相変わらず、こういう話に「ダウト」「ネタ」「嘘コケ。ネタだろ。」というブコメがついていて辟易した。最近やっと、ネットやはてなの事が分かってきて、まあ、増田だから疑われるんだろうというのは理解できるようになった。だとしても、なぜ、このネタを投入して何を考えてほしかったのかを考える気がないなら、ノーコメントにすればいいのに、ともよく思う。
しかも、私のブログも体験したことを書いていると言っても「創作」「嘘」とか言ってくる人がいるので、ネットには自分が体験したことのないこと、想像できないことを起こってないことにしたい人、あるいは何が何でも「嘘認定」したい人が一定数いるんだなと気づかされた。
嘘認定をしたい人達
私のブログも記憶をたどって思い出しながら書いてるから覚え違い、勘違い、名称を知らない・あるいは覚え間違いしていることもある。また、私自身や登場人物が身バレしないために、多少フェイクを入れる場合もある。例えば苗字は仮称だし、職業や状況がかなり特殊で身バレしそうなのは、芸能人を自営業と書くという程度にはフェイクは入れる。だけど、本筋に嘘はない。
すさまじい貧困の様子や、手取り9万円の女性が2000万円貯めたという、毒にも薬にもならないような記事にでさえ、「創作認定」が入り、それに星がついた。
私の好きな貧困ブロガーさんも、何年も何の矛盾もないつぶやきブログを書いているだけなのに、50代で独身で女性で、給料は9万円で、夫が統合失調症になって一家離散してって、ただそれだけのことを書いているだけで嘘認定をうけたらしい。最初はコメント欄を開けて受け答えしていたのだが、怒りと悲しみとあきらめが頂点に達し、彼女は全てのコメント欄を閉じてしまった。
彼女は今でも「冬でも食器洗いは水」とか、「洗濯機がなくて洗濯は手洗い」とか書いている。おそらく、コメント欄を開けていたら「冬に水洗いとか嘘でしょ。」とか「今どき洗濯機がないなんて嘘でしょ。」とか書かれるんだと思う。
個人的にはこういうコメントを書く人は「善良な人」か、「同族嫌悪」の人だと思っている。
善良な人の場合
- 子供を殴らない親は、子供を殴る親がいるなんて信じられないし、信じたくない。
- 子供に食事を与える親は、子供に食事を与えない親がいるなんて信じられないし、信じたくない。
- 生徒をイジめる先生を見たことがない人は、生徒をイジめる先生が信じられないし、信じたくない。
みたいなことで、善良な人たちは、自分たちがあまりにも善良で悪意を持つ必要のない環境で生きてこれたので、世の中にそんなひどいことをする人がいる、そんなひどい環境で生きている人がいるとは信じられないし、信じたくもないのかなと思う。
同族嫌悪の場合
また、上記の貧困女性ブロガーさんの場合は、元夫が重度の統合失調症になって、彼女は支えるつもりだったのに、夫が記憶障害になってしまって彼女のことを忘れてしまい、知らない人と一緒にいるのはいやだと、夫のほうから離婚を申し込まれ、別れたという悲しい過去があった。だけど、そんなことを書いていると、別の統合失調症患者の家族から「私の家族も統合失調症ですが、そんな症状はありません。あなたは嘘をついている。」というようなコメントが入ったみたいです。
例えば児童虐待の死亡例等では、胃の中からマヨネーズが見つかった、ジャムが見つかったなどの報道がありますが、児童虐待を受けた子供の私からすれば、そんなの「あるある」です。米がなくなれば、ジャム、マーガリン、味噌、マヨネーズ、それもなくなったら氷をなめてました。こういう状況の子供のことを信じられない!こんな親がいるなんて!って言う人もいるが、じゃあ、頻繁に子供の悲鳴が聞こえていたはずの私の隣やその隣の家の人はどう思ってたんだろ?頻繁に学校の職員室に怒鳴り込んで訳の分からないことを叫ぶ父親のいる私について学校の先生達はどう思っていたんだろ?私の父親が無職でお金がないのを知っていて、父親と縁を切った親族たちは私がどうやってご飯を食べていると思ったんだろ?と思いました。何度か父が兄弟(私から見たら叔父)に「10万円貸してくれ」と言っているのを見たことがあるので、おそらく、結構な金額の借金をして返すつもりも見込みもないので、これ以上たかられては困ると縁を切ったのでしょう。要するに、父とその子供の私は自分たちで食えないなら死んでくれって思われていたのではないかと思う。
ひとつの事柄には色んな背景がある
育児放棄や虐待について、普通の家庭にあるはずのものがないのが育児放棄の家ですということを伝えるために、
「例えば我が家にはトイレットペーパーがなくて、お尻が拭けませんでした。」
と、ネットに一言、書いたする。これは、育児放棄の家庭で起こる一例にすぎず、私にとっては大筋にはあまり関係が深くなく、本筋で描きたいことは別にあるのに、(私にとっては)細かい、こういう一言に多くのツッコミが入ったりする。
