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Re:ゼロから始める異世界生活 作者:鼠色猫/長月達平

第六章 『記憶の回廊』

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第六章38 『オマエハダレダ』



 自分の身に何が起きたのか、欠片も理解が追いつかないまま、スバルは部屋の中をぐるりと見回した。

「――――」

 見慣れた、とは言わないが、見知った部屋の内装だ。
 壁や床、天井までもが緑色の蔦で覆われ、スバル自身、蔦で編まれたベッドの上で体を起こした状態にある。

 目の前では二人の少女――美少女と美幼女が首を傾げていて、ベッドのすぐ脇には巨大なトカゲが足を畳んで座った姿勢。部屋にあるもう一つのベッドには、目を閉じた青い髪の少女が横たわっている。
 全く何の異常もなく、ここはプレアデス監視塔の緑部屋だった。

「だけど……あれ? 俺はなんだってまた、ここで?」

 目を覚ましたのか、それがわからない。

 頭に手をやり、スバルは直前の出来事を思い出す。
 確か、塔の二層に挑もうという話になって、その前に自分に何らかの特殊能力がないかを確認していたはずだ。結局、何の能力もないという結論が出て、それからスバルはエミリアたちと合流しようと塔の中を歩き――、

「えっと? そのあとは、なんだっけ?」

 イマイチ、直後の記憶が判然としない。
 ふと、気付いたらまたこのベッドに横たわっていた、という印象が強い。
 そうして、曖昧な記憶を手探りに検めていると、

「ねえ、スバル、大丈夫?」

「うひゃっ! エミリアちゃん、近いって!」

 すっと、息がかかるほど至近距離に、エミリアの美しい顔が迫っていた。長い睫毛に縁取られた紫紺の瞳、そこに自分の顔が映るのが見えるほどの無防備な接近に、スバルは蔦のベッドの反対側に降りることで距離を取る。
 その過剰な反応に、エミリアは目を丸くして、

「そんなに驚かなくてもいいのに。それに、驚かされたのはこっちの方なんだから」

「驚かせたのはって……」

「決まっているのよ。いなくなったと思って探したら、倒れてるところを見つけたかしら。これで心配しない方がおかしいのよ」

「マジで? 俺、また倒れてたの?」

 腕を組み、呆れた風に鼻を鳴らしたベアトリス。彼女の言葉にスバルは驚き、立ち上がった自分の体をペタペタと触った。
 ただし、触ってみたところで異常は感じられない。そもそも、記憶喪失になった人間が自分の異常に気付けるのか怪しいところだが、外傷は見当たらなかった。

「けど、短時間に二回もひっくり返ってるってのはかなりヤバい感じだよな……。ほんの数時間とはいえ、その記憶が吹っ飛ばなかったのは運がよかったっていうべきか?」

「何をぶつぶつと……スバル、ベティーたちに言うことがあるはずかしら」

「言うこと……」

 広げた自分の両手を眺めていると、ベアトリスがそんな言葉を投げかけてくる。その言葉にスバルははてと首を傾げ、エミリアとベアトリスの二人を見た。
 二人に言わなければいけないこと、それは何だろうかと少し悩み、

「そ、っか。えっと、ごめん。心配かけて悪かった。また助かったよ」

「それでいいのよ」

「ふふっ、どういたしまして。でも、ホントに何ともなくってよかった。安心しちゃった」

「ああ、そうだな。エミリアちゃんにも、このハイペースで迷惑かけちゃ申し訳ねぇ」

 手を上げ、スバルはエミリアへの謝意を表明する。しかし、そのスバルの言葉に対し、エミリアが形のいい眉を顰めた。
 それから、彼女は紫紺の瞳を戸惑いに揺らしながら、

「ええっと、それでなんだけど……スバルは、さっきからどうしたの?」

「どうした、ってのはわりと漠然とした疑問だね。どこにかかってくる問題?」

「だって、さっきから私のこと、エミリアちゃんって。なんだか、スバルにそんな風に呼ばれるのってすごーく落ち着かない気分になるから」

 言いながら、エミリアは自分の長い銀髪に指を絡め、おずおずとスバルを見つめる。その胸を掻き毟るような寂寥の眼差しに、スバルは思わず喉を鳴らした。
 無防備で親しげで、スバルの好みにストライクすぎる容姿の少女――しかし、彼女の今の態度には、そんなスバルの感慨とは溝の深い差がある様子で。

「スバルの悪ふざけは今に始まったことじゃないかしら。そんなことより……」

 と、そんな二人のやり取りに、不機嫌な口調でベアトリスが割り込んだ。彼女は立派な縦ロールを揺すりながら、ビシッとスバルに指を突き付ける。
 そして、桜色の頬を膨らませながら、

「そろそろ、ベティーたちには話してほしいのよ。なんで、夜の間にまた『タイゲタ』の書庫に入ったのかしら。倒れていたのは何が原因だったのよ?」

「待て待て待て待て! え、なに、俺ってまたタイゲタで倒れてたの?」

「また?」

「マジかよ、タイゲタすげぇ怖いとこだな……つか、俺は何しにまたそんなとこいってんだよ。ただでさえ曰く付きの場所だってのに、命知らずすぎるだろ」

 身に覚えのない出来事を伝えられ、スバルは困惑と不穏すぎる事実に頭を抱える。
 確かに意識が途絶える前後の記憶は曖昧だが、それでもタイゲタに再び足を運ぶような用件はなかったはずだ。
 いっそ、塔の中で倒れたスバルを、誰かがタイゲタに放り込んでいた、という状況の方が納得がいくぐらいだ。それをするメリットが全く浮かばない点を除けば。

