『幸色のワンルーム』という作品が、実写化を期に色々なバッシングを受けている。
というか、申し訳ないが私も言っている。
大人がくだらないことで誤解をして騒いでいるとうんざりしているのではないだろうか。
なので、私の考えることをいくつか書く。
まず言わなくちゃいけないのは、
「あなたがあの作品を好きなことを、咎める権利も、バカにする権利も誰にもない」ということだ。
ある作品を読んで、それが好きだと思う気持ちは最大限に尊重されなくてはならない。
彼女にとってあの部屋の外の人間こそが害悪であることも知っている。
あの作品を見て誘拐事件を起こすような人間がいるかも、とも、私は思っていない。
では、なぜ非難するのか。
それは、『幸色のワンルーム』が、バカの妄想とよく似てしまっているからだ。
「現実は現実、フィクションはフィクション。なんで混同して叩くんだ、区別くらいつけろ、ばかばかしい」
という意見はたくさんあった。
実際その通りで、現実とフィクションを混同するのはバカのすることである。
同様に、あの作品を読んで「女の子を誘拐しようと思う男」もバカだろうし、
では、これはどうだろうか。
「(『幸色のワンルーム』の幸みたいに)自分でお兄さんのところに住みたいって言ったんじゃないの?」
という奴がもしいたら。
そいつは現実とフィクションの区別のつかないバカではないだろうか?
そんなバカ、世の中にいるとは思いたくないが、いたのである。現実に。それもたくさん。
朝霞市の女子中学生が、大学生の男に2年間監禁されていた事件を覚えている人は多いと思う。
「じつはこの女の子は自分から男のところに住みたいと言ったのではないか?」
「監禁されたなんていっているけど、喧嘩でもした腹いせに、男を悪者に仕立てあげてるだけじゃないか?」
実際の事件の被害者や家族のことを考えたら、とても口にはできない妄想だ。
彼らのなかには、「中学生くらいの女の子に好かれたいな」という願望がある人がいる。
また、何を見ても「男は悪くない、ずる賢い女にひどい目に遭わされただけ」と考えるクセがついている人もいる。
そして、実際の事件を見て、「もしかして、自分の願望通りのことが現実に起きたんじゃないか」と期待し、妄想してしまう。
だから、監禁された女の子は自分から男のところにとどまったことにしてしまうし、
必死で逃げ出したことを「喧嘩の腹いせに被害者ぶった」ことにしてしまう。
2016年、『幸色のワンルーム』が発表される直前の話である。
もちろん、彼らは『幸色のワンルーム』を読んでこんな妄想をしたわけじゃない。
だが、一人でもそんな妄想をして、それを他人にぶつけてしまうバカが、
『幸色のワンルーム』を読んだらどう思うだろうか。
「やっぱり俺の思った通りだ。この漫画は女にうけてるじゃないか。
女は家出して、男のところに泊まるのに抵抗がないんだ」
そして、そうなりそうなバカがたくさんいることを、私たちは朝霞の事件で目の当たりにしたのだ。
私は、読者が『幸色のワンルーム』を好きなことは何ら問題ないと思っている。
最初に書いたように、好きなものを咎められる必要もバカにされる必要もない。
だが、作者については、もう少し「バカに見つからないように」できなかったのか、と言いたい。
privetterを使うとか、注意書きをつけるとか、何か方法はあったはずじゃないのか。
しかし、誰かを傷つけたり、バカを調子づかせてしまう恐れがあるのなら、
作品で傷つく人が増えるのを、できる限り防ごうと努力することは必要だと思う。
それは、バズらせるよりも大切なことではないだろうか。
もしテレビで放映するのなら、バカに見つかる可能性はぐっと上がる。
そのことを、そのバカによって誰かが傷つけられることを、真剣に考えた上でメディアミックスを進めているのだろうか。
『幸色のワンルーム』という作品を、他人を傷つける道具にしてしまうバカに、「見つからないように」する努力。
そうして、きちんと「わかってる」人がこの作品を楽しめるようにしてほしい。
広告乙です。 作者ですかね。