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森友文書事件を「書き換え」問題だけに限定してはいけない理由

中立・公正な日本官僚制の再建に向けて
森友文書問題を私たちはどう捉えればよいのか。「『書き換え』問題だけに限定してはいけない」と言うのは、東京大学大学院教授の金井利之氏だ。また、現場の財務官僚は矜持と良心を持ち、本省官僚は「正常」な判断ができていると見ることもできるという。どういうことだろうか。

決裁文書に信用力がなくなった

3月2日付の朝日新聞報道によって、森友学園に対する国有地売却案件に懸かる財務省の決裁文書が、書き換えられている疑惑が報道された。国会議員に提出された「決裁文書」なるものとは別個の決裁文書が存在していた。

元々の決裁文書を加除修正した文書が国会に示され、それに基づいて国会論議・報道などがなされ、2017年11月の総選挙も行われたのである。

行政または近代官僚制とは、文書による行政を基本とする。決裁文書とは行政の意思決定を確定させるものである。決裁が終了した文書を書き換えることは、いわば、意思決定を勝手に変えるものである。

一旦、決裁によって決定された内容が、正規の決裁という新たな意思決定に拠らないで変更されるのであれば、この国の行政は、意思決定ができないことを意味する。

 

なぜならば、決裁によって正規の意思決定をしたものが、いつでもだれかの都合によって書き換えられるのであれば、いつでも意思決定は変えられることになる。つまり、全ての決裁文書に基づく意思決定には、確定されたという信用が無くなる。

この問題は、現在の日本国の行政の全ての意思決定に、確定したという保証を無にする。行政の決裁文書に、何らの信用力がなくなるのである。

当然、これは由々しき事態である。

なぜならば、行政の本質は意思決定であり、意思決定できない行政とは機能不全である。

文書の書き換え・訂正などという生やさしい問題ではなく、「改竄(ざん)」「偽造・変造」と称されても仕方がないであろう。その意味で、大問題である。

「書き換え」問題に限定してはいけない

それゆえ、誰が書き換えたのか、誰が指示をしたのか、誰が誰に忖度したのか、などの真相の解明と責任の追及が求められている。

国会での質疑、証人喚問、あるいは、野党議員と関係省庁官僚との合同ヒアリング、マスコミ調査報道、司法当局の捜査など、多方面の尽力が必要である。

しかし、筆者はこの問題を「書き換え」問題にのみ限定することは、適切ではないと考える。

なぜならば、「書き換え」が問題ならば、「書き換え」なければよい、という結論になりかねない。ということは、「書き換え」後のような文書を、最初から近畿財務局が起案・決裁をしておけば、「書き換え」問題は起こらなかったことになるからである。

そうであるならば、決裁文書は、事実がどうであろうと、最小限の当たり障りのない、いわば、ほとんど無内容の綺麗事だけを書くことになる。こうすれば、改ざんなどは、必要がそもそも生じない。

この問題は、単に行政が文書をできるだけ書かなければよい、というように歪曲して収束される危険がある。

「書き換え」問題の「再発防止」を検討すれば、「書き換え」前のような決裁文書を作成しても、決裁が終わった以上は「書き換え」させない、という正しい方向には向かわない。

むしろ、財務省に「書き換え」の責任に押し付けて本件を収束させ、最初から「書き換え」後のような文書を起案・決裁するように、財務省を初めとする各省への締め付けを強化することになるかもしれない。

そうした懸念を考えれば、国民としては、「書き換え」後のような取り繕った行政文書を、各省官僚が作るようになることを防ぐことが、重要なのである。