「待つかしら、スバル」

 しかし、そんな混乱をきたしているスバルに、ベアトリスが待ったをかけた。

「うん?」

「なんだか、話が食い違っている気がするのよ。スバル、正確に話すかしら」

「正確に、ってのは……」

「今、自分が置かれてる状況を、ベティーたちに話してみるのよ」

 噛み含めるように、ベアトリスはゆっくりとスバルにそう告げた。その言葉の重みと態度の威圧感に、スバルは気圧されながら頷く。
 そして、心配げな顔つきのエミリアに見守られながら、スバルは考え込み、

「まず、話したと思うが……目を覚ましたら、俺には記憶がなかった。すっからかんってわけじゃなくて、この異世界に召喚されてからの記憶が……」

「ちょ、ちょ、ちょ、待つのよ!? 記憶? 記憶って何のことかしら!?」

「え?」

 威厳たっぷりだったベアトリスの表情と態度が、説明の出鼻でいきなり砕け散った。
 思いがけない彼女の反応にスバルが驚き、慌てるベアトリスの肩をそっと後ろからエミリアが支える。しかし、エミリアも決して落ち着いているわけではない。
 彼女もまた、スバルに驚きの目を向けていた。

「スバル、ごめんね、ちょっと何を言ってるのかわからなくて……」

「いや、ここで止まられると困るっていうか、ここは二人だって……」

 ――知っているはず、と続けようとして、言葉は続かなかった。

「――――」

 エミリアとベアトリス、二人のスバルを見る目には困惑が色濃い。それが、決して演技によるものでないことぐらい、さすがにスバルにも理解できた。
 それと同時に、二人の態度が演技でないことの方が、スバルにとっては空恐ろしい。

 何故、二人はスバルが話した記憶喪失の事実を忘れているのか。
 まさか、この塔は記憶を吸い取る性質があって、記憶を失い続けているのはスバルだけではないのではないか。全員、記憶を適度に吸われていて、会話ややり取りが成立しなくなっていくという恐ろしい塔なのでは、というゾッとしない想像が浮かんで――、

 それから、はたとスバルは気付く。

「寝起きの、二人とのやり取り……」

 それに、何となく覚えがある。――否、何となくではない。覚えがあった。
 エミリアとベアトリス、二人との初対面――この場合、記憶をなくしたスバルにとっての初対面であるが、そのときに交わした会話とそっくりなのだ。

 もっと言えば、緑部屋で目覚め、蔦のベッドに寝かされていた状況そのものが、記憶をなくしたスバルが目覚めた状況の再現ではないか。

「――――」

 その事実に思い当たり、スバルは音を立てて唾を呑み込む。
 ちらとエミリアとベアトリスに目をやれば、二人の態度に変化はない。ただ、彼女らの動揺する瞳にあるのは不信ではなく、『スバル』へ向けられた心からの憂慮だ。
 そこに偽りがないことが、スバルの心を一層冷静にした。

 正直なことを言えば、スバルの心は大波に揉まれたように困惑の只中にある。
 だが、察するにこの状況は――、

「同じ状況を見てる。――つまり、予知夢」

 目を覚ました瞬間の状況を鑑みると、そう考えるのが妥当ではないだろうか。
 そう思えば、意識の途絶――覚醒というべきか。その瞬間の記憶が曖昧なことにも納得がいく。夢とは何故か、繋ぎ止めようとしても指の隙間から零れ落ちていくものだ。
 あるいはこの予知夢こそが、スバルが異世界へ招かれて与えられた特殊能力――、

「すげぇ使いどころが難しい、ピーキーな能力だな……」

 ただ、使いこなせれば強力な力であることは間違いない。
 予知夢とは、つまるところ未来予知だ。この的中率が高ければ高いほど、状況の打開に大きな手掛かりとなる。
 生憎、今の予知夢で得た情報で役立つものはあまり思い浮かばないが――、

「――二人に、ちょっと落ち着いて話を聞いてもらいたい」

 居住まいを正し、自分の能力を把握したスバルは二人に向けてそう言った。そのスバルの様子に、エミリアとベアトリスは顔を見合わせ、それから頷いてくれる。
 真剣な二人と向き合い、スバルは微かな躊躇いを挟んで、言った。

「信じてもらえるかわからないんだが、どうも、俺は記憶をなくしたらしいんだ」


※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 ――タイゲタの書庫で目覚めたスバルは、記憶を喪失していた。


 スバルが打ち明けた事実を二人が消化し切るのには、それこそ予知夢で見たときと同じだけの時間と、切っ掛けが必要だった。

「えいっ!」

 空気の弾ける音がして、エミリアが力一杯、自分の白い頬を両手で叩く。その痛みと衝撃に、彼女は不安げだった目を見開くと、「よしっ」と気合いを入れた。
 勇ましく、男らしい割り切り方、それもまた予知夢で見た通りの光景で。

