LGBTPZN Advent Calendar 2016 参加記事。
前稿では、「LGBTPZN革命」と「砂鉄事件」という用語を提案し、LGBTPZN革命 (2016年9月26日) から砂鉄事件 (同年11月23日) にいたる経緯を説明した。さらに、砂鉄事件の背景を理解するため、砂鉄のツイッターアカウントの性質を検討した。
本稿では、砂鉄がLGBTPZNに言及したツイートを精査し、それらの発言をLGBTPZNの運動に組み入れるべきか検討する。
まず、読者の便宜のため、砂鉄がLGBTPZNについて言及した3件のツイートを引用する。RTといいねは12月1日時点の値である。以下、これらのツイートは、番号順に「ツイート1」「ツイート2」のように参照する。
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LGBTPZN、ポリコレごっこしてた連中に本物の政治的中立性を叩きつけてる感あって非常に面白いな。ちなみにレズ・ゲイ・バイセクシャル・トランスジェンダー・ペドフィリア・ズーフィリア・ネクロフィリアの略で、これらは多様な性嗜好全てを象徴する物で他の性嗜好も内包すると表明している (11月23日、175 RT、167いいね)
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LGBTみたいな一部の性癖だけを特権階級化する差別的な運動より、LGBTPZNの方が余程政治的に中立性高いし、LGBTが偽物でLGBTPZNが本物っていう判断で正しいんじゃないの。何で差別的な集団が本物面してんだよ引っ込んでろ (11月28日、81 RT、96いいね)
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俺はLGBTPZNの「他人の性癖に干渉するな」という運動なら支援するがLGBTの掲げる「私たちの性癖は許されるべきだが、ある性癖は許されるべきではない」という主張については全く賛同しないし積極的に破壊すべきだと思っている。これは典型的な社会差別の発想であり許されるべきではない (11月28日、213 RT、238いいね)
本稿では、特に、砂鉄のツイートがLGBTに対する攻撃をどの程度まで意図していたかを中心に検討していきたい。
ツイート1では「ポリコレごっこしてた連中」という、やや攻撃的な表現が用いられている。11月23日の時点では、「連中」がLGBTを指すのかどうか定かでない。とはいえ、11月28日のツイートではLGBTを名指ししているし、23日の時点でこのツイートに反応した人たちも、ツイート1がLGBTに対する攻撃であるという認識は共有していた。なお、ツイート1の第2文 (「ちなみにレズ」以降) は、LGBTPZN.orgの見解をほとんど正確に踏襲している。
ツイート1の「ポリコレごっこ」と「本物の政治的中立性」が対句である、すなわち、「ポリコレ」と「政治的中立性」がシノニムであり、「ごっこ」と「本物」が反対語である、という解釈は可能だろうか? 「ポリコレ」と「政治的中立性」は異なる語ではあるが、砂鉄自身は両者の区別を意図していないように思われる。だとすれば、「ポリコレごっこ」は「偽物の政治的中立性」に置き換えられる。「連中」は砂鉄のスタイルからすれば単なる三人称複数の代名詞とみてよいだろう。では、LGBTが「偽物の政治的中立性」であるという言明は、LGBTに対する攻撃だろうか、それとも真面目な異議申し立てだろうか?
