第1回 序・COLD BRAIN STUDIOができるまで
2016.04.27更新
BECKの「MUTATIONS」というアルバムのジャケットをレファレンスとして美容室に持って行き、ゆるふわのパーマに失敗してから、俺の脳みそは凍ったままだ。この人と同じ髪型にしてくださいという要望はシャンプー台の排水溝からパーマ液と共に下水管へ洗い流されたが、「顔まで似てますね」という美容師の虚言に脳が溶解して、超ポジティブに、すべてがどうでも良くなってしまった。そして、それなりに高額なパーマ代を払い終え、溶解した脳をチャポチャポいわせながら通りに出て、これで俺もBECKじゃ、むきゃきゃ、とひとりごちながら、外気の冷たさで脳が凍ってしまったのだった。二十歳になったばかりだった。
そんな俺も今年で四十歳になる。
三十歳を過ぎてから、バンドとの関係もなんらかのなんらかをある程度は達成したように感じていた。四人でのセッションは連日のように白熱し、メジャーデビュー後のストレスから生じたフリーズを解きほぐすようなブレイクスルーを二度経て、これだよなという手応えがあった。四人がそれぞれオールを漕ぐことによって、バンドはグイグイと音楽的に前進していた。
一方で、そうした音楽的な満足感とは別に、自ら舵を握ってギャンギャンまわしてみたい、そんな気分が芽生えはじめていた。
というのも、手漕ぎの船は、急な旋回ができない。俺だけ無茶クソに頑張って漕いだとしても、ひどい筋肉痛の割に方向があまり変わらない、というような、安定感というか型というか、そういう性質にはまり込んで、このまま凝り固まって行くのではないかという不安があった。音楽の大海原を自由に航海するために漕ぎ出したはずなのに、ある意味で自由ではなかった。あっちの島とか行こかーといって躍起になって漕いでも、それはなんかなー、嫌かもなー、とか言って船員がオールを置いてしまう。そうすると船はぐるぐる同じところをまわって、皆が納得する方向を決めるまで全員が漕ぎ出すことがないので、結果、もと来た航路の延長を蛇行しながら、決められた方向に進むことになってしまう。違う性能の船に乗ってみたいなぁという気持ちが芽生えるのも仕方のないことだ。
よく考えてみると、一度目のブレイクスルーの前は、俺がギャンギャンに舵を回していた。そのあとで、徐々に推進力や方向性についても船員たちの意見を聞き入れるようになり、俺は船長の役割を辞して、全員でオールを漕ぐ手漕ぎの船に乗りかえたのであった。それ自体が、二度目のブレイクスルーだった。手漕ぎなので、船を進めるうちに船員たちは音楽的にムキムキの筋肉を得ていった。この筋力で昔のような船に乗ったら、もっとおもしろい航海にならないかしら、そういう気持ちになるのが人心の自然な有り様だろう。
とはいえ、前に乗っていた船はもうなかったし、俺自身も舵の取り方を忘れてしまっていた。新しい船の建造と、舵取りの練習を同時にしなければならなかった。そして、説得力を持って、船員たちに、今日から俺が船長ですと宣言して、受け入れてもらう必要があった。大変な努力が必要だと直感した。なので、俺は練習用のコックピット=作業場を自宅の近くに作ったのだった。
数件の不動産屋を回って、9畳くらいの、縦長の事務所用のスペースを借り、コックピット作りを始めた。左右は鉄筋コンクリートのビル、二階は量販店の倉庫兼事務所で、特に近隣に気を使って防音工事をする必要のない物件だった。なので、俺は自ら壁に吸音用のパットを虫ピンで固定し、ぬるいUの字のかたちになるように、布を天井にたるーんと張った。それから業者に連絡し、表通りの騒音が入り込まないように防音のカーテンを取り付けてもらい、ビニールコーティングの床の上に絨毯を敷いてもらった。これでボーカル録音ができるくらいの環境が整った。
次いで、パソコン操作用の机を購入した。なんというか、一品くらいは気合の入る調度品が欲しかったので、お客様にお選びいただいた一枚板からお作りします、というような、洒落ているけれど環境も気にしてるんですという雰囲気の老舗家具店に行き、それなりの金額を支払って、作業用の机を設計してもらった。お前は木だなぁ、と話しかけたくなるくらいいい感じの机だった。そうなると、机にあった椅子も欲しくなるというのが人間の性で、これまたけっこう高額なイームズの椅子を通販で買い、ニヤニヤしながら設置したのだった。届いたデザイナーズチェアは美しい流線型で、代官山のあたりまでキャスターを転がしながら乗って行きたい、そんな気分になった。
高級机とデザイナーズチェアの効果はてきめんで、なんとなくスピーカーから流れてくる音も凛としているような気がしたし、何よりも作業場に行ってキャスターをコロコロしたい、机の天板の木目を眺めていたい、という気持ちが湧き上がって、毎日作業場に出かけるようになった。そのうち木目などには飽きて、短いフレーズや楽曲を録り溜めて、デモ音源の制作に没頭するようになった。
そうして、イームズチェアのキャスターをコロコロしながら、三度目のブレイクスルーを果たして完成したのが「マジックディスク」というアルバムだった。我ながら会心の作だった。以後、友達に自分の作品を配り歩く機会があったならば、この作品にしようと思えるくらい、気に入っていた。
ところが、あまりにもいいアルバムを作ってしまって、それを再現するのに人手が足りなくなってしまった。四人でリアルタイムに立ち上げるには、作品のサイズが大きかった。フジファブリックの金澤君に助けてもらいながら、全国ツアーを行ったけれども、現場での舵とりは想像以上に難しく、徐々にメンバーの関係性はギクシャクとし、大喧嘩の果てに、このツアーが終わったら船長の職だけでなくバンドを辞めようと、俺は日本のヘソのあたりの町で決意したのだった。駅前には金色の信長像が鎮座していた。
険悪な雰囲気のまま、マジックディスク・ツアーも残すところ数本になり、ストリングス隊とホーン隊を加えた大編成のリハーサルが佳境を迎えていた。そして、友人と作業場で熟考した弦楽器と管楽器のアレンジが良い感じで馴染んできた矢先、東日本大震災が起こった。残りの公演はすべて中止になってしまった。俺のバンドからの脱退も中止になった。
作業場は海の近くにあった。そして、津波だけではなく、大雨でも冠水するような低地にあって、賃貸契約後に「あの辺は大雨が降ったら水でバチャバチャになりますよ」と知り合いに忠告されていたのであった。こうした大災害を前に己の小さな損失について考えるのは卑しいことだけれども、数十万円の機材が水没するのは避けたい。ついでに書けば、そういったリスクの他に、そもそも縦長の物件で使いづらい、二階が選挙事務所になることが多いので選挙カーの騒音で日中に録音できない、寒い、などといった問題も抱えていた。
そういうわけで、俺はもともと進めていた作業場の移転先探しを加速させた。
移転先はなかなか見つからなかった。震災前に、空手道場の上階という、どれほどの騒音を出そうとも決して怒られなさそうな物件を見つけたのだけれど、建物のオーナーである老夫婦が電源の工事をひどく面倒がって、契約直前で話が流れてしまった。その他にも、コインランドリーの二階、駅の近くの雑居ビル、元焼肉屋など、様々な物件を見学に行ったが、どこも立地条件や賃料、匂い、などの条件が折り合わなかった。
不動産屋との物件巡りを経てようやくたどり着いたのは、以前は魚屋の水槽が置かれていたという地下室だった。
つづく