「元気を入れたわ。あんなんじゃダメよね。スバルの方がずっと困ってるはずなのに、いつまでも私たちまで困った顔してちゃ。ほら、ベアトリスも!」

 威勢のいい発言で気力を立て直し、エミリアはベアトリスの肩を揺すった。そのエミリアの剣幕に、ベアトリスは戸惑いを隠せない表情でいたが、

「驚いちゃったのも、悲しい気持ちもわかるけど……今、一番辛いのが誰なのか考えなくちゃ。私たちが、何とかしてあげなきゃダメでしょ?」

「べ、ベティーは……」

「――――」

 口ごもるベアトリスを、スバルは胸の奥の疼痛と戦いながら見守っている。
 このあと、ベアトリスが何を言うのか、どんな顔をするのか、スバルは知っている。
 だが、それがわかっていることが、スバルの心に安らぎをもたらすかといえば、それは全くの見当違いだった。

 誰かの気持ちを、期待を、裏切ることは辛いし、恐ろしい。
 それが何度目であろうと、同じ問題であろうと、二度目の状況であろうと、同じだ。
 そして今、スバルは一度目のときよりもベアトリスを知っている。だから、一度目のときよりもずっと、今の方がスバルは辛かった。

「……ああ、もう、まったく! スバルは本当に仕方のない契約者なのよ!」

 そう言って、ベアトリスは不安と困惑の殻を突き破り、瞳に浮かんだ蝶の紋様の如く、停滞の蛹を突き破って羽ばたいた。
 そのことに安堵しながら、スバルは同時に強い自己嫌悪も抱く。

 ――これでいいのか。これで満足なのか。ええ、ナツキ・スバルよ。
 ――お前がそうやって築いてきた絆と信頼の上に、俺も砂の城を建てればいいのか。

「――――」

 エミリアとベアトリスの、優しくも心の痛む決意を見届け、スバルは奥歯を噛む。

 予知夢を見たことを、スバルは二人に打ち明けていない。
 目覚めた直後のやり取りと、二人の名前を覚えていたことに関しては、記憶の全てが抜け落ちたわけではない、とした内容で押し切った。
 実際、記憶の喪失はもちろん、抜けた記憶の配分もスバルの報告が全てだ。二人に疑うことはできないし、スバル自身も不毛なやり取りは望まない。

 何より、自分の予知夢がどれほどの的中率なのか、それを見極めたかった。
 そのためにも、おそらく、大きく予知夢とズレる事態を生むべきではないと考える。すでに出だしで変化は生じただろうが、大きなズレはない範囲だろう。

 ただ、スバルが予知夢のことを公にしなかったのは、それだけが理由ではない。

「――――」

 エミリアもベアトリスも、ラムにユリウス、エキドナも誰も、スバルに『予知夢』の能力があることを説明しなかった。シャウラやメィリィも、そうだ。
 彼女たちが、スバルにそれを隠したとは考えにくい。あの状況下でそこまでの意思統一が取れていたとは考えにくいし、それ以前に、意味がない。

 ならば必然的に、彼女らが『予知夢』を知らない理由はたった一つ――ナツキ・スバル自身が、その能力を明かしたことが一度もないということだ。

「……何を考えてたんだ、ナツキ・スバル」

 自身の名を、もはや別人のような感覚でスバルは呼ぶ。
 ――否、もはや別人のような感覚なんて言い方は誤りだ。別人なのだ。

 スバルにとって、『ナツキ・スバル』は存在も知らない未知の人物だ。その考えを推し量ることはできないし、対話も交わせない。理解に至る切っ掛けがない。

『スバル』は何故、エミリアたちに自分の力のことを話していないのか。

 スバルが考えたように、可能な限り、予知夢の展開を変えないためなのか。だったとしても、状況が打開されてから、打ち明けるタイミングはあるのではないか。
 そうでないなら言えない理由が、言いたくない理由があるのか。

 そんな『スバル』への不信感が、沸々とスバルの中で芽生えていく。

「お前は……」

 ――何を考えてたんだ、『ナツキ・スバル』。


※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 ――その後の展開も、やはりおおよそ、予知夢の通りに事が運んだ。


「それで、みんなも驚いてると思うけど……スバルは今、すごく困ってるの。こんな状況だけど……ううん、こんな状況だからこそ、力を貸してあげて」

 エミリアが、スバルが記憶をなくした状況を他の面々に説明する。
 拙い説明ではあったが、大きく状況を変えないためにも迂闊なフォローはできない。結果、あまり弁の立たないエミリアの代わりにベアトリスが奮闘する形だった。
 そうして――、

「これは、何かの悪ふざけなの、バルス?」

 ラムに、スバルの状況が悪ふざけなのではないかと疑われ――、

「それにしてもお師様、ホントに懲りないし飽きないッスね~。そうやって、何回あーしのこと忘れたら気が済むッスか?」

 記憶をなくしたスバルの言動を、シャウラがあっけらかんとした態度で仕方ないと受け入れてくれて――、

「本当、お兄さんってばあ、すっごく困ったさんよねえ」

 興味があるのかないのか、メィリィは混迷する状況を楽しむように悪戯に微笑み――、

「少し、彼に落ち着く時間を与えたい。構わないかな?」

 スバルが記憶をなくした事実に動転するユリウスを気遣い、エキドナがわずかな休息の時間を設けようと提案した。
 それを受け入れ、ラムの誘いに乗って、スバルは水を汲みに部屋を離れる。
 そうして二人きりになって、ラムはスバルの胸倉を掴んで壁に押し付け――、