ここで、「ポリコレ」という語について、予備的な検討を必要とする。英語圏にはpolitical correctnessというフレーズがあり、これを機械的に日本語にしたものが「政治的な正しさ」である。この訳は、あくまで逐語訳であるから、political correctnessという英語の意味を適切に反映しているとはいいがたい。それとは別に、「ポリコレ」というネットスラングがあり、これはほとんど「言葉狩り」のシノニムである。「言葉狩り」とは、差別用語をそうでない語に機械的に置き換えることに熱中し、差別の本質的な解決に結びつかないことを揶揄する言葉である。さらに、「ポリコレ」という語は、実感を伴わない人権概念、くらいの漠然とした意味で使われることもある。
残念ながら、語には意味のほかにコノテーションが存在する。しかも、両者の区分はしばしば曖昧である。例えば、「漆黒の」と「どす黒い」のコノテーションは異なる (両者は別の色だろうか、それとも、物理現象としては同じ色であるものに、別のコノテーションを付加しているのだろうか?) し、「パチンコ」と「遊技機」と「朝鮮玉入れ」はコノテーションが異なる。(ここで例に挙げるとかえって混乱するかもしれないが、「ブラック」と「ニガー」のコノテーションは異なるし、「ゲイ」と「ホモ」のコノテーションも異なる。)
砂鉄のツイート1に戻ると、「ポリコレごっこ」は悪いコノテーションのかたまりであり、LGBTに対して糞を投げつける蛮行であると言わざるを得ない。一方で、LGBTが「偽物」であるという指摘は、真面目な異議申し立てである。もしそうでなければ、なぜLGBTPZNという新たな語を創作する必要があるだろうか。
ツイート2の冒頭、「一部の性癖だけを特権階級化する」というのは不思議なレトリックである。なぜなら、「一部の性癖」を擬人化したうえで、それが「特権階級化」していると言っているのであって、擬人化された「性癖」は人ではなく概念なのだから、倫理的な非難の対象にはならないからである。
とはいえ、直後に「差別的な運動」、第2文では「差別的な集団」という表現を用いており、LGBTの当事者および支援者が「差別的」であるという主張を行っている。これは、意味としてもコノテーションとしても、明らかにLGBTを攻撃している。
ツイート3では、コノテーションによる攻撃は後退し、ロジックによる攻撃でLGBTを追い詰めている。LGBTの主張を「私たちの性癖は許されるべきだが、ある性癖は許されるべきではない」と要約したうえで、「積極的に破壊すべき」と自説を明らかにしている。
ここで、砂鉄による「性癖」という語の使用についても検討したい。LGBTの支持者は、おそらく、この語の使用を嫌がるだろう。LGBTの支持者はしばしば「性的指向」と「性的嗜好」の区別を主張する。(とはいえ、本来これは日本語の同音異義語を利用した洒落だった疑いがある。) 「性癖」は「性的嗜好」をさらに通俗的にしたような語であり、「指向」と「嗜好」の区別を肯定する立場からは、非常に反感を買うであろう。
LGBTPZN.orgでは、これらに対応する用語として「多様な性」を用いている。「多様な性」は複数形であるので、それらを構成する個々のものについて言及するときは、単に「性」となる。ここまで開き直ると、ゲイ・レズビアン・バイセクシャル・トランスジェンダーが「性」であることと、ペドフィリア・ズーフィリア・ネクロフィリアが「性」であることは、どちらも言語的な不自然さは変わらない。LGBTPZNという語を導入するとともに、「性」という語の意味も作りかえられていると言える。
最後に、LGBTが「私たちの性癖は許されるべきだが、ある性癖は許されるべきではない」という主張を掲げているという砂鉄の主張は、事実であろうか? LGBTという語を使っているとしても、この4種類に含まれない性を積極的に排除しているとは限らない。LGBTという語を、4種類の性のアクロニムではなく、多様な性を包括する語として解釈することもある。(これは、LGBTPZN.orgにおけるLGBTPZNの解釈と正確に一致する。) また、LGBTが4種類の性だけを救済するとしても、他の性に対しては中立であって、積極的に攻撃はしていないということもあり得る。
インターネットの論客というレベルでは、「性的指向」と「性的嗜好」の区別を自明なものとしたうえで、LGBTを称揚し、ペドフィリアを犯罪者とみなす主張も、しばしば見受けられる。しかし、LGBTを「運動」あるいは「集団」とみたときに、このレベルの意見をもって代表させるべきではない。エスブリッシュメントなLGBTの運動は、ペドフィリアやその他の性的マイノリティーを自分たちの運動からは注意深く遠ざけつつも、積極的に攻撃する意思はないようである。
では、本稿の表題である問いに戻ろう。LGBTPZNは砂鉄を包摂すべきか? まず、攻撃的なコノテーションを駆使するスタイルについては、砂鉄の言語能力とメンタリティに支えられた、ある種の才能である。私たちは、これを模倣すべきではないし、非難すべきでもない。私が、衒学的な方法で長文のブログを書くように、それぞれの者が自らのスタイルを選択すべきである。
次に、LGBTの運動ないし集団が、差別的であるという主張を受け入れるべきだろうか。これは、先ほど指摘したように、インターネットの論客のうちには真である者もいるが、そのような者をLGBTの運動ないし集団の代表例とみなすべきでない、というのが私の見解である。
一橋大学のアウティング事件に象徴されるように、わが国でLGBT当事者であることは、いまだ命にかかわる危険がある。また、博報堂グループが「エグゼクティブ・ゲイ」についてのレポートを販売したように、LGBTの存在が金銭的な動機で利用されることもある。 (ただし、この件を批判的に報じているのはBUZZAPのみであるため、注意が必要である。) LGBTの運動は、「特権階級」に安住している余裕などない。LGBTが4種類の性のみから成るアクロニムを用いていることは批判すべきだが、LGBTが特権階級であり差別主義者であるという主張は、受け入れるべきではない。