設の一角にあった。魚屋は既に退居し、上階は弁当屋になっていた。
不動産屋と一緒に木造の階段を降りると、部屋は数字の9の四方を直角にしたようなかたちになっていて、隅にいくつかのテーブルや椅子が避けて残置されており、その上には近所の爺や婆を集めて手芸教室か園芸教室を行っていたと思しき、籠を編むのに使う竹や蔓、造花などが散乱し、埃をかぶっていた。
角張った9の字の左下の角の奥には、いかにも急造といった雰囲気の、極小のキッチンと水洗トイレがあった。地下室にこのような設備がある場合には、地上への排水を行うためのポンプと浄化槽が設けられてある必要がある。が、見当たらない。水回りについては俺が仲介を依頼している不動産屋の管轄ではないらしく、別の不動産屋に尋ねるなどして調べてみないと分からないのだと担当者は言った。水道が実際に通っているのかも不明である、とのことだった。
俺は少し不安になった。というのも、水道やポンプがないということはキッチンやトイレが使えず、これらはダミー、つまり見せかけの設備ということになってしまう。そうなると作業場に来客などあった場合、水回りの設備の一切は模造であり使うことができない、と説明するのが面倒くさい。うっかり客人が大便などをしてしまうかもしれない。でなくとも、使えないトイレやキッチンは非常に間抜けで、そんな無用物を部屋に設置していたら阿呆だと思われてしまう可能性が高い。阿呆な人間にはプロデュースもバンドの舵とりも不可能に決まっているので、バンドでのヒエラルキーも地に落ちて、コードを巻いたりする仕事しかやらせてもらえない、といった状況にはまり込むかもしれない。それを避けるためには撤去するなり、水道管やポンプを増設するなりしなければならないが、そうなると余計な出費になってしまう。きっと高額だろう。この場所はよしたほうがいいのではないか、といった率直な意見が凍った脳内に浮かんだ、というよりは凍土(脳)を突き破って脳天から発芽して、メキメキと葉を茂らせて行くのだった。
水回りについて不動産屋と意見交換をしていると、どういうわけか弁当屋の店主のおっさんが勝手に室内に入り込んできていた。そして、おっさんは前にここを借りていたヤツは夜逃げみたいに出て行ってしまった、こんな水回りはいい加減な代物で、其奴が日曜大工などで設えた素人工事のデタラメ設備であって、使えるわけがない、というか、君はここで何をはじめるのか、音楽? そんなものにこの場所が向いているはずがない、こちらとしてもなんとなく面倒だ、ということを早口で俺に伝えたのだった。
俺はさらに不安になった。この物件がスタジオに向いているのかどうかはさて置いて、このおっさんの存在のほうが後々厄介になるのではないか、という疑念が凍った脳内で膨張して、耳の穴から露出しそうになったからだ。だってそうだろう、大家でも管理人でもない上階のおっさんが排他的な態度で接してくる、というだけでも相当なリスクなのに、地下室の中までズカズカと入ってきているのだ。思い起こせば、地下室のドアから階段まで続く細長い廊下には、弁当屋のものを思しきポリバケツ、掃除用具、巨大鍋などが無造作に立て掛けてあった。物置として使用していたのだろう。そういう便利なスペースを奪う侵略者として認識されたのかもしれない。嫌な予感がこうして顕現化した場面に遭遇するのは、久々のことだった。
が、そういったリスクを差し引いても、この物件は居抜きの焼肉屋などに比べて魅力的だった。地下室であるということは、音楽を鳴らしたり録ったりするには、この上ないアドバンテージなのだ。隣接する物件は右隣の空室のみ、加えて上階が弁当屋ということで、騒音に対する苦情を考える必要がないし、逆に室内に漏れ混んでくる外部の音も少ない。つまり、派手な防音工事が必要ない。不動産屋からの連絡によれば、弁当屋の店主から吹き込まれた情報とは異なり、水回りは問題なく使用できるとのことで、この種の不安も払拭された。
というわけで、俺は尻の穴に気合を入れて、知り合いの音響設備の施工を専門とする内装業者に連絡し、この地下室の賃貸契約と内装工事を推し進めることにした。改装における様々な条件の確認についても、内装業者に不動産屋との仲介をお願いした。これが結果的に功を奏して、中がグズグズになって黴が生え、朽ち果てそうになっていた木造の階段の撤去と新設の費用をこちらが負担する代わりに、賃料が大幅に値下げされることになった。東京都内の相場の五分の一くらいの、破格の家賃だった。
いきおい浮いた家賃で豪華な内装を施してしまうところをグッと堪えて、必要最低限の内装工事と防音工事を行った。角張った9の四角い空洞部分は丸々、広々としたコントロールルーム、右側の細長い柄のようなスペースはそのままギターアンプ置き場兼簡易的な録音ブースとした。階段を降りたところに防音扉を設置し、水回りとスタジオ部分を壁で区切って、トイレやキッチンの流水音が漏れ入らないような間取りにした。壁面や床の塗装は行わず、合板を貼り付けるだけにしてもらうなど、質実剛健な造りにして最低限の費用に抑えた。
もっとも高額だったのは、他ならぬ階段であった。弁当屋のキッチンに欠陥があるらしく、微小ではあるが水漏れが起きており、放置すると湿気で階段が再びグズグズになってしまうということだった。こちらに過失がないことは明らかなので、弁当屋の店長に掛け合ってもらったが、営業を一日でも休むわけにはいかないらしく、防水工事は不可能ということだった。仕方がないので俺の負担で簡易的な防水工事を施し、鉄筋コンクリートの階段を設置した。脇腹をえぐられるような価格だったが、先に書いたように、家賃が減額されることになった。
こうしてCOLD BRAIN STUDIOは完成したのだった。
完成する頃には弁当屋の店主と良好な関係を築くことにも成功していた。
というのも、弁当屋の店主は非常に現金な性格で、こちらの内装工事にそれなりの予算がかかっていることを俺から聞くやいなや、それまでの排他的な態度を一変させたのだった。
「内装いくらかかんの?」
「XXX万円くらいですかね」
このような会話が交わされた後、店主はやや怯んだようにそれまでの引き攣った表情を緩め、頑張ってほしいと、チアフルな言葉を俺に投げかけるようになった。まあ、それなりの額面に俺の本気を感じたというのもあるだろうし、収入や住居、服装によって人間を判断するといった性質の表れかもしれない。が、とにかく排他的な態度が改まってホッとした。
その後、店長はことあるごとに、一体どんな音楽を作っているのか、儲かっているのか、など、探りを入れてくるようになった。ウチの娘を嫁にもらわないかとまで言い出すようになってしまった。それはそれで恐ろしいのだけれど、ひとまず、特別な悪意は感じらないので、俺の職業についての詳細は打ち明けないまま、ヌルッと付かず離れずの関係をキープしている。
さて、これですべての難が去った。きゃっほーい。ということで楽曲の制作に邁進したいところだけれども、別の角度から問題が立ち上がったのだった。
つづく