「……お願いだから、全部、話して」

 気高さは失っていない。しかし、決して芯が揺れていないわけではない。
 そんなラムの静かな慟哭を聞かされて、スバルは確信と共に、皆の下へ戻った。

 ――予知夢は、正確だ。憎らしいほどに的確で、状況を完全にトレースしている。

 スバルとて、全員の言動を一言一句、一挙一動を把握していたわけではないが、それでも印象に残っている部分に変化はない。
 問題があるとすれば――、


「ナツキくんは、こんな状況のわりにずいぶんと落ち着いているんだね」

 改めての自己紹介と、アナスタシアの意識がエキドナに上書きされている状況、そうしたお互いの爆弾を打ち明け合ったところで、エキドナがスバルにそう言った。

「――――」

 そのエキドナの言葉に、スバルは口の中が渇くのを感じる。
 正直、エキドナの指摘は無理もない。スバル自身、どうにも演じ切れなかった。

 みんなが驚き、慌てふためいて、それでもどうにか不条理な事態に抗おうと決心する姿を見ながら、そのことに本心から感情移入することができなかった。
 一度見た映画を、今一度、初めて見たように感じることができないのと同じだ。

 募るのは気丈に振る舞う彼女たちへの同情心と、それをわかっていて放置した罪悪感、そしてそれを続けてきただろう『スバル』への嫌悪感と、負の感情の詰め合わせだ。
 言葉数の少なく、表情の暗いスバルの態度、それが不自然に冷静であると受け取られたとしても、そのことに不思議はなかった。
 ともあれ――、

「落ち着いてる、って評価されるのはありがたいな。俺は通信簿に必ず、『落ち着きがありません』って書かれるタイプのガキだったから」

「ツウシンボ、というのはよくわからないが……それもイセカイの?」

「ああ」

 目を細め、エキドナが問いかけてきた内容にスバルは首肯する。
 今回も、やはり『異世界』についての質問は行われ、スバルの返答は変わらなかった。自分は異世界から召喚され、この場所に招かれた存在であると。
 そして、それを聞いたエミリアやエキドナたちの理解が、『大瀑布』とやらの彼方からきたのだろう、という理解になるところも同じだ。

 おそらく、予知夢の状況を完全に再現できなかったとしても、行動に強い意志や決意が伴っているものは、形を変えながらも実現されるのだ。
 それは、スバルの知る漫画やゲームでの、未来予知系でお約束の設定でもある。

 突発的な事態に対する反応は変わっても、やると決めていることは簡単には消えてなくならない。デートに誘おうと決めている人間は、多少の妨害があったところで、別の形でデートを申し込む――そんな感じだ。
 つまり、エキドナはスバルの記憶喪失云々がなくても、異世界について聞くつもりがあったということになる。

「今まで説明してこなかったくせに、不用意に異世界って単語は出してたのか。……何を考えてんのかますますわからねぇ」

 予知夢の性質上、その能力を打ち明けづらいのはまだしも、異世界のことを話していないのは心底不思議だ。まるで、打ち明ける意味がないと諦めていたように。
 ――打ち明けることを、恐れていたかのように。

「結局、君の混乱が一番少ないというのもおかしな話だね。何とかしなければ、とボクたちの方の焦燥感は募るばかりなんだが」

「周りが慌ててると、かえって当事者は冷静になる、みたいなヤツかもしれない。俺だってどうにかしなきゃってビビってるぞ。そこは安心してくれ」

「それって、全然ホッとできない気がするんだけど……」

 肩をすくめるエキドナに、スバルもまた軽口含めて肩をすくめる。そのやり取りをエミリアが気抜けした様子で見ていたが、空気は何となく澱んだままだ。
 やはり、スバルの態度が大きいのだろう。できるだけ、夢の自分をトレースしようと心掛けてはみるが、正直、自分の態度がイマイチ判然としない。
 それこそ、本気で戸惑っていた人間の真似をするのは難しいという話か。
 だから、これ以上のボロを出す前に――、

「とにかく、お互いの状況はひとまず把握した。混乱があるのはわかるが、力を合わせて乗り切ろうぜ。そのためにも、そろそろ状況を動かそう」

 手を叩いて、スバルは無理やりに空気の入れ替えを試みる。
 前回、こうして話し合いが停滞したあと、自分たちが何をしたか。それを思い出させるように、あるいは予知夢に従うように、ベアトリスが頷く。

「問題の、『タイゲタ』の書庫でのことを確かめるかしら」


※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


「うへへへへ~」

 と、しまりのない顔で、だらしない声を漏らすのはグラマラスな美女だった。
 背筋を伸ばし、凛とした表情をしていれば、ただそれだけで多くの男を虜にするだろう美貌、それを完全に崩壊させ、彼女は弛緩した顔でスバルにしなだれかかる。

「お師様、お師様ぁ。あーしは嬉しいッス。きっと幸せにしてみせるッス」

「そこまでの話はしてねぇよ。腕を抱くな。柔らかくて怖い」

「あーん、あとはそのいけずなところだけ砕けてほしいッスよぉ」

 額を押しやり、腕にしがみつこうとするシャウラをスバルは強引に遠ざける。
 正直、ただでさえ目の毒な格好をした美女に、ベタベタとされるのはスバルの人間強度的にも、男の子強度的にも遠慮願いたい距離感だ。