この場合は、おそらく「トイレにトイレットペーパーがないわけないだろ!ネタだ!創作だ!嘘だ!」と言われるだろう。でも、本当になかったんだもんとしか言いようがない。
「じゃあ、どうやってケツ拭いてたんだよ!」というツッコミが次ぐらいでしょうか?トイレットペーパーがない時は、新聞紙をちぎって、揉んで柔らかくして、それで拭いてました。なお、できるだけ長く新聞紙を維持させたいのでできるだけ小さくちぎって使ってましたといしか言いようがない。
そしてら次に入ってくる嘘認定は「そもそもトイレットペーパーがない家が新聞とれるわけないじゃん!嘘松。」とかいうコメントだろう。その通りだ。新聞なんかとってない。昔はそもそもレジ袋がなくて、肉屋も八百屋も商品を新聞紙をぐるぐるっと巻いて渡してくれて、それを持って行った買い物かごにいれて持って帰っていた。だから、その新聞紙があったよ、と事実を答えるしかない。
そしたら、今度は「いやいや、そんな少ない新聞紙じゃ、足りなくネ?なくなったら手で拭くの?創作おつーww」みたいな、コメントが入るかな?さすがに、かなりの鈍感力を身に着けている私でも、便を手で拭くことはできなかった。だから、新聞紙もない時はその辺に落ちている衣服で便を拭いていた。
それも、できるだけ、これと決めた部屋着一着で何回も拭いていた。何故なら、それを洗濯して、また拭くし、最悪、その服を洗濯して着る可能性があるから。着用する可能性があるから、できるだけ汚す枚数を減らしたかった。育児放棄の家はそもそも、成長に合わせて洋服を買い足すっていうことをしてもらえない。何とか自力で洋服を手に入れても、一季節で持ってる洋服の数なんて多くても五枚程度。少なくても私はそうだった。だから、便を拭いたから捨てるなんて、とても考えられなかった。ちなみに、そんなことにならないようにトイレは、できるだけ学校やスーパーで済ますなどの工夫はしていた。
で、そんなことを正直にいちいち答えていたとすると、今度は、「そんなに昔だったら、トイレットペーパーとか、なかったんじゃね?創作おつー」とかいう、もう、本筋とは全く関係がないところからの嘘認定が始まるのがパターン。ええ、確かに、私の時代はトイレットペーパーという名前でもなく、形状も全く別のもので、「ちりし」「便所紙(べんじょがみ)」と呼んでましたけど、最近の人には分からないだろうから、気を利かせてトイレットペーパーと書いたんですけど、それもダメですかね?みたいな気分になる。今まで、こんなふうに細かく「嘘認定」に回答したことはないけど、いちいち答えてたらこんなに長くなってしまうという例です。
自分のブログ、人様のブログ、増田とか見てて、どーして、そんなに細かいところを指摘してまで「嘘認定」したい人がいるのかが本当に分からない。ここはフェイクを入れてるんだろなとか、ここはおそらく勘違いだろうなとか、なんで寛容な気持ちで読んでくれないの?全ての事柄にいちいち注釈をつけて1ページで何万文字も書けと?
もし、何万文字もかけて丁寧に説明したら、それはそれで、今度は「長い!説明が多い!」って読んでくれないじゃん!って、キレそうになる。
特に、底辺、貧困、虐待関係の話は、上記のように、人に言うのが恥ずかしい話も多い。例えば「食べ物がなくて小学生の時に食べ物を万引きしていた」とか、「中学校の時から売春してた」とか、「売春とまではいかなくても、よく食べ物をくれていたおじさんに(性行為を)要求されて、食べ物ほしさに言うことを聞いた」とか、ありそうな話で、「食い物どうしてたんだよ?ww」とか、「その金どうしてたんだよ?ww」とか言う質問に、明らかに自分が不利になったり、恥ずかしかったりする詳細部分まで答えなきゃいけないの?と思う。
でも、食べるところ、住むところの支払いに困ったことのない人に、子供時代に自分で食べ物やお金や物品を調達しなけれなければいけなかった子の、それを想像しろというのも、貧乏人の身勝手だ、そんなの想像できるわけない、と言われたら返す言葉もない。そうだよね、自分が体験したことも見たこともない世界を想像しろっていうのは無理だよね…
お金持ちは、中流やましてや極貧の生活状態なんか分からない
中流も、お金持ちや極貧の人の生活状態なんて分からない
極貧も中流やお金持ちの生活状態は想像がつかない
上記の増田を読んで、出生や生活環境から生まれる断絶に、絶望を感じだというお話。特にオチはない。
上記の増田とその反応を読んで、メンタルを崩して書きなぐった記事なので、支離滅裂かもしれませんが、少しでも、障害や貧困の中に生まれてきた人たちのことを考えてほしいという気持ちで書きました。もう、燃えるなら、燃えてしまえという、ヤケクソなカミングアウトです。