霞ケ浦周辺の低湿地帯の特性を生かし、戦後間もなく米からレンコン栽培に切り替えた土浦市の八島八郎さん(81)とイエさん(80)夫妻は、土浦のレンコン農家の先駆け。水堀りによる収穫法を考案したり、品種改良にも力を入れながら農家の収入安定を目指してきた。一方、国内外で栽培技術を指導するなど「レンコン名人」としても知られ、後年は後継者育成にも力を入れている。
石岡で12人兄弟の10番目に生まれ、風来坊だった24歳のときにイエさんと見合いし土浦の八島家に婿入りした。イエさんの家はもともと埼玉で従業員200人を抱える軍事工場を営んでいたが、経営が厳しくなり太平洋戦争真っただ中の1945年(昭和20)1月に土地を求めて土浦に移った。
「食料が手に入らないため、従業員を食べさせるには米作りしかないと考えたんでしょうね」とイエさん。
10ヘクタールの土地を購入し、掘っ立て小屋を建てて米作りを始めたが7カ月後に終戦。翌年の農地改革で地主の貸付地が制限され、両親は7ヘクタールの土地を泣く泣く手放した。
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「農業の未来はない」と打ちひしがれて残された3ヘクタールの土地で米作りをしていたイエさんが結婚したのは23歳の時。しかし、間もなく父親が他界し大型台風の上陸で田んぼの7割が被害を受けるなど苦難が続くと、「ここは米作りには向かない」と夫婦で先行きを考えた。
そして八郎さんは、霞ケ浦近郊や土浦周辺の湿地帯がレンコン栽培に向いているのではないかと、数軒あった阿見や小美玉のレンコン農家を訪ねてはノウハウを学んだ後、58年に茨城レンコン組合を数人で発足。
実験も兼ねて土地の片隅に植えたレンコンは、一年後に収穫できる大きさにまで成長した。
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手袋の代わりにゴムの指サックを5本の指にはめ、足さばきのいい田股引(たももひき)をはいて裸足でレンコンを収穫。わらで包んで売ると人件費が一日280円の時代に8キロ350円で売れた。
これなら食べていけるかもしれないと米をレンコン栽培に替え、改良を繰り返す日々。
漁師の仕事をヒントに水圧を利用して収穫する水掘りも考案し、水圧でドロを飛ばして収穫したレンコンは小舟に乗せて作業場へと運んだ。「体が冷えると非難する声も多かったけどね」と八郎さん。
その後、レンコン栽培に大切な有機肥料の研究にも取り掛かり、78年(昭和53)にレンコン専用の有機ミネラル肥料を開発し「ヤシマA・B」としてそれぞれ特許を取得した。
そんな努力から42歳で農業経営士に推薦され、国内各地や中国にも出向いてレンコン栽培技術者として種子や肥料を持参し、指導した。中学生の収穫体験受け入れは約10年続き、「お礼の手紙をもらうと励みになったよ」と二人。さまざまな相談も各地から寄せられ、交流が広がった。
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宮城県の市役所から「伊豆沼で白鳥がレンコンを食べ尽くし、余計なものを食べて大量死したから助けてほしい」との相談に急ぎ駆けつけてレンコンを植えたり、山口県のレンコン農家の友人から突然変異で一本だけ咲いた花蓮の品質改良を頼まれたこともある。
その品質改良は20年がかりの取り組みになり、花付きが通常の8倍、花弁は108枚ある艶やかなピンク色の花蓮を生み出し藕糸蓮(ぐうしれん)と命名した。
藕糸(ぐうし)とは蓮の茎部から繊維が採種でき織物に活用できるという意味で、かつては高級織物として需要もあったという。その花を見ることなく世を去った友人の墓に供えて完成を報告した。
さらに、レンコン研究の一端を担っていた故千本松幹夫さん(土浦)の提案で、敬宮愛子内親王の誕生時に敬宮の紋や五葉つつじ紋入りの袱紗を蓮糸で織り上げて献上。ボランティア約300人の汗の結晶だった。
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今も毎日、日の出とともに起きてレンコン田に向かう八郎さんとイエさん。
「仕事を終えた後の晩酌が今一番の楽しみなんだ。跡継ぎがいないから大変だよ」と、81歳の顔のしわが時を語る。