 現在、スバルたちはプレアデス監視塔の三層、『タイゲタ』の書庫へきている。
 夢でもあったように、スバルが記憶を喪失した原因の究明と、可能であればスバルの記憶の復元、それを目的とした探索だ。

 ただし、その結果が振るわず、何の成果も得られないことをスバルは知っている。
 探索に参加することを禁じられているのもあり、歯痒い時間だった。
 そんなスバルに対して、夢よりも親しげで馴れ馴れしいのがシャウラなのだが――、

「だって、お師様。あのチビッ子とかより、あーしのこと選んでくれたじゃないッスか」

「選んだわけじゃねぇよ。成り行き上、仕方なくだ」

 だらしない顔のシャウラが言っているのは、『タイゲタ』へくるまでの道中の話だ。
 それほど長い距離ではなかったが、前回、エミリアやベアトリスと手を繋いでの移動を余儀なくされた環境を、スバルは固辞していた。

 その真意は、エミリアやベアトリスに対する良心の呵責だ。
 予知夢で何が起きるのかを知っていて、その上で徒労となるだろう事実を明かさず、言ってしまえば状況を俯瞰する形でスバルは彼女たちに接している。
 その自覚の分だけ、気遣ってくれる彼女たちと距離を近付けるのが心苦しかった。

 だからあえて、頭空っぽで何も考えていないシャウラと隣り合い、こうして『タイゲタ』捜索の待機中も一緒にいるわけだが。

「やっと、お師様があーしの魅力を認めてくれたんスね! もう、このこのっ、四百年も待たすんスから。嬉しくて嬉しくて、ディープなキスしちゃうッス!」

「そういうわけじゃねぇよ! 怖い! ホントにやめてくれ!」

 圧し掛かろうとしてくるシャウラ、その腕力が尋常でなく強くて、壁に追い込まれるスバルは懸命に抵抗する。壁ドンどころか、壁ゴワァッ! ぐらいの圧力だ。
 そのまま、一度も愛を知らないスバルの唇が強引に奪われる寸前――、

「はいはい、お兄さんは嫌がってるでしょお。あんまりはしゃがないのお」

「あたたたた」

 と、シャウラの後ろに回ったメィリィが、その長い三つ編みを掴んで引っ張る。幼い少女の腕力だが、わりと本気で体重をかけられれば相当な痛みだろう。
 しかし、シャウラは首のひねりで三つ編みを取り戻すと、その長い黒髪を大事そうに胸に抱きしめて、

「あーしの髪になんてことするんスか! 大事な髪に、恐ろしい娘っ子ッス!」

「だってえ、銀髪のお姉さんとか、ベアトリスちゃんに怒られたくないもおん。半裸のお姉さんがお兄さんに悪いことしないように、見張っててあげないとねえ」

「むっきーっ! 腹立たしいッス! お師様何とか言ってやってくださいッス!」

「シャウラ、俺の二メートル以内にくるな。怖い」

「お師様のバカーっ!」

 おいおいと泣き崩れる素振りをして、シャウラがスバルに背を向ける。
 すべらかな肌がむき出しになった白い背中に、スバルは頬を掻いて目を背けた。それから、後ろ手に手を組んでいるメィリィに目をやり、

「あー、助かった。殺し屋にこんなこと言うのも変な感じだけど」

「気にしないでえ。殺し屋は廃業したみたいなものだしい、今はお兄さんやお姉さんたちの言うことを聞かされてるだあけ。わたしが悪い動物ちゃんたちに手伝ってもらうみたいに、お兄さんたちもわたしをうまく使ったらいいわあ」

「――――」

 他意も悪意もない発言、それだけにメィリィの言葉はスバルには堪えた。
 メィリィは特に何の呵責もなく、普通の考えとしてそれを発言している。それがスバルの世界と、この世界の価値観の違いといえばそれまでだが、

「――――」

 何も言わずに、もっと言えば、何を考えているのかわからない顔で、メィリィは書庫を捜索するエミリアたちの方を無関心に眺めている。
 その少女の背丈は低く、顔には年齢相応の幼さがあり、肢体は伸び切っておらず、女性らしい起伏にもまだまだ乏しい。――つまるところ、子どもなのだ。
 それが、そんな渇いた価値観を是としていることが、どうにも耐え難かった。

「たぶん、お前にもまだまだ頼ることがあるから、よろしく頼んだぜ」

「――? ええ、だからそう言ってるでしょお? うまく使ってって」

「使うじゃねぇよ、頼るだ。道具じゃなくて、対人関係なんだぜ?」

「……ふーん」

 一瞬、スバルの言葉に呆けたあとで、メィリィは意味深に目を背けた。ただ、その反応に不快感ではなく、居心地の悪いようなそれを見出して、スバルは安堵する。
 それこそ、渇いた価値観が彼女の心中にあったとしても、感じられる何もかもがスバルの知るそれから外れてしまっているわけではない。

 互いに未知な状況を歩み寄れる、その事実の方が、今のスバルには救いだ。

「……お兄さんって、ホントに何にも覚えてないのよねえ」

「うん? ああ、残念なことに。なんか、思い当たることとかあるのか?」

 メィリィから記憶のことを振ってきたことが意外で、スバルはそう聞き返す。その質問にメィリィは「そうねえ」と唇に指を当て、嫣然とした笑みを浮かべた。

「ペトラちゃんが聞いたら泣いちゃいそうねえ」

「うぐ……また知らない子の名前が」

「ペトラちゃんはねえ、お兄さんのことが大好きな女の子なのよお。ここに送り出すのもすごおく心配してたから、ほらやっぱりって声が聞こえてきそうねえ」

「おのれ、昨日の俺め、なんて迂闊なことをしてくれたんだ……」

 まだ見ぬペトラなる少女の想いに苦しめられ、スバルは苦い顔をする。
 スバルの知らない『スバル』の足跡を、あと、どれだけ拾い集めればいいのか。

「ホント、昨日のお兄さんが迂闊って意見、わたしもそう思うわあ」

 そんなスバルの内心を余所に、メィリィは背伸びをしながらそう言った。
 それが奇妙な実感を伴っていたように聞こえたのは、スバルの気のせいだったのだろうか。

 いずれにせよ、それを確かめるより早く、エミリアたちが戻ってくる。
 やはり手掛かりはないと、その事実と、予知夢の正確さの証明だけを持ち帰って。



※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


『タイゲタ』の捜索が不発に終われば、その後は二層へ上がる準備時間になる。

 つまり、ここまでがスバルの知る予知夢の範囲であり、ここから先は未知の状況――現時点で、スバルはすでに未来予知の実力を疑っていない。

 状況は、スバルの知る通りに推移した。
 そこに問題があるとすれば、予知したところで手応えのある展開はなかったこと。

「未来予知ができる、って事実が確かめられたことが大きい、か?」

 とはいえ、それも妙な話だ。
 そもそも、予知夢の発動条件がスバルには全くわかっていない。単純に、眠れば確実に発動するものなのか、何らかのキーが必要なのか、完全なランダムなものなのか。
 予知の力に頼りたいほど切迫した事態で、のんびりと眠りこける時間があるとも思えない。このあたり、もう少し詳しく条件を見極めておきたい。
 突き詰めると、この予知で何ができるのかを。

「ひとまず、夢と同じようにベアトリスに無理言って一人にしてもらったが……」

 変身する力があるのではないか、とスバルは色々な試行錯誤をするため、かなりの無理を押し通してベアトリスにご退場願った。
 ベアトリスの粘り方は不思議と夢で見たより強かった気がしたが、それは『タイゲタ』での道中など、接する時間が夢より少なかった影響なのかもしれない。
 ともあれ、こうして無理を言って一人になったことには理由がある。

「夢から覚めた理由と、目覚める直前に何があったか確かめないとだ」

 単純に、現実の方で起きるように呼ばれて起きただけかもしれない。しかし、夢から覚める条件は、他にも夢の中で覚醒に足る状況に出くわす場合もあるだろう。
 恐ろしい目に遭うであるとか、痛い思いをするであるとか、そのあたりだ。

「今、ちょっとゾッとなったけど、予知夢の予知夢とか、胡蝶の夢っぽくて怖いな」

 胡蝶の夢とは、自分が夢の中で蝶になったとき、果たして夢を見ている自分は本当に人間なのか、あるいはあちらこそが蝶が人になる夢を見たのではないか、という考えだ。
 堂々巡りになる思考、答えの訪れない問いかけ、それは自分自身という存在の足場を不確かなものとして、あやふやな場所へ追い込む恐れのある自問自答だ。

 今のスバルの立場にそれを当てはめるなら、これは果たして予知夢から覚めた現実なのか、覚めた現実だと思っている予知夢なのか、といったところか。
 まさか、またしてもあの緑部屋で、エミリアとベアトリスに揺り起こされるところから始まるなどと、そんな風には思いたくないが――、

「――そうならないために、夢の先にいけばいい。それができるなら、エミリアたちに予知夢のことを打ち明けても問題ないはずだ」

 記憶がなくなる前の『スバル』は、どういうわけかエミリアたちに情報の共有を避けたようだが、生憎と、記憶をなくしたスバルは状況を変化させることに貪欲だ。
 迂闊なことをすればどうなるかわからない、とした不安に怯えて、おたおたと遅れ遅れの状況を招くような真似はしたくない。

「――方針は固まったな」

 しばらく、自分の立ち位置を見つめ直し、スバルは予知夢を話すことを決める。
 とはいえ、ここから先はスバルにとっても未知の領域だ。不思議と、ベアトリスと別れたあと、いくつかの変身ポーズを試してからの記憶が淡い。
 故に、予知夢の証明を求められた場合は難しいのだが、その場合は発動条件も含め、彼女たちに協力してもらって解明していくべきだろう。

 使いこなせれば強力な武器になる。あるいはこれこそが、このプレアデス監視塔を突破する上で、最も必要な武器となりえるのではないか。
 だから、そんな思いを胸に――、

「――ナツキくんのことだが、錯乱状態にある彼を同行させるのは危険じゃないかい?」

「――――」

 皆のところに合流しようとして、大部屋の前に辿り着いたスバルは息を詰めた。

 聞こえてきた理知的な声音は、聞き間違いようもなくエキドナのものだ。
 何故か、スバルはとっさに壁に張り付き、声をかけることを躊躇ってしまった。そんなスバルの存在に気付かず、室内の会話は続けられる。

「エキドナ、危険というのはどういう意味だろうか」

「確認するまでもないことだろう? 彼が記憶を失ったこと、それはここまでの態度を見るに事実だろう。しかし、その後の受け答えは明らかに正気を逸している。『イセカイ』という単語の説明がその証左だ」

「イセカイ……」

「まさか、本当に彼が大瀑布の彼方からやってきたと信じているわけじゃないだろう?」

 ユリウスとエミリアが、エキドナの言葉に息を呑んだ気配があった。
 同時に、スバルの心臓が強く跳ねる。今の、エキドナの発言はどういう意味なのか。それを飛び出して確かめたいと、そう訴える感情を抑えつける。
 スバルがそうしなくても、きっと他の誰かが――、

「確かに、荒唐無稽な説明だったわね」

「ラムまで、スバルの言うことを疑うの?」

 淡々と、感情の凍えたラムの指摘にエミリアが驚く気配がする。そのエミリアの問いかけに、ラムは「エミリア様」と短く呼ぶと、

「ラムも、バルスの言い分を頭から疑うわけではありません。実際、バルスの持ち込む知識や言動、奇妙な風習は大きく知られていないものばかりです。あるいは、誰も知らない場所からきたと、そう信じるに足るかもしれない」

「それなら……」

「でも、それはあくまで地続きのどこかの話。大瀑布……この際、バルスの言葉に合わせてイセカイでもいいけれど、そんな場所の実在は信じられない。……もう、今のバルスの言葉を、信じる根拠なんて、ない」

「ラム……」

 苦いものを堪えるようなラムの声に、エミリアが気遣わしげに彼女を呼んだ。しかし返事はなく、エミリアは微かに喉を鳴らしてから、

「私は、スバルを信じる。ベアトリスもそう。だから、みんなもお願い。スバルの言葉を信じてあげて」

「……エミリア様、エキドナはスバルを、彼が自発的に我々を騙そうとしていると言っているわけではありません。ただ、今の彼が平静にないと、そう言っているだけです」

「その言いぶりだと、お前はそっちの精霊に賛成ってことかしら?」

 エミリアの懇願を、ユリウスが理性的に押し返す。だが、それは全面的にスバルの味方をしようとするベアトリスにとって、癇に障る発言でもあった。
 途端、室内に不穏な空気が流れ、スバルの額を汗が伝う。

「まぁまぁ、ケンカはやめて落ち着いた方がいいッスよ。今、ここでポコポコやり合ってもお師様いないし、喜んでもらえないッスもん」

「そういう尺度の話し合いじゃないと思うんだけどお。……でも、そうよねえ」

 変わらず、傍観者に徹するような立場にあったらしいシャウラとメィリィの声。しばらくもったいぶるように笑い、メィリィは「おっかしい」と続け、

「お兄さんにでも直接聞いてみたらあ? お兄さん、頭がおかしくなってるのおって?」

「――っ」

 その言葉の毒気に、スバルは強く奥歯を噛んだ。そして、自分でも驚くほど冷静に壁から離れると、足音を立てないように慎重に部屋を離れる。

「――――」

 そのまま、いくらか距離を取り、慎重な足取りは早足に、やがて駆け足になる。
 そうして、誰もいない通路の突き当たりに出くわすと、壁に額を押し当てた。

「く、そ……!」

 誰に、何を言うべきかもわからず、スバルは燻る感情のままに壁を叩く。

 スバルを欠いた状態で、ああして交わされていた話し合いは、思いの外衝撃だった。
 全面的な信頼が勝ち取れた、などと自惚れていたわけではない。むしろ、そんなところは思考の範疇になかったと言っていい。

 信頼は、前提だとスバルは思っていたのだ。
 エミリアとベアトリスが、あまりにスバルに親身で、気遣ってくれるものだから。
 それを居心地が悪いなどと嘯いておきながら、信じてもらえて当然だと驕っていた。どこか別の場所からきたと、きっと塔の攻略に役立つと、何の疑いもなく。

 記憶をなくした足手まといで、平静な思考を失った役立たず。

 客観的に見て、自分がいったいどれほど恥知らずな状態にあるのか、それをようやく思い知った気がする。

 何が、信頼は砂上の楼閣なのか。
 自分の方がよほど、そのことを理解できていなかった。

『ナツキ・スバル』が勝ち取ったものを、ナツキ・スバルが扱えるものかよ。

「この調子じゃ、予知夢のことなんて打ち明けても無駄だ」

 記憶喪失を信じてもらえたのは、彼らが善良であることの何よりの証拠だ。
 だがそれと同時に、異世界のことを信じてもらえなかったのは、彼らが良識ある人間であることの証明でもある。
 そして、予知夢の説明がどちらの天秤を傾けるか、考えるまでもない。

「最初から、掛け違えた……」

 失敗した、失敗したのだ。
 今さら、スバルが頼れるところを発揮して、どうして評価を覆せる。
 今、求められているのは『ナツキ・スバル』なのだ。ナツキ・スバルではない。

 素知らぬ顔をして、彼らの下へ戻ればいいのか。そして、彼らがどんな会話を交わしていたのかも知らない様子で、図々しく二層の攻略に加わればいいのか。
 あるいはエミリアとベアトリスが押し切られ、置き去りにされる方になるのか。置き去りにされるとして、お目付け役には誰がつくのか。
 せめてそれは、会話に困らないシャウラかメィリィを希望したいところだ。

「……クソ、馬鹿馬鹿しい」

 言いながら、何気なく通路を歩いていたスバルの視界が急に開けた。
 出くわしたのは、四層と下層を繋ぐ巨大な螺旋階段――恐ろしく大きな監視塔、その真ん中から下半分までを空洞で繋ぐ、巨大な、

「螺旋、階段……」

 ふと、その光景に目を凝らし、スバルは少し考え込んだ。
 ここへくるのは、夢も含めれば二度目のこと。夢でも現実でも、記憶をなくしたスバルのために、エミリアたちは塔の中を軽く案内してくれた。
 だから、この光景に見覚えがあるのは間違いではない、のだが――、

「いや、それとは別に、なんか、変な感覚が……」

 ぞわぞわと、背筋の産毛が逆立っていく感覚がある。
 全身の血が冷たくなり、耳鳴りがやけに大きく感じる。自然と心臓の鼓動が早くなり、息遣いが荒くなって、何故か膝が震え出した。
 カチカチと、合わない歯の根が音を立て始め、スバルは異常を自覚する。

 だが、気温が下がったり、外部的な影響を受けた変化ではない。
 この異常は、異変は、スバル自身の肉体を起因としたものだ。もっと言えば、この肉体への影響は、スバルの精神か、もっと深いところの何かが――、

「――ぁ」

 とん、と軽い衝撃があって、スバルは一歩、前に踏み出していた。

 ――否、踏み出したとは言えない。

 踏み出したとは、踏みしめる大地があって成立する言葉だ。

 前に一歩、足が出た。

 そして、その足は、宙を掻いた。

 だから、


「あ
  あ
   あ
    あ
     あ
      あ
       あ
        あ
         あ
          あ
           あ
            あ
             ――ッ!?」

 落ちる、落ちる、落ちている。
 自分の体が浮遊感に呑まれ、天地が大きくひっくり返り、豪風が鼓膜を殴りつける。
 その状況に置かれて、スバルは理解した。転落している。

 違う、軽い衝撃があった。ただ、落ちたわけではない。

 自分は突き落と「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ――ッ!!」

 絶叫を上げ、スバルは必死に手を伸ばした。どこか、掴まる場所を懸命に求める。
 何もない、どこにもない、世界がわからなくなるぐらい、回転していて。

 体の中身が全て、下から上へと引っ張り上げられる絶望的な嘔吐感。それが口の端から溢れ、黄色い胃液がごぼりと垂れ流されて、宙にぶちまけられる。

 この感覚に、覚えがあった。
 異常な嘔吐感と苦痛に苛まれながら、曖昧だった記憶が恐ろしく研ぎ澄まされる。

 そう、そうだ、そうだった。
 目覚める前、予知夢の終わり、スバルはやはり同じ目に遭っていた。

 転落して、どうにもならない状況を嘆いて、そして、意識が途切れて。
 だから、この状況もじきに終わって、予知夢から覚めて、あの緑の部屋に――、


 瞬間、衝撃がスバルの右半身を粉々に砕く。

「くか」

 空気が割れるような音と、稲妻のような衝撃が右半身を襲い、スバルは絶句した。
 そして、遅れて襲い掛かってくるのは、空前絶後の激痛だ。

「ぎ、ぃぃぃぃぃああああああ!!」

 ちらと見れば、右腕が肘から反対にへし折れ、骨が突き出しているのがわかる。血塗れの状態で、上着は破れ、桃色の筋肉とやけに白い骨が見えた。

 激突したのだ。
 恐ろしく高所から落下する勢いのままに、スバルの体が螺旋階段の一部と接触した。そのまま、転落と回転の勢いはスバルの体をぶち壊し、なおも止まらない。

 ――否、それどころか。

「が! ごぉ! げぅっ!」

 血をまき散らしながら回転する体が、そのままさらに下の段差と激突する。
 運の悪いことに、次に段差の一撃を浴びたのは頭だった。額がばっくりと割れ、頭蓋の中のこぼれてはいけないものがこぼれる感覚。

 一瞬で意識は彼方へ消し飛び、そのまま途切れて――しまいそうなところで、また別の段差と体が衝突し、へし折れた右腕がより人の形を失っていく痛みに覚醒する。

「ああああ!!! ぎあぁぁぁぁっっ!!」

 痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い。
 痛みが、苦しみが、嘔吐感が、灼熱が、ナツキ・スバルを粉々にしていく。

 腕が、足が、顔が、叩きつけられる石の階段に削られ、砕かれ、潰されて、人ではないものにしていく。人ではない、『ナツキ・スバル』ではないものに。

 ――記憶が人を形作るんだよ。

「ふへ」

 おびただしい量の血をばら撒きながら、スバルはふと、そんな声を聞いた。

 そんな馬鹿なことを言ったのは、わかったような口を利いたのは誰だったのか。
 だが、いいことを言うものだ。記憶がその人を形作る。いい言葉だ。

 だとしたら、記憶を失い、自分の在り方を損なった存在は、いったい、どこの誰で、何者になるというのか。

「――――」

 血を吐くような、文字通り、血を吐くような絶叫を、上げる喉も潰れた。
 はるかはるか地上へ辿り着くまでの間に、ナツキ・スバルはバラバラになる。

 夢が、覚めることはない。ナツキ・スバルはしくじった。

 失敗したものに、取り返す機会などない。
 終わりがくる。

 ゆっくりと、暗く昏く、世界が染まっていって。


 ――オマエハ、ダレダ。


 痛苦と熱い血潮の果てに、ナツキ・スバルの存在は、砕け散った。




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